第19話:喉の奥のガラス片と、地獄を開く呪文
「名前は、最も短い呪文だ。それは『あなたが誰か』を定義し、同時に『あなたの首を絞める縄』にもなる。風界において、我々は軽々しく子供に名を与えない。一度風がその発音を記憶してしまえば、あなたは二度と風の中で透明にはなれないからだ」
――『風界育児歌謡(発禁版)』
もし地獄に臭いがあるなら、間違いなくここの臭いだろう。
単なる糞便や死臭という言葉では形容し難い。それは数千年間発酵し続けた絶望の臭いだった。数え切れないほどの「律」が閉鎖空間で変質し、酸化し、最後には黒い粘液となって放つ化学的な悪臭。トラック一台分の死んだ魚を、沸騰した残飯バケツにぶちまけたような臭いだ。酸っぱく、粘り気があり、呼吸すらできないほど鼻を刺す。
「……オエッ」
李翰文は滑りやすく湿ったパイプの壁に手をつき、涙が出るほどえずいた。さっき食べたばかりの圧縮糧食が胃の中で暴れ回り、危うく無駄になるところだった。
「これが地図に書いてあった……『排汚管』だって?」
彼は袖で口と鼻を死に物狂いで覆ったが、声は布越しにくぐもっていた。
「この塔は一体何を排泄してるんだ? 核廃棄物でも食って育ったのか?」
足元の道――もし黒い糊のようなものが流れる溝の縁を道と呼べるなら――は、幅五十センチもなかった。その黒い粘液はゆっくりと流動し、表面には緑色の気泡が浮かび、「ボコッ、ボコッ」という破裂音を立てていた。
「ジッ」という脆い音と共に気泡の一つが弾け、飛沫が翰文のズボンの裾に落ちた。布地から瞬時に白煙が上がり、縁が焦げた穴が開く。皮膚に火傷のようなヒリヒリした痛みが走った。
「……その水に……触らないで……」
背後の女の声は弱々しく、彼女はスカートの裾を高く持ち上げ、慎重に翰文の足跡を辿っていた。
「……それは……死んだ律……触れると……溶けるわ……」
「ご忠告どうも。俺のふくらはぎは既に教育的指導を受けてるところだ」
翰文はズキズキと痛む焦げた右手を見、それから足元の、人を溶かすに十分なこの「冥河」を見た。
前にはギロチン、後ろには追っ手、足元には化骨水。この地獄めぐりツアーは本当にお値打ちだ。二度と参加したくないがな。
彼らはこの窒息しそうな排泄管の中を、二十分ほど移動した。
パイプは次第に狭くなり、空気は薄くなり、あの酸っぱい腐敗臭はもはや気体ではなく、皮膚にへばりつく油膜のように実体化していた。
不意に、足元の闇が断ち切られた。
行く手を阻んだのは、神秘的な光沢を放つ青い結晶の壁だった。
半透明の巨大なゲートだ。表面には心悸を覚えるような幾何学的な光の回路が流れており、まるで下水道に無理やりねじ込まれた宝石のようだった。それは冒涜を許さない柔らかな冷光を放ち、周囲の汚穢とはあまりに不釣り合いだった。まるで手術室の無影灯が、汚水槽の中を照らしているようだ。
分厚い隔壁を越えて、くぐもった咆哮が聞こえてくる――それは高圧環境下で気流が狂ったように逃げ出す音だ。
風だ。
あれは通気口。出口だ。あれは自由への呼吸音だ。
「……着いたぞ」
翰文は興奮して駆け寄ろうとしたが、ゲートまであと二メートルのところで、急ブレーキをかけたように止まった。
脳内の「残り火」が突然、鋭い「ブーン」という共鳴音を爆発させたのだ。高空の希薄な酸素を吸い込んだような、冷たく窒息する感覚が心臓を鷲掴みにした。
その音は、ある**「概念」**を彼の脳に直接焼き付けた。高潔な潔癖さを伴って。
『非浄化者……立ち入り禁止。』
『汚染検知……異物検知……』
『洗浄プログラム……起動準備……』
翰文は恐怖して後ずさった。
この扉は生きている。しかも致命的な潔癖症だ。扉は彼の接近を拒絶し、翰文をこのパイプ内の「汚物」として認識していた。
「……この扉……俺を差別してんのか? ふざけんな」
翰文は信じられない思いで、新品同様に輝くクリスタルの扉を見た。
「俺だって腐っても博士課程だぞ。今はちょっと汚れて落ちぶれてるが……」
彼は試しに小石を拾って投げつけた。
予想していた「カツン」という衝突音はしなかった。石は弾かれなかった。光に触れた刹那に静止し、翰文の目の前で崩壊したのだ。
猛烈な、肉眼では見えない高圧乱流がその岩石を一瞬で「消化」し、細かな石粉に変え、まるで骨灰のように翰文の顔に吹き付けた。
風だ。ゲートの表面は高圧の気流で覆われている。圧縮空気でできた透明な挽肉機だ。強行突破しようとするあらゆる物体は、この暴虐によって瞬時に塵へと還元される。
「……これは……風律鎖……」
女が翰文の隣に並んだ。彼女はその扉を見つめ、目に絶望の色を浮かべていた。
「……風の血脈しか……開けられない……」
「じゃあ試してみるか?」翰文は場所を譲り、期待を込めて彼女を見た。
女は無言で手を伸ばし、掌をその気流の層に押し当てた。青いペンダントが輝き出し、ゲートと共鳴を始める。気流が少し穏やかになった。まるで思考し、躊躇い、審査しているかのように。
だが次の瞬間――
ドォォンという轟音と共に、ゲートは警告を象徴する赤色へと変貌した。巨大な斥力が暴力的に女の手を弾き飛ばし、彼女をよろめかせた。
「……嘘……」
女の顔から血の気が引いた。紙のように白い。
「……私を……認識してくれない……」
「……私には……名前がないから……」
翰文の心臓が早鐘を打った。
「どういう意味だ? IDカードを見せろってか?」
「……律法には……真名が必要なの……」女は胸を押さえて苦しげに言った。「……名前がない私は……あの子にとって……ただの空気……あるいは……不純物……」
『名無シハ……承認サレナイ……』
直後、背後から身の毛もよだつ「ゴボゴボ」という音が聞こえた。
後ろの黒い粘液の川が、なんと水位を上げ始めていた。ゲートの拒絶反応か、それともこの塔の自動洗浄システムか。強腐食性の「死んだ律」が急速に押し寄せ、彼らが歩いてきた道を飲み込んでいく。
「クソッ! 水かさが増してやがる!」
翰文は白煙を上げる黒い水が足元に迫るのを見た。右足の唯一のブーツの底が「ジュッ」と腐食する音を立て、ボロ布を巻いただけの左足には、頭皮が痺れるような灼熱の激痛が走った。
「お嬢さん、名前があろうがなかろうが、早くその扉を騙す方法を考えてくれ! じゃないと俺たちはこのスープの具材になっちまう!」
女は扉を見、そして振り返って迫り来る沸騰した黒い水を見た。体が勝手に震え出す。その目は過去の深いトラウマを映していた。彼女が恐れているのは死ではない。過去に彼女を戦慄させ、極度な拒絶反応を植え付けた「何か」だ。
「……もし……口に出せば……」
彼女の声は煙のように儚かった。
「……鎖が……私の首をへし折る……」
翰文はすぐに理解できなかった。だが、記憶の中の「見えない鎖」が再び締まり、気管を圧迫する感覚を思い出した。それは単なる記憶ではなく、頸椎が外力によって折られそうになる幻痛であり、あまりにリアルで喉の奥に血の味がした。
これは精巧に仕組まれた「詰み(チェックメイト)」だ。口を開けば絞首刑、黙っていれば溶解刑。どのみち待っているのは肉の塊になる結末だ。
足元の黒い水は最後の足場をも飲み込み、身の毛もよだつ沸騰音を立てていた。左足の薄いボロ布は瞬時に溶かされ、無数の焼けた針が足の裏の皮膚にねじ込まれるような激痛に、翰文は粘液の中に膝をつきそうになった。
「なら……言うな」
翰文は彼女を引っぱり、少し高い石の上に立たせた。
「俺が何とかする。俺は無律者だ、ヒューズだ。前回みたいに、この扉もショートさせられるかもしれない……」
翰文は鉄の棒を振り上げ、再び自爆テロを演じようとした。だが今回は状況が違うとわかっていた。前回は機械だったが、今回は純粋なエネルギーの嵐だ。もし本当に鉄の棒を突っ込めば、彼の手は消滅するだろう。
彼が真剣にそれを検討していた時、突然、裾を掴まれた。女が静かに彼を見上げていた。
彼女は、自分を救うために既に満身創痍になり、今また死にに行こうとしているこの異邦人を真剣に見つめた。その目は違っていた。先ほどの恐怖は消え、代わりに宿っていたのは……狂気じみたギャンブラーの光だった。
「いいえ……いいの」
彼女は翰文をそっと突き放し、再びゲートへと歩み寄った。
「おい! 何する気だ!?」
「……この扉は……生きている……」
彼女は青い光を放つゲートを凝視し、震える、だが確固たる声で言った。
「……あの子は……その名前を聞きたがっている……賭けるわ……あの子の**『渇望』**が……私の首の鎖よりも……強いことに」
「は? どういう意味だ?!」翰文は理解できなかった。
女は答えなかった。彼女は両目を閉じ、両手で胸のペンダントを握りしめた。そして口を開き、あの禁忌の音節を発しようとした。
耳障りな、骨が軋む「ギチッ」という音が響いた。
目に見えない、黒い光を放つ鎖が虚空から現れ、彼女の首に死に物狂いで食い込んだ。鎖は律法の処罰を象徴し、今まさに処刑を執行しようとしていた。鮮血が即座に彼女の口角、鼻孔、耳から溢れ出す。喉の軟骨が変形していくのが見えた。首がへし折られるのは時間の問題だ。
「やめろ! おい……鳥人! 止まれ! 死ぬ気か!?」
翰文は驚愕して駆け寄り、彼女を抱きすくめ、その口を塞ごうとした。
だがその時、奇跡――あるいは古代システムの生存本能――が起きた。
彼女が発音しようとしたことで、目の前の巨大な青いゲートが、その**「馴染み深い周波数」**を感知したのだ。
平滑だった結晶の表面に波紋が広がり、触手のような青い光の束が伸びてきた。それは貪るように女の喉に絡みつき、その瀕死の肉体が発する音節を読み取ろうとした。
完全な呪文など必要なかった。この欠けた音節に含まれる血脈の周波数こそが、鍵穴に正確に差し込まれた鍵となり、眠れる巨構を瞬時に活性化させたのだ。
死寂に包まれていた結晶内部で、耳をつんざくような「ブーン」という共鳴音が爆発した。千年眠っていた生き物が、叩き起こされて激怒した咆哮のようだ。
狂暴な音波は実体のある衝撃となり、空気抵抗を無視し、女の首を絞める黒い鎖に正確かつ暴力的に叩きつけられた。
二つの相反する律法が、女の細い首の上で殺し合い、衝突する。翰文は至近距離の衝撃に耐えきれず、横へと弾き飛ばされた。
現世の呪いが彼女の気管を絞め切ろうとし、古の門扉がその枷を引き千切り、自らの子供を奪い返そうとする。
刺すような青い光の中、あの黒い鎖が実体化し、激しい振動の中で無数の亀裂が入った。
女がカッと目を見開いた。琥珀色の瞳の中に、ゲートと同じ金色の烈火が点った。
彼女はもう声を出す必要がなかった。なぜならこの扉が……彼女の代わりに轟音という名の答えを発してくれたからだ。
下水道全体に、ガラスが砕け散るような清冽な音が響き渡った。女の首にあった見えない黒い鎖が、ゲートの強大な共鳴衝撃によって、無理やり弾け飛んだのだ。
それはわずか一瞬のことだったが、十分だった。
目の前の難攻不落だった青いゲートが、臣服するかのような低い「ゴゴゴ……」という唸り声を上げた。狂暴な気流が崩壊し、直視できないほど眩しいエネルギーの光塵となって散った。
耳障りな重金属の摩擦音と共に、巨大な青いゲートは、巨獣が閉ざしていた牙を開くように、ゆっくりと両側へと退いていった。
高空の冷気と自由の匂いを孕んだ暴風が、空へと続く縦穴から吹き荒れ、瞬時に下水道の腐臭を吹き飛ばした。
「……ハッ……」
女は肺の最後の一滴まで空気を絞り出したような、虚脱した音を漏らした。
体を支えていた意志力が切れた。彼女は緩衝もなく、糸の切れた人形のように、無防備に冷たい地面へ倒れ込みそうになった。真名を言い切ることはできなかった。だが彼女の首には、あの痛々しい紫黒色の痣がくっきりと残り、死神とすれ違ったことを証明していた。
翰文が飛び出し、彼女を受け止めたタイミングは完璧だった。
「おい! このイカレ女! 生きてるか!?」
彼はすぐに女の鼻息を確認した。呼吸はある。脈拍は風前の灯火のように弱々しいが、胸元にはまだ温もりが残っていた。
背後の黒い水は最後の足場を貪り尽くし、無数の小さな口が岩を咀嚼するかのような腐食音を立てていた。
「行くぞ!」
翰文は歯を食いしばり、死神の鎌の上で独舞を踊ったばかりのこの狂った女を抱き上げ、刺すような白い光が溢れる扉の中へと飛び込んだ。
狂暴な気流が正面から激突し、その圧力で押し戻されそうになる。これは本物の、冷気と空の匂いを含んだ風だ。風は地下の腐った死気を吹き飛ばし、乱暴に肺に流れ込み、呼吸道に残る悪臭を強引に洗い流していく。最初は不快だったが、すぐに泣きたくなるほどの爽快感に変わった。
ついに目的地――風井に到達したのだ。
その瞬間、重力が失効した。
二人は瞬時に巨大な上昇気流に捕獲された。無重力感に胃袋が痙攣し、血液が一気に頭頂へ逆流する。気圧の激変で鼓膜が「ポポッ」と張る音がした。
彼らは嵐の目に巻き込まれた二枚の枯れ葉のように、抗う術もなく、この空へと続く深い井戸の出口へと吸い込まれていった。
急速上昇の眩暈の中で、翰文は無意識に下を見た。
足元の底知れぬ暗黒の深淵で、閉じようとしているゲートの隙間から、無数の微光を放つ目が、彼らの去り際を静かに見つめているようだった。それは地獄からの別れの挨拶であり、生存者への無言の嫉妬でもあった。
ゲートが轟音と共に閉鎖され、あの腐った黒い水も、汚らわしい下水道も、過去のすべてを、再び地獄の中へと閉じ込めた。




