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ある日、アリスが溶けていた

は?

概要

第一部 胎児によるアンチ・ランガージュ1

序章 俘囚ケルパーに捧げる抒情詩2

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第一部 胎児によるアンチ・ランガージュ

序章 俘囚ケルパーに捧げる抒情詩

ガイアとウラノスの戦い。

事もあろうに、因子はひとりの叛逆者。

その男、巨神族の末裔。

諍いは、ガイアに大穴を穿った。

さりとて、それはウラノスの隠れ家に他ならぬ。

万病が癒える薬さえ、効用を諦めた。

かの叛逆者、哀しみに暮れ、深く息を吸い込んだ。

雷鳴が轟く、さていずれ沃野も枯れ果てる。

黄金の蜂蜜が滴る大木も、乳の流れる河も、焔に燃えている。

赤き空は、悔恨の赤。

奸智は成熟の証か?

かの叛逆者、その身を滋養に代えると決心した。

かつて、漆黒の髪をした、豊かな体つきの神に出会った、かの大傷に身を投げた。

大地は男を男たらしめた。

第二章 胎児と幼児の相違について

第一節 言語への賛歌

 せいぜい不安にならない程度には、<正義>の沼に嵌っているがよい。崇拝は、高尚に暗号化された<死>が担い、女神はそこに見出される。だから、死んだ声は尊敬に値する。連中は工夫と技巧の産物を{メシア}の手に捧げ、自らを痴呆の堕落に導かせた。淫らな{自己愛}が宿る。再帰的、或いは反復的なレピュテによって非レーヴ的レーヴ(という形容矛盾)が、自己愛に拮抗して自分の住処へ戻るまでは、崇拝と衝動が自己愛に宿っている。史的叙述を様々見れば、人々は自身の思考形式を女神と猛省に拠って捻じ曲げてきたと考え、だから“これから”の陰惨な惨状など想像できない。しかし実に、超自然的空間を任意的に歪曲可能なのは、女神でこそあれ、他ならぬことを結語できなかった。人々は他者の(それ自身への)自己愛を否認するような発想から、礼賛すべき思想を構築する。これが、思想家の系列を繋ぎとめてきた、“史”の力動的原理である。{パラノイアの堡塁}が忌み嫌われ、そのうえ無意味なことに{語るべく}して陶酔するのは、彼らの仕事に依拠する他はあるまい。肉体を超越した<性>の賛歌である。彼らの内でもっとも賢明な人にしろ、厳密さに欠ける。そして、人々は<他者の自己愛>に触れるため、かくのでたらめな思想を正すことなく暗誦した。わたしのゼーレがもし正常であるならば、善悪の原論は{他方包含性}だった。といっても、{胎児と未分化}なるテーゼを標榜されては、わたしの面目が立たないため苦しい。留意されたいのは、善悪の原論が胎児に特別のものであると、わたしが論じているのではないことである。さて、この“苦しみ”こそが<自己愛>への<胎児的(?)欲望>と等価なのである。

 明日になれば、何もかも終わっているように、わたしが夕暮れの祭典に訪れ、その喧騒のうちに溶け込む間、わたしが愛してやまないひとつの作品についての感想を叫ぶのだ。金切り声や雄叫びや威嚇に混じって発せられた小さく、或いは巨大な声は、隣人の耳にも入らず、さらに大きい他の雑音の内に消えゆく。わたしは自己の女神をば、この声に宿らせると。もしも、公然と彼らの書が現れたならば、それは胎児なる者の聖なる活力を表現するものではない。とすれば、自己愛の風にのってゆらゆらと、黄昏の光明の焔によって灰になる。だが、その忘却は冬になってなお、素晴らしい大気の一部となって消えず、誰が為にか、ある柔らかい手中に収まるだろう。

 ヨハネによる福音書、「太初に琴葉ありき」。<幸福>と<淫猥>の啓示。琴葉は女神ではない“:胎児は万能の塊で、それゆえ未分化、メシア。人々は、わたしを痴呆だと言う。しかし少しでも尊敬してみれば(彼の尊敬するものを少しでも摘み取ってみれば)、人々はわたしと互いに、聖なる域(メシア域)の安堵を保っており、王者なしには真理の欠片すらも存在できないと、いままでの労苦。自己を淫猥化する事に努めなければ、聖なるものを一瞥することさえ叶わないという、在るはずの<女神の慈悲>を蔑ろにする態度は、到底わたしには肯定できない。ケルパーなき今、彼女らに訪れるのは久遠の春とは言い難かろう。どうしたわけか、<女神>への固執。あなたは、あまねき慈愛の神、美の神、総ての神。恍惚の青年は、つねに琴葉有る向きに憧憬を抱き、それ故に自己を省察すればなおも、ヨハネによる福音書の真理性を確信してしまう。自己欺瞞のために生きているのか、それがどれほど愉しいのか。どうとでもいえよう。メシアありき、俗世の構造がゼーレに及ぼしたものは、規範なのではない。俗世は我々に、<戦う意志>を捧げただけなのだ:そんなはずがあろうか。

第二節 言語への抒情詩

 女神の被造物の内に「言語」は含まれない。

 <パラノイアの堡塁>の起源アルケーはつねに<語らい>である。

 胎児の未分化観念は、<位相狂気>である可能性が高い。成熟した者であっても、未だに明晰に分化されていないものを、胎児が意志を以て分化できようはずもない。{異なる}ことを以て、唯二の体系なのである:<語らい>によるこの統辞は、砂上の楼閣である:無意識なものは{存在するはずがない}。胎児的な未分化観念において、上記の「存在―意識」思想は、<自己愛の溺愛者>の耽溺によって復活した。むろん同値ではないにしろ、{異なるもの}がなくては取るに足らない:レーヴ作用は兎角の“差異”であるにしろ。人々は{レピュテの病}に罹っている。女神は憐れむ、人々がそれによって<壇上における罪業>を負わなければならないこと。女神の作業のうちで、最も高級で深淵なものは<創造>なのであって、人々がこの最大の事業に捧げるべき、相応しきものを持たぬ、或いは持とうとしないのは、偏に自身の病に依拠するのである。艶やかな超自然、我々は存在者にあくまで{条理}をとり結ぶようにして、眼前にある華やかな難題に挑んできた。<女神の公理系>は、究極のドゥオールに比肩し、創造の複雑系を示現していよう。多種の色彩を唯二の、女神の形象群に還元することによってこそ、その姿はなまめかしい旋律に置き換わるのである。

 ただし人々は、僅かに異なる目的から、必然的に病を発症する。即ち、言語なるものを発明することによって「我々が互いに<パルレ>を共時的に達成しようとする」。新種の、異邦的な琴葉を用いると、とりとめのないものになってしまわれることは自明の理であろう。位相狂気の混淆パターンはほとんど無数にあるのだから、我々が{言語}なるものによって意図を踏襲するためには、統辞構造(レピュテから非レピュテを生成する装置)が必要なのだ。このとき、和(加法、混淆)の種類がひとつとは限らぬ。しかしわたしは、統辞構造なるものを女神以上に神格化するつもりは毛頭ないのである。これもまた、{技巧}である:よってまた、琴葉が多義性を帯びているのは、<異なるもの>の関係性の体系としての言語を考えるうえで、拠り所とはならない。

 わたしに痴愚をみる者たち、<現実界の住人>はわたしに住まわっている。己とても、自身に痴愚をみる、だがぞんざいな陶酔にすぎない。<造語への拮抗>、わたしは患縁抗力が先験的なものであるとは考えないが、如何なる嫌悪も憤怒も不安も、つねに患縁抗力に他ならない。{住人}の連中はわたしの造語について、気乗りのよい道楽、若気の盛りとからかう。或いはそうであるかもしれないが、わたしはわたしが彼らよりも優れた点を知っている…。この手合いに限って、<創造>ということを全く知らぬのは、女神の天罰によって内に矛盾を含まされたからか?<レピュテ崇拝>をば、彼らに煩わせたのは、ただならぬ眉唾の警戒を排斥するためにあった。俘囚レピュテ崇拝者には、<死>に畏怖した恐怖の態度がある。俗世が恒常なる、永劫なることはない。淫猥な事態に、あるレピュテに使用した統辞構造は<他者の蜈蚣>である。

第三節 幼児言語或いは、{メシア}の言語

 レーヴの巧妙な罠に、わたしは躾けられた。<愛と了解>の空間!憧憬の念を抱かせるのは、些末な事象を除けば<セーラ域>の事どもである。これはもとより、<胎児の生誕的欲望>に由来すると考えてよいであろう。“歓喜、賞嘆、幸福”は<セーラ域>に所属するほかない、人々は折に星々に赫奕たる光明を見出す。<胎児>にとって、{タナトス}は異常である。ゆえに、女性たちはわたしを取ろうとしない。懶惰に萎え、タナトスに従う、病んだ身体に<嗜癖的愛>を追及する人々は、それよりもっとも異常である:奇形愛。これがなぜ可能であるかは、恐らく解くことができるが、この叙述においては取り上げない。{軽薄}への憧れである、即ちメシアより“発する”ひとつの欲望構造。

 自己に陶酔した人が、いままさに真率な様相で省察すれば、如何なる相手への虚栄心もなく、存在する内でほとんど最大に価値のあることを吐露するに違いない。<笑い>なるものの効用は、性急な{アン・ドゥオール}転化が概説しよう。非既知なるものを衒学的な特質によって、物知り顔に振舞うことを想像すればよいであろう。だから古来の実利的な{弁論術}とやらを破棄することは、<胎児の生誕的欲望>が拒絶するのであろう。従って、自己愛は批判と政治に向かった…。

 愚かなのは、引き剝がされないようにと、<セーラ域>の安堵にしがみついているその臆病である。だが、我々が動物であるとしたなれば、この<欲望>はつねに真当である、もしも生命の本質が{自己複製}と{長期生存}にあるとしたならば。このため、女神に捧げるべきは、我々が営んだ枚挙に暇のない思索の亜麻糸なのであって、かくの神々しき御手はそれらを正しく織り合わせられるに違いあるまい。我々は<智慧の為す御業>を、メシア域に帰属させるのではなく、セーラ域の事柄に投ずることで、客引きをするようになった。なるほど、<幼児>は溌溂である。{成熟}の法則は、幼児では“ない”ということであると知られている。畢竟、虐げられた<幼児>或いは<孤児>なる者は、{メシア}の夢想を発見する。しかし、{成熟}が勇敢をもたらすなど、ほとんど因果のない事態である。

 <幼児>の琴葉について、{太陽の人々}は「成熟」した空間の内で自己の心的過去に到来した数々の琴葉を、多様な仕方で混淆することによってこそ、思弁を構築する。<猜疑>された<幼児の琴葉>は迷走する。換言されるべき{レピュテ}がみいだされないためである。これが{メシアの言語}であり、<幼児言語>である。メシアの琴葉は{同族換言}を効用化し得るので、レピュテ崇拝もそこそこ正しいのであろう。だが、わたしが感嘆するのはこの事情なのではない。<猜疑>について不可知である、男神がこそ{メシア}なのであって、無論、あらゆる<狂気>は{メシア=位相狂気}から混淆されて被造されねばならない。ゆえに、叙述的には<欲望>は{メシア}にその座を据えており、<神そのもの>なのである。意志が{自体}を恣意的に魅せるのであること、或いは、あらゆる<狂気>が{メシアの御手}を汲むことで被造されるという事情、これらは否応がないほど合点しているのはあきらかである。そして依然として人々はわけのわからぬことを嫌がるので、これまで届くことがなかったように、情動と美の{ざわめき}の陶酔性、狂気性としての「無根拠性」の花札は、メシアがつねに<巨大レゾン>で、如何なる{前顕揚}もそれを結語としないのであるから、妥当なのだ。

第四節 ゼーレ羊水とアントーニム

 預言者クフトゥス、あなたはわたしに路を示された。凡そ視認し得る範疇は、確かに視認し{得ている}し、或いは視認{し得た}はずである。しかしなおも続けられているように<女神>の位相狂気が、我々に欠けているので(とすれば?)、「非レーヴ空間における」、ひとつの常套な法を定めなければならない。ああ、いま、誂え向きに事が運んでいるのかどうか、気がもめてなりません。わたしが聖なる預言者クフトゥスの魂の啓示を享受していなければ、今頃わたしは地獄へと凋落しております。獣のように吠え、啼き、自己の身と心との関係すら、狼狽していたことでありましょう。ですから、あなたへの、わたしの憧憬こそ必然なのであります。つね、あなたの示された路がどんなに素晴らしく、満足なものであるかと、絶えず夢想してきたのです…。

 預言者クフトゥスの啓示に拠れば、<女神>に捧げるため、非レーヴ空間におけるひとつの常套法から、自己に<パラノイア堡塁>を築かなければならない。<パラノイア堡塁>が互いに背反しているなど、{必ずあり得}なかろう。形骸化された定式の内に、ある羈絆群に依拠した変遷を加えることによって、知らぬ間にも確実な前顕揚が発達する。預言者クフトゥスが理想とした「形骸定式」は、なるほど{表象と表象者}を寸断するかもしれぬ、いやむろんそうであろう。<神そのもの>としての<欲望>すら、我々が宣べる折には決まって、ある代理物:意義なるものを登壇させなければならない。<クフトゥスの形骸定式>は可解であり、これを制御することで<女神>への極めて艶やかな接近を可能にする。だが、預言者クフトゥスはこうも仰られた:「<狂気>の表象者は閉鎖的であるため、形骸定式が望んだところを汲み上げるのは困難である」。幾何学は、造作なく理屈が平面図形に投影されるのである。

 もっとも、{パラノイア堡塁}の内在的背反を避けるために、ゼーレの<アントーニム顕揚>を疎外することはない。それは愚直な発想である。折に、人のゼーレは著しく異なる素体、或いはその連中をほとんど同時期に孕むことなど、ほとんど不可能に等しい。色々な見地から<ゼーレ>の質を観察すれど、重ね合わせ、統一されて同一視されるであろう。だから、{意義の親近性}と{意義性}とを斜交いに蔽わせることを誤謬と決定することはできぬ。そして、この論拠として<ゼーレ羊水>を据えておきたい。ゼーレを蔽う、充溢する液体としての<狂気>なのである。<メシア>があるところの{ゼーレ羊水}に手を施し、位相狂気を絶えず混淆させる。<メシア域>において、{ゼーレ羊水}が孤立的に存在することはないとしたなれば、{マティエール}にはアントーニムがないといった事情も解決できようが。

 <胎児>未分化という状態は、人が便宜上自己の連想的明晰性を示すために、諸々の形態から<胎児化>する場合をみればよい。<異なるもの>の体系は{素朴力学}の<主観=客観>図式の再来に違いない。アントーニムは<メシア>において対等な拮抗を育むか。

第三章 放蕩者の亡骸

第一節 しみったれども

 醜き者たち。<古典的>な道化師たちよ。<狂気ならずや、呆れ顔>。まるで忠犬、放蕩の奴隷であって、活発な痴呆ども。すまじきものは宮仕え、されど諂いあらずんば名をも得ず、情けなく散りうる。右往左往、迷走。

 どうでもいい。わたしは吝嗇家なのであって、貴様らに{どうでもいい}事の他語らぬ。然るに<女神>の御告げの通り、わたしはそれに従った。

 醜き者たち。死すべき者たち。この者たちを<女神>は放蕩者と呼んだ。<放蕩者>の汚濁なる思索を、直視することはできない。彼らは自己が何であるかすら知らぬ、即ち<女神>の被造物であるということ。或いは彼らは、自己の<欲望>と<情念>に飼われており、それももはや救いようのないほどであるにも拘わらず、<女神>の使い、“天使”の翼をもぎ取ろうと必死である。欺瞞と模倣で塗りつぶされた、彼らの脳髄から黄土色と紅褐色の液体が垂れている。腐敗した頭蓋から、倒錯の嘔吐と天罰の血が垂れているのである。もしも彼らの何かが、どうであったならば、贖うべき罪業さえ生じなかったというように、そう考えるのはあまりに単純である。彼ら諸々の、自己の心的過去が巨大な月日を繰り返して肥え果てた{砂塵と埃}である。塵は積もって巨大な灰山。

 連想と条理


第二部 病と救いについて

序章 必然なる救済

 

第二章 訥弁

第一節 統計的結果に挿入する力動原理

 統計的区分において、以下の通りに観察されている。

難発性連発性伸発性

発話の困難発話の繰り返し発話の延長、伸長

 

第二節 パラノイア

 

第三章 ミソフォニア




カスがよぉ

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