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第10話 : 名前の重さと、砕けるガラスの音



『風がどこから来るか問うな。風に記憶はなく、帰る場所もない。名前を奪われた者たちも同じだ。彼らは生きているが、諸神の星図からはすでに抹消され、世界のへりに積もる灰となったのだから』



  ——『風界流亡歌謡ウィンド・エグザイル・バラッド・断章』



 螺旋階段は、終わりのない腸道のように見えた。闇に沈む巨人の食道深奥へと、執拗に盤旋ばんせんしている。



 ここでは時間がその尺度を失っていた。



 客観的には二十分ほど登っただけかもしれない。だが李翰文(リー・ハンウェン)にとっては、この吐き気を催すループの中で一世紀を過ごしたかのような疲労感だった。



 大腿四頭筋は赤熱した鉛の塊と化し、脚を持ち上げるたびに、魂の底に残ったわずかな意志の残渣ざんさを燃やしている。



 二本の肋骨を折った人間にとって、階段の一段一段は痛覚神経のために設計された拷問器具だ。肺が拡張するたびに、折れた骨の断面が内臓を擦る鋭い音が、脊椎を伝わって鼓膜に直接響く。



「……降ろして……」



 背中の女が声を漏らした。



 それは今にも切れそうな糸のような声ではなく、意志によって鍛え直された低くしゃがれた響きだった。



 翰文(ハンウェン)に異存はない。物理法則を無視するほど軽い彼女だが、極限まで透支とうしした体力においては、羽毛一枚でさえ駱駝らくだの背を折る藁になり得る。



 脊椎が限界の悲鳴を上げる中、慎重に腰をかがめ、冷たく粘つく壁に沿って彼女を滑り降ろした。



 そこは黒い塔(ダーク・スパイア)の低層エリアにある、少し開けた踊り場のような空間だった。壁面を流動する青い光の紋様がここで合流し、心臓のような結節点となって、眠気を誘う規則的な低周波を放っている。



 女は壁に寄りかかり、膝を抱えた。



 ひどい有様だった。髪は枯れ草のように絡まり、泥と乾いた血にまみれた頬に張り付いている。ボロボロの皮衣からは、青紫の鬱血うっけつに覆われた肌と、鎖骨の痛々しい古傷が覗く。



 だが奇妙なことに、顔色は先ほどより改善していた。



 ここに充満する静電気を帯びた空気――翰文(ハンウェン)にはオゾン臭にしか思えないが、脳内の寄生虫によれば高濃度の「(リツ)」が遊離している匂い――が、彼女に対して何らかの治癒作用をもたらしているようだ。



 彼女が顔を上げた。半透明の質感を持つ琥珀色の瞳が、翰文(ハンウェン)を射抜くように直視する。



「……なぜ?」



 彼女は問うた。秋の枯れ葉が地面を擦るような、乾いた声で。



 翰文(ハンウェン)は無様に床へ座り込み、大の字になって天井の闇を見上げた。胸の激痛に耐えるため、大きく息を吐く。



「なぜって何が? なんで助けたかって? それともなんで俺がこんなにイケメンなのかって? 後者なら遺伝子の問題だから説明できないな」



 女はその生産性のない軽口を無視した。その眼差しは、直視できないほど真剣だった。



「……あなたは……異郷人(ストレンジャー)……」



 彼女は困難そうに唾を飲み込んだ。喉の奥で風箱が空気を漏らすような音がする。一音一音を干からびた声帯から無理やり絞り出しているようで、そこには血の味が混じっていた。



 慣れない発音に戸惑うように、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。



「……私といれば……あなたは狩られる……」



「……私は……災厄……」



 翰文(ハンウェン)は上体を起こし、ポケットから刃こぼれしたナイフを取り出すと、手持ち無沙汰に石床へ無意味な線を刻み始めた。



「お嬢さん、俺だってあんたを捨てようと思ったさ。本当だ」



 彼は下の底なしの闇を指差した。



「二十回くらいかな。あんたを道端に捨てて、自分だけで逃げようと考えた。『終末生存ガイド』があれば、半死半生の怪我人を連れて逃げるなんて、自殺行為だと太字で書かれてるはずだ」



 女は首をすくめた。運命の宣告を待つように。



「でもな……」



 翰文(ハンウェン)は彼女を盗み見た。その琥珀色の瞳にある死寂を見て、溜息をつく。



 視線を、自分の汚れた手掌に落とす。



「……俺は、暗闇が怖いんだ」



 女は呆然とした。もっと残酷か、あるいは合理的な答えを予想していたのだろう。しばらくして、ようやく声を絞り出す。



「……闇?」



「ああ、暗いのが怖い。死ぬのも怖い。孤独も怖い。ついでに言うと、痛いのも大嫌いだ」



 翰文(ハンウェン)は自嘲気味に笑った。



「このクソみたいな場所じゃ、月でさえ人を食いそうな顔をしてる。もしあんたを助けなかったら、俺はこの荒野で唯一の『生き物』になる。その感覚は……死ぬより恐ろしい」



 彼はふざけてはいなかった。本音だった。



 二十四時間営業のコンビニの明かりや、地下鉄の雑踏と他人の汗の匂いに慣れきった現代人にとって、この絶対的な死寂と荒涼――全宇宙から遺棄されたような孤独感は、牙を剥く怪物よりも遥かに速く、理性を崩壊させる劇薬だった。



 女は沈黙した。俯き、胸元の青いペンダントを無意識に撫でている。指先が白くなるほど強く。



 やがて、幽鬼のような声が届いた。



「……私の名は……()じゃない……」



「知ってるよ。さっきあんたが書いた記号だろ」



「……私の名前は……」



 彼女の体が震え始めた。魂の深層から溢れ出す恐怖。それは声帯を切除された人間が、必死に歌おうとする姿に似ていた。



「……風に……奪われた……」



「……風界(ウィンド・レルム)において……名を失うことは……『根』を失うこと……」



「……風はもう私を支えない……(リツ)はもう私に応えない……」



 鋭い耳鳴りと共に、脳髄の奥深くで忌々しい「寄生虫(パラサイト)」が痙攣した。



 警告もなく、成層圏の希薄な寒気を帯びた刺痛が走り、彼のものではない記憶の断片が視界に割り込む。



 視点が強制的に引き上げられる。大地が豆粒のような黒点と化す。



 蒼穹に浮かぶ巨大な浮遊島。足元で雲海がのたうっている。



 その中央にある厳粛な処刑祭壇。無数の冷酷な視線が、中央に跪く人影に注がれている。



『同胞の名において、汝の“風律”を剥奪する』



 続いて、心臓を引き裂くような幻痛。



 バキリッ――と、翼が生きたままへし折られる音が、頭皮を麻痺させるほど鮮明に響いた。



 翰文(ハンウェン)は自分の背中も見えざる巨手に引き裂かれたように感じた。激痛と墜落の浮遊感が胃袋をかき回し、胆汁が喉までせり上がる。



 彼は頭を激しく振り、血の匂いがする幻覚を追い払った。冷や汗が背中を伝う。



 目の前の女を見る目が変わる。



 失名者(ネームレス)



 「律法(ロウ)」を基盤とするこの世界において、名前を失うこと。それは現代社会で言えば、身分証、パスポート、銀行口座を抹消され、さらにインターネット全域からアクセス禁止(BAN)を食らうようなものだ。



 いや、それ以上に悲惨だ。ここでは、万物を支える「物理法則」さえもが、彼女を拒絶することを意味するのだから。



 重力は彼女を認めず、風は彼女を受け入れない。世界の異物。



「それがどうした?」



 翰文(ハンウェン)は肩をすくめた。明日の天気を話題にするような気軽さで。手はまだ幻痛で震えていたが。



「名前なんて、ただの識別コードだろ? 俺だって李翰文(リー・ハンウェン)じゃなくてもいい。ポチでもタマでも、あるいは……イケメンでもな」



 彼は自分を指差す。



「俺の故郷じゃ、名前は飯に呼ぶために使うもんだ。お前が生きるか死ぬかを決定する判決文じゃない」



 女は驚愕して顔を上げた。その死んだ魚のような瞳に、一瞬、光が宿る。



 この世界で、これほど軽蔑的に「名前」の重さと神聖さを踏みにじった人間はいなかった。



「……あなたの……故郷……」



 彼女は夢囈うわごとのように呟き、翰文(ハンウェン)を通り越して、遥か彼方を見つめた。「……そこでは……風は……自由なの?」



「自由?」



 翰文(ハンウェン)は口角を引きつらせ、泣き顔よりも酷い笑顔を作った。漆黒の塔の天井を見上げる。



 その視線は時空を超え、どこにあるかも分からない遠い故郷を幻視していた。



「あっちの世界じゃ、風は灰色だ。空気は焦げたゴムと、安っぽい缶コーヒーの味がする」



 彼は視線を落とし、薄汚れた自分の掌を見つめ、声を落とした。



「俺たちは空を四角く切り取って、一番高い金を払った奴に売るんだ。名前がなくても呼吸はできるが、生きていることを証明するには、番号と、バーコードと、偉い死人の顔が印刷された紙切れが必要になる」



「だからな、鳥人(とりびと)のお嬢さん。俺たちに大差はないんだよ。あんたは鎖で首を絞められ、俺たちは見えない網で魂を絞められているだけだ」



 女の唇が震えた。瞳の中の警戒心が、その言葉で氷解していく。彼女は何かを言いかけた。



 だがその時。



 塔の底から響く鈍重な衝撃音が、その儚い静寂を暴力的に粉砕した。



 石造りの踊り場が激しく振動し、天井から塵が降り注ぐ。



 それは塔内部の崩落音ではない。外部からの、純粋な物理的破壊音だ。



「なんだ!? 地震か? いい加減にしろよ!」



 翰文(ハンウェン)は飛び上がり、本能的にナイフを構えた。神経が焼き切れそうだ。



 続いて、遮蔽物を介さない鮮明な爆裂音が轟いた。



 厚い金属扉越しの音ではない。空気を引き裂く爆音だ。



 彼らはすでに二十分登っていたが、この中空構造の黒塔は巨大なメガホンの役割を果たしていた。底層での爆発音は増幅され、螺旋階段を駆け上がり、すぐ足元で炸裂したかのように響いた。



 爆発の余韻に混じり、人間特有の、殺意に満ちた怒号が聞こえる。



「この音……爆薬か……」



 翰文(ハンウェン)の考古学的知識が、その正体を瞬時に判別した。高エネルギー化学物質が起爆した時に特有の、腹に響く重低音。



「誰かが門を爆破してる!?」



 女の顔から血の気が失せ、紙のように白くなった。



「……北陸(ノース・ランド)だ……」



 彼女は翰文(ハンウェン)の腕にしがみついた。爪が肉に食い込む。「……北陸の……軍隊……」



「……彼らは……灰律(グレイ・ロウ)を恐れない……」



 翰文(ハンウェン)は絶句した。北陸の軍隊? 人間か?



 触手が生えた怪物よりはマシに聞こえるが?



 いや、待て。



 この世界に来た直後に見た光景がフラッシュバックする。虐殺された死体。木に吊るされた四肢。焦土に翻る黒い太陽の旗。



 この世界では、人間の方が怪物より危険かもしれない。



 脳内の「寄生虫(パラサイト)」が再び絶叫した。今度は金属で骨を削るような鋭い酸味を伴って。



 メッセージは文字ではない。暴力的にドアを蹴破られたようなパニック感だ。



 硝煙の臭いと振動のノイズが、脳裏に強制送信される。



『来たぞ……鉄の靴を履いた暴徒どもが踏み込んでくる』



『単独ではない。一個小隊規模の殺戮機械が雪崩れ込んでくる』



『走れ。上へ』



『振り返るな。振り返れば死だ』



「クソッ! 息つく暇もなしかよ! 少しは手加減しろってんだ!」



 翰文(ハンウェン)は悪態をつき、女を引っ張り上げた。



「行くぞ! お客人の到着だ! どうやらインターホンを押す代わりに、壁ごと吹き飛ばすのが彼らの流儀らしい!」



 彼はよろめく彼女を引きずり、再び終わりのない螺旋階段へと足を踏み入れた。



 背後から、ガラスが砕け散るような爆発音が密度を増して迫ってくる。無数の軍靴が床を叩く音が、致命的な満潮となって階下から押し寄せてくる。



 誰かが黒塔の防御を強行突破している。



 そして自分たちは、袋小路のネズミだ。








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