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第12話 : 職人の私心と、袋小路の風音



『偉大な建築には常に瑕疵かしがある。それは職人の腕が未熟だからではない。凡人には私心があるからだ。彼らは神の眼を盗んで、へそくりや禁制品、あるいは「律」が崩壊した時に逃げ出すための虫の道を隠す。この卑小な裏切りを称えよ。それこそが我々の唯一の活路なのだから』



  ——『|灰の塔構造リバースエンジニアリング・ノート《グレイ・スパイア・リバース・エンジニアリング・ノート》・第三章:隠し扉と冒涜について』



 螺旋階段がついに尽きた。



 だが、そこは出口ではなかった。あらゆる可能性を拒絶する、絶望的な壁だった。



 李翰文(リー・ハンウェン)は最後の段差にへたり込み、荒い息を吐いた。



 目の前に立ちはだかるのは、冷たく、滑らかで、継ぎ目一つない黒い金属の壁。神様が極めて悪質な冗談を仕掛けたとしか思えない。



 この塔は、そもそも「歩行」のために設計されてなどいなかったのだ。



 これは肉体を持たない何か――物質の障壁を無視して自由流動するエネルギー体――を収容するために建造された、巨大な容器なのだ。



「……行き止まり?」



 傍らの女が壁に手を突いた。顔色は揉みくちゃにされた白紙のように蒼白で、今にも風にさらわれて消えてしまいそうだ。胸元の青いペンダントは発光を停止しているが、死体安置所の冷気のような寒々しさを放っている。



「どうやら、そのようだ」



 翰文(ハンウェン)は指の関節で壁を叩いた。



 硬質で鈍い金属音が二回、虚しい空洞に反響する。その重苦しい残響は、この向こうに少なくとも数メートルの厚みを持つ中実金属が存在することを告げていた。



「穴掘りのスキルがあるか、さっきみたいに魔法で壁を爆破できるなら別だが……そうでなきゃ、俺たちは瓶の底に迷い込んだ二匹のゴキブリだ」



 眼下の深淵からは、依然として酸っぱい焦げ臭さが漂ってくる。北陸(ノース・ランド)の兵士の血肉と「爆裂律晶(バースト・クリスタル)」が混合した悪臭だ。



 塔は一時的に沈黙しているが、あの「鉄の缶詰」どもが諦めるはずがない。人間の軍隊とはゴキブリのようなものだ。一匹見かければ、壁の裏には五十匹潜んでいる。



「……上へ……行かないと……」女の視線が焦燥に揺れ、壁を睨みつける。「……奴らは……重掘削機を……持ってくる……」



「分かってる! 俺だって上に行きたいよ!」翰文(ハンウェン)は苛立ち紛れに髪をかきむしった。爪の間は泥と血のかさぶたで汚れている。



 彼は狭い踊り場を、檻の中の猛獣のようにうろついた。



 過去の訓練と経験が囁く。何かがおかしい。不合理だ。何らかのプロセスが隠されているか、見落とされている。



 考古学(アーキオロジー)の博士課程で、彼は無数の古代陵墓や遺跡を研究してきた。絶対的に封鎖された建築など存在しない。



 知性ある生物が作ったものである以上、そこには必ず共通の論理ロジックがある。



 メンテナンス通路は? 通気口は? 排水管でもいい、廃棄物を垂れ流す排泄口でもいいんだ!



 彼は冷たい壁に額を押し当て、目を閉じた。沸騰しそうな脳を冷却しようと試みる。



 塔の脈動を感じ取ろうと意識を集中させる。



「考えろ……李翰文(リー・ハンウェン)……脳みそを使え……。もし俺が、こんな神様の墓場みたいな場所で残業を強いられた古代の土方労働者だとしたら、どこでサボる?」



 彼の手のひらが、微かに隆起し、歪んだルーン文字が刻まれた金属プレートの上を滑った瞬間。



 脳内で、不快な電流ノイズが炸裂した。



 移行期間トランジションはなかった。現実と記憶の境界が一瞬で崩落する。



 安タバコの煙と、発酵した汗の酸っぱい臭い。激痛は細長い針となって意識に突き刺さり、数千年前の残留思念を強引に引きずり出した。



 翰文(ハンウェン)は、粗野で、疲労困憊し、油まみれの手をした古代の職人の肉体に、無理やり押し込められたような錯覚に陥った。



律法(ロウ)なんぞ知ったことか……永遠なんぞクソ喰らえだ……』



 小太りの男が闇の中にしゃがみ込み、ブツブツと呪詛を吐いている。手には一本ののみが握られ、その瞳には狡猾で冒涜的な光が宿っていた。



『……神は呼吸する必要がなくても……俺には必要なんだよ……。石界の「溶岩酒」を一口飲ませろってんだ……』



 男は慎重に、外科手術のような精密さで、その銘板を僅かにこじ開けた。



 裏側に、狭く、暗く、カビの臭いがするあなが露出する。



『……こいつは俺の道だ。アスラのクソアマにも邪魔はさせん』



 翰文(ハンウェン)は弾かれたように目を開けた。こめかみを押さえ、痙攣する口角を吊り上げて、泣き顔よりも酷い笑顔を浮かべる。



「ハッ……見つけたぞ……。強欲と怠惰に栄光あれ、だ」



 彼は掌の下にある銘板を愛おしげに見つめた。



 一見すれば神聖不可侵な幾何学模様。だが、翰文(ハンウェン)――あるいは彼の脳内の「寄生虫(パラサイト)」の目には、それは完璧に偽装された、自由への「バックドア」に見えていた。



「おい、下がってろ」



 翰文(ハンウェン)は女に手を振り、異様な興奮を滲ませた声で告げた。刃こぼれしたナイフを、銘板の縁にある視認不可能なほどの隙間に差し込む。



 力を込める。



 静寂の中で、小さな、しかし決定的な機工音が響いた。



 半メートル四方の金属板が、本当に弾け飛んだのだ。



 スライドするのではなく、生物のまぶたが開くように反転し、人が一人ようやく這い込める程度の、黒々とした四角い穴を曝け出した。



 古びたカビ、機械油、そして言葉にできない太古の塵の臭いを孕んだ風が、幽鬼の吐息のように穴の奥から吹き付けてくる。



「……これは……」女が信じられないものを見るように口を開けた。



「職人の私心へそくりさ」翰文(ハンウェン)は誇らしげに鼻をこすった。灰まみれの鼻だが。「行こうぜ、VIP専用通路だ。見た目は地獄への直腸みたいだがな」



 確かにそれは腸道に似ていた。あるいは、この巨塔の隠された排泄管か。



 二人は一列になり、二匹の芋虫のように、狭く、冷たく、圧迫感に満ちた金属パイプの中を這い進んだ。



 光はない。闇は粘度を増して実質的な液体となり、皮膚にまとわりつく。翰文(ハンウェン)はナイフで管壁を叩く反響音だけを頼りに、前方の障害物を探った。



 狭すぎる。金属壁が両肩を圧迫し、叫び出したくなるような閉塞感を与える。



 背後から聞こえる女の呼吸音は、浅く、乱れていた。



 このような密室環境では、微細な音さえも無限に増幅される。服が金属を擦る摩擦音、心臓が胸郭を叩くドラム音、汗が冷たい鉄に滴る水音。すべてが神経をヤスリで削るように鮮明だ。



「……どうして……ここが……分かったの?」



 背後から、くぐもった声が問う。



「言っただろ、俺は考古学者(アーキオロジスト)だって」翰文(ハンウェン)は這いながらデタラメを並べた。無駄口でも叩かなければ、幽閉恐怖に飲み込まれそうだった。「他人の墓を暴き、死人の安眠を妨げるのが専門さ。こういう手抜き工事や、人間の弱さが生んだ構造的欠陥は、一目見れば分かるんだよ」



 実際には、頭が割れるように痛かった。



 脳内の「寄生虫(パラサイト)」は、この狭く、陳腐化した「死律(デッド・ロウ)」が充満する場所を極端に嫌悪しているようだ。脳幹の深部で低周波の唸りを上げ続けている。電波の悪さに文句を言っているのか、あるいはこのパイプの奥に潜む「何か」に怯えているのか。



 二十分ほど這い続けただろうか。翰文(ハンウェン)の体感時間では二世紀にも感じられたが、ようやく前方に微かな光が見えた。



 風の音がする。



 それは自由で、拘束されない、大自然の音だ。本物の、広大な空の下の風音。



「出口だ!」



 翰文(ハンウェン)は興奮して速度を上げた。



 パイプの尽頭まで這い寄り、錆びついた格子状の蓋をナイフでこじ開け、逸る気持ちで頭を突き出す。



 冷たい突風が顔を叩く。



 目に飛び込んできたのは、圧倒的な広がりを持つ世界だった。



 良いニュースは、脱出できたこと。



 悪いニュースは、そこが地面ではなく、万丈の高空のへりだということだ。



 出口は黒塔の中腹、外部へ突き出した巨大な金属プラットフォームに位置していた。



 頭上には二つの不気味な月――死人の白目と紫の打撲痕――が冷ややかに彼らを見下ろし、足下には底知れぬ霧の深淵が広がっている。



「ハァ……生きて空気が吸えるってのは最高だな」



 翰文(ハンウェン)はパイプから這い出し、冷たい床に大の字になって、寒気を帯びた新鮮な空気を貪った。鉄錆の臭いはあるが、硝煙や怪物の口臭よりはマシだ。



 彼は振り返り、女の手を引いて引きずり出した。



「ほら、出られたぞ。場所は高いが、追手はいない……」



 言葉が喉で詰まった。



 女の表情を見たからだ。



 彼女は景色を見るでもなく、彼を見るでもない。プラットフォームの反対側を凝視している。その琥珀色の瞳孔が針の先ほどに収縮し、死神よりも名状しがたい恐怖を映し出していた。



 魂の根底に刻まれた本能的な恐怖によって、彼女の体が小刻みに震えている。



 翰文(ハンウェン)はゆっくりと首を巡らせ、彼女の視線を追った。



 プラットフォームの縁にある手すりの上に、人影があった。



 立っている、という表現は正確ではない。



 彼らは重量を持たない幽霊のように、細い手すりの上に「停まって」いた。高空の狂風に煽られ、体ごと微かに揺れている。まるで彼ら自身が風の一部であるかのように。



 身に纏うのは、灰白色の光沢を放つタイトなスーツ。その質感は半透明の昆虫の薄羽を思わせる。背中には、歪んだ肢体のような形状の長弓を背負っている。



 顔には奇妙なマスク。



 尖った鳥のくちばしのようでもあり、笑う髑髏ドクロのようでもある。眼窩に穴はなく、ただの漆黒の闇が広がっている。



 風が彼らの周囲で旋回し、ヒュウウという鋭い音を立てる。それは美しくも、致命的な殺意を孕んでいた。無数の小さなカミソリが擦れ合うような音。



 翰文(ハンウェン)は脳が揺れるのを感じた。耳鳴りがする。



 今回は焦げ臭さではない。全身を無数の不可視の剃刀で切り刻まれるような幻痛だ。皮膚に傷はないのに、感覚だけが「出血多量」だと絶叫している。



 脳内の異物が震え、目の前の存在の「本質」を、不吉な予感へと翻訳する。



 棘のついた氷塊を胃に押し込まれたような恐怖。



『足を見ろ……重力が彼らを捕らえていない』



『彼らは肉体に作用する物理の鉄律を歪めている』



『あれは「風律哨兵ウィンド・ロウ・センチネル」だ』



『戦士ではない。彼らは空から降りてきた庭師だ』



『ここにいる理由はただ一つ。「裏切り者」という名の、育ちすぎた枝葉を剪定せんていするため』



「……どうやら……」



 先頭に立つ、鳥嘴マスクの男が口を開いた。その声は奇妙に漂い、四方八方から同時に聞こえてくるようだった。優雅で、残忍な傲慢さが滲む。



「……風が……汚物を吹き出してきたようだ……」



 彼の視線は翰文(ハンウェン)を素通りしていた。



 マスクの下の漆黒の眼窩は、翰文(ハンウェン)の隣にいる女を、正確にロックオンしている。



「……見つけたぞ……」



「……名を持たぬ……恥晒しめ……」



 翰文(ハンウェン)は、隣の女が崩れ落ちなかったことに驚いた。



 逆に、天敵に追い詰められた小鳥のように全身を硬直させ、喉から窒息したような喘鳴を漏らしている。両手で自分の首を掻きむしるように掴んでいる。そこにある空気が、強引に真空へと変えられているかのように。



「……風哨(センチネル)……」



 彼女は砕けたガラスのような声で、その二文字を吐き出した。



 翰文(ハンウェン)は手の中の滑稽なほどボロボロなナイフを握り締め、一歩前に出て、女を背に庇った。



 狼の巣穴を抜けたと思ったら、今度は虎の穴だ。



 しかもこの虎たちは空を飛び、俺たちの骨を風鈴にするつもりらしい。








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