第1話:鉄錆と汚泥、そして七千元の登山靴
※カクヨムにて先行公開・コンテスト参加中です。
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※本作は「カクヨム」コンテスト参加作品です。
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『神が呼吸を止めた時、万霊は祈りを始めた。律法が崩れ落ちた時、我々は灰の中で彼らの遺骨を探すしかなかった』
——残本『灰の塔考古日誌・序』、著者不詳
覚醒の瞬間に訪れたのは、強烈な塩味だった。痛覚は一歩遅れて到着した。
口腔内の粘膜が、錆びた鉄釘で乱暴に擦られたような感触に支配されている。そこへ、発酵しすぎた甘ったるい生臭さが混ざり込む。
舌を僅かでも動かせば、その鉄錆の味は喉の奥へと滑り落ち、胃袋に痙攣に近い収縮を引き起こした。
李翰文は嘔吐したかった。だが、体は水銀を流し込まれたかのように重く、重力に引かれた筋肉の繊維一本一本が、無言の悲鳴を上げている。
何かが、顔の上に重くのしかかっていた。
湿って、冷たく、軟骨組織特有の死んだ弾力がある何か。
重い瞼をこじ開ける。睫毛が粘液で張り付き、視界は油を塗った磨りガラス越しのように白濁していた。
顔だ。
煮えすぎた魚のつみれのように白く濁った眼球を持つ「顔」が、彼と親密すぎるゼロ距離で接吻しようとしていた。
その口角には黒い凝固物がこびりつき、今にも彼に濃厚なディープキスを贈ろうとしている。
「……ッ、くそ。最悪だ」
声は喉で詰まり、空気が漏れる鞴のような音しか出ない。
翰文は反射的に首を捻り、生存本能が絞り出した馬鹿力で、その死ぬほど重い物体を突き飛ばした。
湿った肉が剥がれる不快な音が響く。腐敗した肉塊を泥濘から無理やり引き抜くような、胃液を逆流させる音だった。
手足をばたつかせて後ずさる。掌に伝わるのは、硬い地面の感触ではない。ぬるりと滑る、不快な汚泥の感触だ。
いや、泥じゃない。
指が沈み込んだ先に触れたのは、砕けた骨の断面と、冷たい金属のボタンだった。
制御不能の戦慄が電流となって脊椎を駆け抜ける。歯の根が合わず、カチカチと細かく鳴り始めた。
それは寒さのせいではない。中枢神経が、目の前の「地獄絵図」という情報を処理しきれず、論理崩壊による生理的なショートを起こしたのだ。
高圧電流を流された精密機器のように、脳が絶叫し、筋肉が痙攣し、全細胞が目の前の現実を拒絶している。
おかしい。
ここは、記憶にある乾燥した発掘現場とは似ても似つかない。
あそこにあるのは陳腐な黄土と沈黙した副葬品だけで、こんな搾りたての温かい血などあるはずがない。
指導教授の揺れるLEDヘッドランプもなければ、カップ麺と安っぽいインスタントコーヒーの匂いもしない。
空気中には、肉眼では見えないノイズが充満している。
それはただの埃ではない。皮膚を刺す静電気を帯びた微粒子だ。呼吸をするたび、肺胞が放射能を帯びた工業排ガスを無理やり濾過させられているような感覚に陥る。
後に俺は知ることになる。それが**灰律――この世界が崩壊した後に残された「残滓」であることを。
だがその時、俺は自分が稼働停止したばかりの巨大な電子レンジ**の中に放り込まれたかのように感じていた。
翰文は顔を上げた。首の関節が錆びついた機械のように軋んだ音を立てる。
夜空は恐ろしいほど澄んでいた。雲一つない。
その深紫色のベルベットの幕に、二つの光源が吊るされていた。
一つは病的なまでに惨白く、死人の白目のようだ。
もう一つは妖しい暗紫色で、乱暴に揉まれた後に浮き上がる鬱血に似ている。
それらは夜の裂け目に嵌まり込み、**悪意**の滲む冷光を撒き散らし、地上を死蝋のような色に染め上げていた。
「……二つ?」
翰文の瞳孔が極限まで収縮し、呼吸が止まった。
天文学の常識が脳内で悲鳴を上げる――地球の衛星は一つだ。太陽系にこんな色の天体は存在しない。
これは単なる迷子ではない。
基礎科学の常識を冒涜するこの光景は、眼下の死体の山以上に、彼の世界観を崩壊させた。
視線を落とす。自分は粗雑で、悪臭を放ち、血に塗れた古代の革鎧を纏っている。
だが足元だけは、あのゴアテックスの登山靴だった。
七千元(ニュー台湾ドル)。今回の実習のために、歯を食いしばって分割払いで買った相棒だ。
今、その靴はどす黒い血溜まりに浸かり、靴紐には腸か腱かも分からない灰白色の組織が絡みついている。
現代のハイテクゴム素材と、中世の腐った革。二つの異なる文明の産物が、あまりにグロテスクに彼の上で結合していた。
靴が廃になった。ローンもまだ終わっていないのに。
そのちっぽけな悲劇は、目の前の死体の山よりも遥かに「リアル」だった。
その馬鹿げた思考が一本の命綱となり、崩壊寸前の理性を一秒だけ繋ぎ止める。
「……落ち着け。李翰文、落ち着くんだ。これは脳震盪が見せる幻覚だ……あるいはドッキリ番組のセットだ……」
うわ言のように呟き、理性で無理やり解釈を試みながら、もがいて立ち上がろうとする。
右手は無意識に、地面に突き刺さっていた何かを掴んだ。
それはボロボロになった軍旗のようだった。
指先が布地に触れた瞬間。
偏頭痛を煮詰めたような激しい痙攣が、こめかみにねじ込まれた。翰文は呻き声を上げ、膝から崩れ落ちそうになる。
脳内にはゲームのようなテキストなど現れない。
代わりに、タンパク質が高温で炭化するような刺激臭が、前触れもなく頭蓋内で炸裂した。
それは単なる記憶の再生ではない。視神経に対する拷問だった。
無数の砕け散った映像の破片が、**眼裏**の最も繊細な感光細胞に、焼けた鏝で押し付けられるように焼き付く。ジジジと焦げるような幻聴と激痛を伴って。
――病的な黒い太陽が蒼穹に掛かり、タールのような黒い光を流して白昼を食い尽くす光景。
――無数の兵士の首に、鏡のように滑らかな切断面が現れる光景。血が噴き出す暇もなく、命が何らかの鋭利な「法則」によって切断された瞬間。
――そして終わりのない落下。無重力の中で内臓が浮き上がり、心臓を圧迫する感覚。世界から棄却され、深淵へ投げ捨てられる絶望が、喉元まで酸っぱい液となって込み上げる。
高周波ノイズと血の滲むようなノイズ交じりの映像は、一つの事実を叫んでいた。
この軍隊は戦死したのではない。彼らは冷酷に、ゴミのように**「廃棄」**されたのだ。
「ぐっ……な、なんだこれ……」
翰文は割れそうな頭を抱え、荒い息を吐く。今のは何だ?
脳内埋め込みチップ? それともこの死体に残留していたPTSDか?
風が吹いた。
だがその風は奇妙だった。方向を持たず、鉄錆の粉末を含んだ粗い質感で、四方八方から同時に押し寄せてくる。
周囲の死体の山――そう、これは紛れもなく山だ――が、風の中でビニール袋が擦れ合うようなカサカサという微細な音を立てる。
突如、足首に冷たく硬い拘束感が走った。死んだばかりの蛇に巻き付かれたような感触。
翰文は神経を尖らせ、弾かれたように視線を落とす。
腐肉の山から突き出た、蒼白の手と目が合った。
戦場にあるまじき繊細な手だった。それが今、彼のズボンの裾を死に物狂いで掴んでいる。指の関節が青くなるほどに。
その手の主は死体の山に半ば埋もれ、海藻のように広がった黒髪が顔を覆っていた。
だが、翰文は彼女の耳を見た。
死んだ結び目のような黒髪の隙間から、頭皮に寒気を走らせる細部を視認してしまった。
耳の軟骨は、人間が見慣れた円弧を描いていない。後方へと鋭く延伸し、解剖学の常識を否定する鋭利な突起を形成していた。
寒風の中で、それは半透明の質感を帯びていた。薄皮の下で青い血管が微かに脈動しているのが透けて見えるほどに。
脳が瞬時にフリーズする。
理性は狂ったように叫ぶ――これは特殊メイクだ。コミケのラバー小道具だ。あるいはどこかのヤブ医者が失敗した整形手術だ。
だが、見てしまった。その先端に走る微細な血管の網目を。寒風に反応して本能的に震える様を。
それは生きた肉だ。頭蓋骨から生えた軟骨組織だ。
現実の境界線が、この瞬間に溶解した。
翰文は狂ったように周囲を見回した。闇の中にレフ板を、ガンマイクを、あるいはダウンベストを着てメガホンを持った監督を探した。
だが返ってきたのは、死寂に満ちた風音と、死体が腐敗する甘ったるい臭気だけ。
台本はない。カットの声もない。安全ネットもない。
現代教育によって築き上げられた彼の世界観は、この一秒間で、目の前の「尖った耳の生物」によって粉々に粉砕された。
頭が真っ白になったその時、視界の端が極めて微細な動揺を捉えた。
あの蒼白の手が、痙攣している。
死後硬直と勘違いするな。これは命が消える寸前の、最後の、不服従の足掻きだ。
指先が泥の中に弱々しく、しかし確かな痕跡を刻む。その震えの一つ一つが、この完全に死に絶えた世界に向かって、ある事実を絶叫していた。
――彼女は、まだ死んでいない。
『関わるな……李翰文。お前は自分の命さえ救えていない……この場所から逃げろ……』
大脳皮質が「逃走」という名の化学物質を過剰分泌し、アドレナリンが血管内で咆哮する。一刻も早くこの不吉な場所から足を動かせと急き立てる。
だが、体は生存本能を裏切った。
翰文は奥歯を砕けんばかりに噛み締め、嘔吐感と逃走衝動をねじ伏せ、強張った体をその泥沼へと折り曲げた。
彼は、その手を掴んだ。
掌に伝わった感触に、神経末端が跳ね上がった。
その冷たさは単なる低温ではない。濡れて、硬く、死蝋に近い質感を持った「死」の冷気だ。
業務用の冷凍庫の奥から骨付きの生肉を素手で掴んだかのように、陰湿な寒気が指先から血管へと潜り込み、掌に残った僅かな体温を貪欲に吸い上げていく。
接触した瞬間、脳内の痛覚神経が再び乱暴に弾かれた。
脳の深部で轟音が炸裂する。前置きはない。現実は砕けた鏡となり、無数の鋭利な破片となって意識に突き刺さった。
――風。
すべてを引き裂く狂暴な乱流。成層圏特有の希薄さと冷気が、肺胞を満たす。
視野に大地はない。あるのは果てしない蒼穹と、重力に逆らって浮遊する島々だけ。
耳元で、絶望的なほど空虚な審判が下される。
『汝の名は、風に奪われたり……』
続いて、墜落。
強烈な浮遊感に、心臓が喉の奥までせり上がる。
背骨に魂を引き裂くような幻痛が走る――それは、骨ごと何かを無理やりへし折られた音だった。
存在しないはずの翼が生え、そして残酷に毟り取られた感覚。
世界から遺棄された寒気が血液を凍結させる。
彼女の手首に触れた瞬間、翰文は高山病のような眩暈を感じた。
耳元で無数の言語が一つの単語を叫んでいるようだが、その単語は何者かの力によって塗りつぶされている。
空っぽだ。この人間は、中身がない。
世界によって存在の一部を抉り取られたかのように、名前も、重力もなく、今にも風に溶けて消えてしまいそうだ。
「……毎回、唐突すぎるだろ……痛ぇな……」
翰文は悪態をつき、両手を死体の下の泥に突き刺すと、力を込めて彼女を死の山から引き剥がした。
軽い。科学的にあり得ないほど軽い。まるで中空になった鳥の骨格だ。
「しっかり掴まってろよ、鳥人の嬢ちゃん」
脊椎の悲鳴を無視し、両腕に力を込め、その冷たく脆い重量を背中へと強引に担ぎ上げた。
体が密着した瞬間、墓穴の底のような冷気が背骨を伝って後頭部へ抜け、総毛立つような悪寒が走る。
それは生きた人間を背負っている感覚ではない。精巧だが魂を失った人形を背負わされている感覚に似ていた。
その時、遠くの濃霧の奥底で、硬質な金属音が響いた。
翰文の背筋が凍りついた。
音は大きくない。だが、虫の音一つないこの死寂の戦場において、それは鼓膜に直接貼り付いて鳴らされた弔鐘のように鮮明だった。
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