第2話 : 殺された時間と、人を喰らう樹
『森界の樹木には記憶があり、石界の岩には癇癪がある。だがここの霧は――ここの霧には「食欲」がある。餌をやるな。触れるな。もし霧の中で何かが手招きしていたら、その反応しようとした自分の腕を切り落とせ』
——『流亡者図鑑:危険禁止区域編』
泥には記憶がある。そして、それらは酷く飢えている。
数十もの遺跡を掘り返してきた考古学徒として、李翰文はかつて、それらを歴史の揺り籠として扱い、毛筆で優しく撫でていた。
だが今、足元で血漿と内臓の破片を練り込んだこの泥濘は、貪欲な軟体動物の群れへと変貌していた。
それらは翰文の登山靴に吸着し、一歩踏み出すたびに、泥が肉を咀嚼するような卑猥な水音を立てる。
これは体力を削り取るための、陰湿な綱引きだ。
足裏から伝わる感触は、吐き気を催すほど豊かだった。
枯れ枝を踏んだかのような硬く乾いた骨の破砕感。市場の床に遺棄された豚レバーを思わせる、湿って弾力のある肉塊の感触。そして大半を占めるのは、脂ぎった死の滑り。
「クソ……俺の靴が……」
翰文の脳裏に、場違いな金額が点滅した。七千元。今回の実習のためにカード分割払いで購入した、現代工業の結晶。
高山を征服するために設計されたゴアテックスのテクノロジーは今、異界の死水に無力に浸され、その機能を完全に喪失していた。
この無意味な物質的焦燥は、眼前の地獄から逃避するために脳が構築した、最後の防衛障壁だった。
背中の女が、微かな音を漏らした。針先を爪の間に突き立てられ、喉の奥で無理やり押し殺したような、細く鋭い呼気。
ボロ布のような革衣越しに伝わる彼女の体温は、生物学の常識を嘲笑うかのように乱高下している。ある時は火のように熱く、次の瞬間には鉄のように冷たい。心臓の鼓動は、壊れたメトロノームのように狂っている。
「……もう少し耐えろ……」
翰文は鉄錆の味のする唾を飲み込み、荒い息を吐く。「……もうすぐ、このクソったれな場所を抜けられる……たぶん」
中国語で話しかける。通じるはずがない。
だが、世界から音声を削除されたようなこの死寂の中で、自ら「生者」の雑音を発しなければ、理性が闇に消化されてしまいそうだった。
前触れもなく、狂暴な気流が見えざる力によって「絞殺」された。
フェードアウトではない。余韻もない。
世界は「極動」から瞬時に「極静」へと崩落し、急激な気圧変化に鼓膜が悲鳴を上げる。
ヘッドフォンでヘヴィメタルを最大音量で流している最中に、プラグを乱暴に引き抜かれた感覚。喧騒は暴力的に抹消され、心臓を叩く電流ノイズだけが残る。
耳元で吠えていた風も、遠くで旗めく音も、すべてが何者かの検閲によって塗りつぶされた。
残ったのは、真空に近い絶対的な死寂。
直後、気温が垂直落下した。
その寒気には純粋な悪意が混じっていた。自然のグラデーションを無視し、誰かが背後で業務用の巨大冷凍庫を開放したかのように、鼻毛を一瞬で凍らせる冷気がうなじを直撃する。
「ツッ……」
翰文は激しく身震いし、全身の毛穴が粟立つ。
静かすぎる。血管の中を血が流れる轟音が聞こえるほどに。
周囲に漂っていた血とタール、そして死体の失禁した排泄物の臭気が、この瞬間だけ無限に増幅され、粘着質なゲルとなって鼻腔を塞ぐ。
背中の女が、激しく痙攣した。
無力に垂れ下がっていた両手が、翰文の肩に食い込む。爪が革衣を貫通し、僧帽筋に深く突き刺さる。
彼女は翰文の首筋に顔を埋め、砕けたガラス片のような声色で、一つの単語を吐き出した。
「……シラ……ナ……ヴェス……」
翰文は硬直した。
理解できるはずのない言語。
だがその瞬間、脳内で配線が焦げ付く臭いが炸裂した。激痛がアイスピックとなってこめかみを穿つ。
自分が口を開いた自覚さえなかった。その言葉は翰文の喉を借用し、生理的な恐怖を伴って飛び出した。
「……夜巡る者……」
意味は分からない。だが直感が、屠殺場の冷凍室に見下ろされたような悪寒を感知した。
あれは、「ゴミ」を掃除するためのシステムだ。
この「強制的に理解させられる」感覚に、頭皮が痺れる。ハッカーに脳を侵入され、ウイルスコードを直接書き込まれたかのようなおぞましさ。
「どこだ?」
声を押し殺して問う。体は石のように強張っている。
答えは不要だった。音が、すでに到来していたからだ。
死寂を切り裂くように、澄んだ金属音が響いた。
時間が二秒ほど凍結し、続いて二度目の音が重なる。
その硬質な響きに呼応するように、牛乳のように濃密だった白霧が、天敵を前にした獣のように恐怖して左右へ激しく退散した。
霧が「叩き割られ」てできた真空の通路。
そこへ、三つの巨大な黒い影が、単に歩いてくるのではなく、移動する黒い氷山のごとく、翰文の視界へと強引に侵入してきた。
一歩踏み出すたび、空間そのものが軋み、耐えきれずに低い唸りを上げる。
一見して、翰文はそれを人間の兵士だと誤認した。
だが次の一瞬、現代生物学の知識が警鐘を鳴らす――これは完全に異質なモノだ。
蝋人形を見ていたら、突然眼球が動いた時のような認知のズレ。
高すぎる。目測で二・五メートルはある。人類の骨格構造を完全に逸脱した比率。
全身を覆うのは深青色の重装甲冑。二つの不気味な月の光を浴び、その表面は液状の冷光を湛えている。深海の黒氷か、あるいは地球の科学では解析不能なナノセラミックスか。
継ぎ目がない。その甲冑は、彼らの肉体から直接「生えて」きた外骨格のようだ。
最も翰文を戦慄させたのは、頭部だった。
面頬もなければ、目鼻立ちもない。あるのは額から顎まで垂直に走る、一本の細長いスリットだけ。
その亀裂の深淵から、淡く、温度のない白い光が漏れ出している。
あれは眼球ではない。スキャナーだ。監視カメラのインジケーターだ。死神が名簿を照合する際に灯す蝋燭だ。
手には長柄の武器。
槍でも斧槍でもない。古代の宗教儀式に用いる杖に近い形状。漆黒の柄、先端には螺旋状の刻印、そして杖頭には青く発光する微小な結晶体が浮遊している。
三体の夜巡る者は並列していた。
互いに視線を交わすことも、合図を送ることもない。一つの巨大な脳を共有しているかのように、静默で、効率的で、絶対的に冷酷だ。
中央の個体が、ゆっくりと首を巡らせる。垂直の白光が薙ぎ払われる。
空気が低周波で震える音がした。光線が掠めた場所は、泥土の色が強制的に脱色され、惨めな白だけが残る。
千切れた死体が光に晒された。死寂な肉塊が何らかの力によって再定義され、血痕がより毒々しく目に焼き付く。
彼らは「観察」しない。「審判」するだけだ。
彼らのクソったれな論理規定に適合しないもの(例えば、生きている李翰文)は、エラーコードとして即座に削除される。
翰文は、喉に乾燥した綿を詰め込まれたような息苦しさを覚えた。
人類が対抗できる相手ではない。これは次元の違う暴力だ。
脳が絶叫する。ニュートン力学では説明できない。生物学でも無理だ。こんなの科学じゃない!
突如、遥か遠方の濃霧から、正体不明の凄絶な咆哮が轟いた。
声帯構造が根本から異なる生物が、極限の苦痛の中で上げる断末魔のように聞こえた。
三体の夜巡る者が、同時に反応した。長柄の兵装を掲げる。
空気が肉眼で見える波紋となって炸裂し、重い衝撃音が響く。
彼らは翰文の眼前から消失した。
いや、速すぎて残像しか残らなかったのだ。
人間が走る時に生じる重心の上下動も、筋肉の予備動作もない。見えない鋼鉄のワイヤーで強引に引かれたかのように、三本の青い稲妻となって地面を滑走していった。
衝撃波が濃霧をズタズタに引き裂く。
遠くの咆哮が唐突に途絶えた。首を捻じ切られた鶏のように。
「走れ……ッ」
翰文は冷や汗で全身を濡らしていた。
怪物が別の標的に気を取られている一瞬の隙に、生存本能が神経系を乗っ取る。
背中の女を担ぎ直し、奥歯が砕けるほど噛み締め、驚いた野良犬のように反対方向の闇の荒野へと飛び込んだ。
それは終わりのない逃走劇だった。
ここでは、時間は殺害された死体だ。丸められた紙屑のように、夜のゴミ箱へと無造作に放り込まれている。
どれほど走ったか分からない。
景色が変わっていた。砕けた鎧や死体の山は消え、代わりに異様な林が広がっている。
ここの霧は牛乳を煮詰めたように濃く、そして生きている。
風に流されることを拒否し、白い軟体虫の群れのように、樹幹の間をぬらぬらと蠕動している。翰文が通ると霧は自動的に左右へ分かれ、通過した直後に背後で閉じる。まるでその開閉運動によって、退路を消化しているかのように。
翰文はよろめき、近くの大樹に肩を預けて呼吸を整えようとした。
だが、この樹は何かが狂っている。
幹は病的な灰白色で、人間の皮膚に酷似した滑らかな質感を持っており、表面には青紫色の静脈のような紋様が走っている。
枝はすべて空に向かって奇妙にねじれ、生き埋めにされた人間が助けを求めて突き出した腕の群れそのものだ。
掌が樹皮に触れた瞬間。
電流がショートするような不快な感覚と共に、あの馴染み深い、胃液を逆流させる眩暈が襲ってきた。
今度は映像ではない。音声だ。
無数の細かく、鋭い囁き声が聴神経の上で直接炸裂する。数千匹の見えない幼虫が頭蓋の中で蠢き、餌を乞うている感覚。
声は重なり合い、湿った不快感を伴って意識にねじ込まれてくる。
『喉が渇いた……律をくれ……』
『行かないで……根になって……養分になって……』
『光……光が必要なの……』
翰文は感電したように弾かれた。胃袋を冷たい手で鷲掴みにされたような悪寒。
恐怖に目を見開き、樹を凝視する。
触れたばかりの場所、その灰白い樹皮が紅潮し、その下で血液が加速して流れているのが見えた。
木材じゃない。これは樹木のフリをした、生きた生体組織だ!
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【第2話】被謀殺的時間與吃人的樹(後編)
(日文標題:殺された時間と、人を喰らう樹 - 後編)
掌を押し当てた瞬間、樹皮の下の血管が脈打ち、強力な吸引力で掌を吸い寄せ、皮膚ごと肉を引き剥がして飲み込もうとしていたのだ。
皮を剥いだばかりの、飢え乾いた生肉に触れたような感触。
脳内に鋭い吸引音が響く。
――腹減った……律をよこせ……逃げるな……。
これは植物に偽装した、貪欲な血管の塊だ。
「……ッ、このクソ世界は、木一本でさえカタギじゃねえのかよ」
翰文は悪態をつき、掌をズボンで乱暴に擦った。あの粘つく感触を削ぎ落とすかのように。
「……水……」
女の虚弱な声が再び響く。彼女の指が震えながら、左前方の霧の深淵を指し示した。
「……青い……水……」
指差された方向を見る。
何重にも重なり合う白い肉虫のような霧の奥から、確かに幽玄な青い光が透けて見えた。
それは自然光ではない。月光というよりは、核廃棄物貯蔵プールで見るような、致死的で魅惑的なチェレンコフ放射光に近い。
「水だって? 本気か? 工業廃液にしか見えねえぞ」
減らず口を叩きながらも、足は正直にそちらへ向かう。喉は渇きで焼き切れそうで、女の体温は急速に失われつつある。
蠢く灌木の茂みを抜けると、視界が開けた。
だが、その光景は彼の「自然」に対する定義を粉砕した。
それは清流ではない。黒い岩盤の上を蛇行する、発光する裂け目だ。
幽青色の液体が無音で流れている。その質感はあまりに粘着質で、重い。巨大生物を解剖した際に流れ出た冷却液のようで、暗闇の中で放射能じみた妖しい輝きを放っている。
その光は周囲の影樹を青白く照らし出し、野次馬の幽霊のように浮かび上がらせている。
翰文は膝をつき、関節の痛みに耐えながら、背中の無機質な重荷を慎重に苔むした岸辺へ降ろした。
渓流の青い蛍光が彼女の顔を這い上がり、血の気を失った皮膚を透明に近い色へと変える。
それは人類の概念を超越した肌色だった。病的なまでに透き通った、青紫の血管が透ける死寂の白。少しでも力を込めれば砕け散りそうな脆さ。
目鼻立ちは生物進化の粗雑さを否定するほど精緻で、狂気の芸術家が死の瞬間に彫り上げた最後の傑作――完璧だが、不安を煽る異質の美しさを放っている。
だが今、その「芸術品」は崩壊の瀬戸際にあった。
乾いた血痕が頬で黒い瘡蓋となり、純白の磁器を這う醜悪な百足のように見えた。
極致の美と、破滅的な傷跡。その対比が**眼裏**で激突し、生理的な惜別と戦慄を引き起こす。
鎖骨には骨まで達する深い傷口が開いていた。赤い血は流れていない。代わりに、淡い金色を帯びた液体が滲んでいる。
傷口は炎症で赤く腫れることなく、砕けた陶器のような亀裂を見せている。
彼は青い水を両手で掬った。
指先が発光体に触れた瞬間、氷の刺突が神経末端を駆け上る。
液体窒素に手を突っ込んだような、あるいは剥き出しの高圧電線に触れたようなショック。
脳の奥底で、鉄錆の味を伴う甘美な感覚が湧き上がる。あの「寄生虫」が興奮して震えているのだ。
言葉はない。だが、翰文の直感が矛盾したシグナルを受信した。
――これは薬だ。そして毒だ。
強力接着剤のように砕けた肉を強引に接合するが、その発光は……核放射線に近い種類の、暴走するエネルギーによるものだ。
「知ったことか。毒でも飲まなきゃ死ぬだけだ」
水を女の唇に近づける。
彼女は本能的に数口飲み込んだ。すると、苦痛に歪んでいた眉間が解け、鎖骨の恐ろしい亀裂の拡大が停止した。
本当に特効薬だったのか。
自分も一口飲もうとした、その時――
「天敵」に捕捉されたという悪寒が、尾骨から脳天へと突き抜けた。
濡れた布を引き裂くような、湿った破壊音が響いた。
対岸の濃密な白霧の中から、何かの巨体が内側から白い幕を乱暴に引き裂いて現れた。
灰黒色の鱗に覆われ、関節が醜くねじれた異形の爪が、岸辺の黒岩を鷲掴みにする。
錆びた鎌のような爪は容易く岩を削り、その隙間から粘つく黒い液を滴らせている。
続いて、頭蓋が押し出されてきた。
同時に、喉を絞め上げるような悪臭――発酵した内臓、硫黄、そして腐った死水のカクテル――が鼻腔の奥で爆発し、嗅覚神経を麻痺させ、胃袋を激しく痙攣させる。
直感が叫ぶ。逃げられない。あいつの筋肉構造は歩行用じゃない、引き裂くために設計されている。
その目には理性などない。すべての動くものをタンパク質として認識する、濁った欲望だけがある。
怪物は地面の女を凝視し、鼻孔を膨らませた。明らかに、あの金色の血の匂いを嗅ぎつけたのだ。
翰文を無視し、身を低くする。喉の奥で、金属でガラスを引っ掻くような低い唸り声を上げながら。
翰文の手には、あのボロいナイフしかない。
女の前に立ちはだかるが、足は茹でた麺のように力が入らない。
「詰んだな……来て早々、飼料になるのかよ……」
怪物が撲殺の体勢に入った、その刹那。
清冽で、長く尾を引く、絶対的な金属音が林の後方から響き渡った。
その一撃で、時間が凍結した。
凶悪な殺意の塊だったはずの怪物が、空中で無理やり体を捻り、無様に地面へ転がった。
攻撃してこない。地面に縮こまり、震えている。
虎に遭遇した家猫そのものだ。遺伝子の深層から湧き上がる恐怖によって、凶暴性が一瞬で去勢されている。
それは怯えた目で音の方向を一瞥すると、尾を巻き、悲惨な哀鳴を上げながら濃霧の中へと逃走した。
翰文は呆然とした。
直後、怪物と対峙した時よりも深く重い寒気が、背筋を這い上がってくる。
この音を知っている。
これは救援なんかじゃない。
三十分前、あの屍の戦場で、彼をネズミのように霧へ追い込んだ、あの死寂で規則正しい喪鐘の音だ。
狼を追い払うのは、いつだって、より凶悪な虎だ。
金属的な反響音が近づいてくる。地面の小石が微振動し、三つの重い質量の圧迫感に応えている。
翰文は弾かれたように振り返った。
樹林の隙間から、あの見覚えのある、窒息しそうな三点の幽青色の光が見えた。驚異的な速度で迫ってくる。
奴らはあの名もなき獣を処理した。そして今、俺たちの番だ。
あの亡霊のような夜巡る者たちが、また追いついてきたのだ。
時間のないこの夜において、
死は終わりではない――
ただの「清算」だ。




