第13話 : 風に裂かれた喉笛と、灰色の津波
『風界の処刑は決して血を見ない。血が流れる前に、傷口が風乾してしまうからだ。彼らはそれを慈悲だと言うが、俺に言わせればただの潔癖症だ。天の上に住むクソ野郎どもは、人殺しで手袋を汚すことさえ嫌がるのさ』
——『北陸辺境酒場の酔っ払いによる録音記録』
崖っぷちで銃を突きつけられる気分とは、どういうものか?
李翰文は以前は知らなかったが、今は骨身に沁みて理解している。ただし、突きつけられているのは銃ではなく、風だ。
鳥嘴のマスクをつけた男は、指一本動かしていなかった。
ただそこに佇み、灰白色の薄膜スーツを狂風にはためかせているだけだ。だが、彼を取り巻く空気の質が変わった。剃刀のように鋭利で、純粋な悪意を孕んだものへと変質している。
頬に冷たいものが走った。触れると、指先が赤く染まる。
髪の毛ほどの細さの傷口が、何もない空間から突如として頬骨に刻まれたのだ。痛みはない。氷の破片で撫でられたような麻痺だけがある。
「……その女を……渡せ……」
鳥嘴男の声は風に濾過されたように不純物がなく、温度もなかった。
「……貴様ごときが……風の御前に立つ資格はない……」
翰文は、汗ばんだ手でナイフを握りしめた。この刃こぼれした鉄屑は、今や悪い冗談にしか見えない。目の前の男は指を動かす必要すらないのだ。視線一つで――あるいは不可視の空気力学だけで――彼を生きたまま刺身にできる。
「資格がないだって?」翰文は引きつった笑みを浮かべ、震える女を背に庇った。「兄弟、そのマスク超イケてるじゃん! どこで買ったの? ヴェネツィアのカーニバル? それともハロウィンの夜市で特売だった?」
デタラメを並べて焦点をずらそうとする。極限の恐怖に対する生理的反応だ。口を動かしていなければ、歯の根が合わずに砕けてしまいそうだった。
鳥嘴男は冷ややかに見下ろすだけで答えなかった。
哀れな虫を見る鷲のように首を僅かに傾げると、空気が微かに振動し、低周波の唸りを上げた。
脳内で回路が焼き切れるような鋭いノイズが走り、「寄生虫」が絶叫した。焦げた羽毛の臭いが鼻腔に充満する。
鼓膜を焼けた針で刺し貫かれるような激痛。視界が歪み、彼は無形の殺意を「視た」。
切り刻まれた空。視認不可能な速度の刃。そして極限まで圧縮された気流。
『風律・真空切』
この気流は彼に触れる必要がない。空気が流れる場所ならどこでも、そこが断頭台になる。
脳内警報が引き伸ばされた不快音となり、首筋に冷たい幻痛が走った。濡れた剃刀の刃がすでに頸動脈に当てられている感触。金属の冷気が皮膚を刺す。
寄生虫が翰文の運動神経を狂ったように引き絞り、唯一の生存本能を脳裏で咆哮させる。
『呆けるな! 斬首ラインだ! 首を縮めろ! 頭と胴体を別居させたくなければしゃがめ!』
「おいッ!」
思考する暇はなかった。激痛に操られるまま、体ごと地面に叩きつけるようにしゃがみ込んだ。
頭上で、布を引き裂くような乾いた音がした。空気が物理的に切断された音だ。
背後にあった太い金属の手すりが、音もなく両断された。切断面は鏡のように滑らかで、白い冷気を上げている。
数本の黒髪がひらりと舞い落ちる。コンマ五秒遅ければ、落ちてきたのは彼の頭蓋骨だっただろう。
「……ほう?」
鳥嘴男が微かに感嘆した。踏み潰そうとした虫が避けたことに意外性を感じたようだ。
「……多少は……勘が良いようだな……」
彼は流れるような動作で手を上げ、指揮棒を振るうように指を弾いた。
風の音が変調する。単一の風切り音ではなく、無数の小さなナイフが互いを研ぎ澄ますような、不快で甲高い摩擦音へ。
周囲の気流がねじれ、十数個の透明な渦を形成していくのが見えた。それは生命を持ったドリルのように、翰文と女に狙いを定めている。
「これが風界の客あしらいかよ!」翰文は絶望的に叫び、女を抱え込んで伏せた。
睨みつけることしかできない。千切りの刑に処される運命を待つしかない。
その時、女が動いた。
彼女はまだ死にたくなかった。あるいは、翰文が死ぬのを見たくなかった。
胸元の青いペンダントを死に物狂いで握りしめる。指の関節が白くなり、噛み破った唇から滴った鮮血が結晶に染み込む。
名前を言えず、「律法」に禁言されていても、その体にはまだ風の血が流れている。
「……させ……ない……ッ」
喉から血を吐くような低吼。
彼女を中心にして、狂暴な乱気流が爆発的な轟音と共に噴出した。精緻な空気の刃ではない。純粋で、無秩序な嵐。気体手榴弾が二人の間で炸裂したような衝撃だ。
十数個の精密な気流のドリルは、その乱暴な風に吹き散らされ、霧散した。鳥嘴男でさえ数メートル後方へ吹き飛ばされ、優雅だった姿勢を崩した。
「……汚らわしい……血だ……」
鳥嘴男は空中で体勢を立て直したが、その声には明確な嫌悪が滲んでいた。「……貴様は……風さえも汚染するのか……」
背後に控えていた二名の「風律哨兵」が、同時に長弓を構えた。弦に矢はない。引き絞ると同時に、周囲の空気が収束し、青く発光する透明な矢が形成される。
今度は、逃げ場がない。
数百メートルの高空、背後は壁、前は処刑隊、下は深淵。
チェックメイトだ。
翰文は放たれる寸前の空気矢を見つめ、思考が白く染まった。脳内の「寄生虫」も沈黙している。治療を放棄した医者のように、ただ死灰のような冷たさを放っているだけだ。
「悪いな、鳥人のお嬢さん」翰文は抱きかかえた女に苦笑した。「ツキが尽きたみたいだ。これで銀行の借金も踏み倒せる。それだけが唯一の……」
彼の遺言は、中断された。
足元の地面が、奇妙に振動したからだ。
爆発のような衝撃ではない。何かが内部で蠢き、身をよじるような生理的な揺れ。黒い塔全体が、悪寒に震えたかのように。
眼下の深淵を漂っていた白い霧が、突如として変色した。
テレビの砂嵐のような、吐き気を催す死灰色へ。
あの馴染み深い、神経を逆撫でするジジジ……という音が再来した。
李翰文はずっと、それを電子的なノイズだと思っていた。ハイテクな妨害電波の類だと。
だが今、数千数万の怪物が合流し、音が増幅されたことで、彼はついにその音の「正体」を聴き取った。
電流音ではない。
それは、無数の乾燥した、死に絶えた微細な砂礫が、互いに擦れ合い、削り合う音だった。
目の粗いサンドペーパーで鼓膜を直接研磨されるような、乾いた不快音。
「……なんだ……あれは?」風律哨兵の一人が、恐怖に声を裏返して指差した。
翰文が身を乗り出すと、鼻腔は瞬時に、古い墓室特有の埃っぽい臭いで満たされた。
眼下に広がる白茫々たる海原は、霧でも映画の特撮でもない。すべてが、燃え尽きた後に残る「灰」だった。
無数の「灰律狩人」――これまで点滅するノイズの怪物だと思っていたそれらが、近距離でその醜悪な実体を曝け出した。
密集した灰色の骨灰と塵埃が、無理やり人型に凝縮されている。水分はなく、体温もない。歩く局地的な砂塵嵐の群れ。
それらは黒い塔の外壁を這い上がり、通過した空間から瞬時に水分を奪い去っていく。
灰の波濤から巨大な腕が伸び、空中にいた風律哨兵の一人を鷲掴みにした。
悲鳴はなかった。
声帯が振動するより早く、その身体が**「風化」**したからだ。
千万年の時を経たミイラが空気に触れた瞬間のように、彼のスーツも、皮膚も、血肉も、一瞬ですべての水分と結合力を喪失した。
さらさらと崩れ落ちる乾燥した砂礫となり、灰色の波に飲み込まれ、その一部となった。
翰文は総毛立つような悪寒を感じた。
これこそが「削除」の正体――消失ではなく、塵土への回帰。
彼の周囲の風さえも「喰われ」ていた。死寂の塵へと還元されていく。
「……化け物め……!」残った哨兵が錯乱し、灰の塊に矢を乱射する。だが空気の矢は水飛沫さえ上げることなく、原始的な粒子へと還元されて消えた。
対峙していた戦況は崩壊した。鳥嘴男は空中で灰の触手を必死に回避している。
翰文たちのいるプラットフォームが、音を立てて崩れ始めた。
前門の虎、後門の狼、足下は破滅。
「詰んだ……」翰文は絶望的に周囲を見回した。
その時、懐の女が頭上を指差した。
プラットフォームの三メートル上空に、破断した巨大な金属パイプが突き出している。先ほどの爆撃で壊れたものだ。パイプの口からは青い火花が散り、空気を吸い込む音がしている。
排気口ではなく吸気口。塔の循環システムか? とにかく強力な吸引力が、周囲の瓦礫や塵を吸い込んでいる。
「……あそこ……」彼女はパイプを指す。「……吸ってる……」
だが、高すぎる。ジャンプでは届かない。
「……風……」女は翰文の手を掴んだ。その瞳には決絶の色があった。
ペンダントが再び輝き出す。攻撃のためではない。最後の賭けのために。
「……私が……あなたを……上げる……」
「上げるってなんだ? 行くなら一緒だろ!」
「……足りない……」彼女は力なく首を振った。口端から鮮血が溢れる。「……力は……一人分しか……」
灰色の波がプラットフォームの縁を乗り越えてきた。あの吐き気を催す砂の摩擦音が、すぐ耳元で響く。
誰も助けには来ない。全員死ぬのだから。
「ふざけんな!」
翰文は不意に彼女の腰を掴み、高々と持ち上げた。
「お前は風族だろ! 幽霊みたいに軽いんだよ! 一人しか行けないなら、それはお前だ!」
「私を投げる? 冗談じゃない、俺の体重とこのクソ重い靴じゃ、お前のそよ風じゃ持ち上がらねえよ!」
女は呆然と見下ろした。泥だらけで、必死な形相の男を。
「……あなた……」
「早くしろ! 一緒に死ぬか、お前が生きるかだ! ……お前が先に行け!」
翰文が吠え、腕の筋肉を隆起させる。
女は唇を噛み締め、涙を流しながらも、迷いを断ち切った。
ペンダントが眩い青光を爆発させる。強力な上昇気流が彼女を包み、翰文の腕力を推進力に変えて、彼女は一羽の鳥のように宙を舞った。
吸い込まれるようにパイプの口へと飛び込み、縁を掴む。吸引力が彼女の細い体を引きずり込む。
「……入った!」
翰文は安堵の息を吐き、その場に崩れ落ちた。頭上の黒い穴を見つめ、そして足元まで迫った灰色の死を見つめる。
左足のつま先が、分解を始めていた。
七千元の登山靴――最後のローンも払い終わっていない相棒――の先端が、急速に乾燥し、ひび割れ、飛灰となって散っていく。
痛くはない。
ただ、自分の存在が削り取られていくような、虚無的な麻痺だけがある。
「……まあ、いいか」翰文は観念して目を閉じた。「……ローンの残りは踏み倒しだな」
その時。
一本のロープ――いや、それは革ベルトと布切れと、発光する風がより合わさった紐――が、パイプの口から垂れ落ちてきた。
正確に、彼の手元へ。
「……掴んで……早くッ!」
パイプの中から、女の裂帛の叫びが響いた。
翰文は目を見開いた。風に揺れる細い命綱。靴はすでに半分消失し、蒼白な足指が露出し、致命的な「風化」が皮膚に達しようとしている。
彼は反射的に手を伸ばし、その紐を死に物狂いで掴んだ。
「……引くッ!」
凄まじい力が――風の力と、あの女が命を削って絞り出した力が――彼を灰色の死の海から強引に引き剥がした。
足の裏を、灰色の塵が掠めていく。
生死の境は、わずか一センチだった。
風に巻かれ、翰文は暗いパイプの中へと吸い込まれた。
背後でプラットフォームが完全に崩壊し、灰色の波に飲まれる音がした。鳥嘴男の無念の怒号が遠ざかり、灰の海に消えていく。
暗闇のパイプの中。
翰文と女は狭い空間に折り重なり、激しく喘いでいた。二人とも、挽肉機から這い出してきた肉片のようにボロボロだった。
左足の靴はない。靴下さえも消滅している。
足の指先は皮一枚削ぎ落とされ、鮮紅色の肉が覗き、縁には灰色の粉末が付着していた。だが、足そのものは残っている。
右足の靴は残っていたが、炭化して黒煙を上げていた。
「……お前……行かなかったのか……」
翰文は目の前で肩で息をする女を見た。
彼女は顔の血を拭い、琥珀色の瞳を暗闇の中で燃やしていた。
言葉はなかった。
ただ黙って手を伸ばし、翰文の震える手を、そっと握りしめた。
それは彼女がこの世界で掴んだ、最初の「同類」だった。
パイプの奥底から、風の嗚咽が聞こえる。
彼らは生きている。
今のところは。




