ひどい失態
はじめてのお出かけから数日が経った。
朝が過ぎて太陽が空気を温めるころ、ラナはほわほわしていた。
いつもの自室がいつも以上に素敵な場所に見えるし、家族が団らんする部屋はきらきら輝いて見える。
どうしてかしら、と考える余裕もなく頭に浮かぶのはシェフレラの生真面目な顔。
「シェフレラさま、今ごろなにをしているかしら」
ほう、とため息をついた覚えはあった。
だけど口に出したつもりはなかったのに。
「今ごろは騎士団で忙しくしているだろうね」
父さまからの返事があってラナはびっくり。
肩が揺れた拍子に髪の毛がふわふわなびいて、驚いたのがわかったのだと思う。父さまが「ふふ」と笑う。
「声に出ていたよ、ラナ。君はほんとうに良い縁に恵まれたみたいだね」
恥ずかしかった。
けれどそれ以上に父さまのやさしい笑顔がうれしくって、ラナは素直に頷けた。
「それもこれも、父さま母さま、リッカロッカ、それに使用人のみんなが私を愛してくれたから」
愛されて育ったから、幸せを信じていられた。
普通と違っても受け入れてくれるひとがきっといると、信じていられたから。
「父さま、ありがとう」
「ふふ。君も素直な子に育ってくれて、ありがとう」
父さまの笑顔にほんわかしていると「そうだ」と父さまが手を鳴らす。
「午後に城の方へ行く用事があるんだよ。いつも通りであれば、騎士団の方たちが鍛錬をしていると思うんだけど」
「え、それってシェフレラさまも……?」
「手が空いていれば稽古をつけているはずだよ。婚約者だろうご令嬢が差し入れを持って訪れているのを見たことがある」
「差し入れ……!」
なんて心踊る響き。
シェフレラさまがお仕事なさる姿も見られるかもしれない。
そうと聞かされて、そわそわそわそわ。
でも、急に行ったら迷惑かもしれない。だってお仕事中なんだもの。
事前にお約束をしてから行くべきなんじゃないかしら。先日、シェフレラさまがお手紙をくださったように。
行きたい気持ちと迷惑だったらどうしようという気持ちがせめぎ合う。
落ち着かない気持ちでお茶のカップを持ち上げたり戻したりしていたら、父さまが笑う。
「ラナも行くかい? 私に着いてきたと言えば、当日でも入れるよ。シェフレラ殿に確実に会えるとは限らないけれど……」
「支度してきますっ」
お父さまのおまけという言い訳が立つなら、迷っている暇はない。
あわてて立ち上がったら「お昼を食べてからの支度で十分間に合うよ」と父さまは言うけれど。
それじゃあ遅いの。
一番きれいに見えるドレスを選ばなくちゃいけないんだから。でも動きやすさも考えて。それから髪の毛にいただいたリボン飾りを編み込むのは、ぜったい忘れちゃだめ。
「父さまっ、私の支度が終わるまで絶対に待っていてね!」
*・゜゜・*:.。..。.:*・*:.。. .。.:*・゜゜・*
動きやすいドレスに踵のあんまり高くない靴。指先しか見えない手を隠すために手ぶくろも忘れずに。頭にはベールをかぶって、顔が見えないようにした。
顔は見えないんだけど。顔がないことですれ違う人をびっくりさせたら申し訳ないから。レースが幾重にも重なったベールをしっかりとかぶる。
「足元、見えづらくないかい? つばの広い帽子のほうが良かったんじゃないかな」
馬車から降りた私を父さまが心配してくれるけど。
「ちょっと見えづらいけど、大丈夫。帽子だともしかして見えてしまったときに、驚かせたらいけないから」
せっかくの髪飾りが見えなくなってしまったのはちょっと残念だけれど、仕方ない。透明な人なんて見たらみんなびっくりしちゃうに決まってるから。
「それで父さま、騎士団の方はどちらに……」
お城は広かった。
馬車をつけた場所のそばには立派な建物があるけれど、歩いているのは文官さまや侍女の方かしら。動き回るのに適していない服装の人ばかり。騎士さまらしき人影はみあたらない。
「ははは、ラナはシェフレラどのが気になって仕方ないようだねえ。騎士団の方が鍛錬をする場所はあの建物の向こう側にあるんだよ」
「父さまのご用事があるのは……」
「残念ながら、手前の建物だね」
「そうですか……」
すぐそこにシェフレラさまがいるかもしれないのに、父さまの用事が済むまでお預けみたい。
「そこまでがっかりした声を出さなくても、君は先に騎士団の見学に行っていて構わないよ。ここから先は身分の確認を済ませた者しかいないからね、危険なことも無いだろうし」
「本当ですか、父さま!」
「ああ。他のご令嬢や城で働く方がいるから、失礼のないようにだけ気を付けて」
「ありがとうございます!」
うれしくって小走りになりかけたけれど。
「おやおや。私の目的地までは一緒に行こうじゃないか。あの建物まで行けばもう鍛錬上は見えるからね。迷うことなくシェフレラどのの元へ向かえるはずだよ」
「……はい」
子どもみたいにはしゃぎすぎてたと気づいて、恥ずかしくなった。
用事を済ませに向かう父さまを見送って、建物の向こうへ。角を曲がったらもう、威勢の良い声と硬い物がぶつかるような音が聞こえてくる。
早足で向かえば、ちらほらと着飾ったご令嬢たちが見えてきた。
手に手にバスケットを抱えているのは、きっと差し入れを持ってきたんだと思う。
私だけじゃないみたいで良かった。
家を出るときに悩んで悩んで、けっきょく差し入れを用意してきちゃったんだもの。中身は洋ナシのコンポート。昼食の前に家の料理人と作ったもの。いっしょに作ったと言っても、私は用意されたお砂糖をお鍋に入れて、瓶のふたを閉めただけだけれど。
もし渡せなかったなら、帰ってから父さまとお茶の時間に食べればいいのだわ、と持ってきてしまった。
お渡しできなくても、姿をひとめ見られたら……。
期待を込めて、たくさんいるご令嬢たちのすき間から、鍛錬場をのぞいてみる。
「あっ」
いらした。
しっかりとした体格の騎士さまたちの中でも、特別にがっしりと立派な方が。
「シェフレラさま」
届くわけもないのに思わず名を呼んでしまったのが、そばにいた方の耳に届いたらしい。
前方にいたご令嬢のひとりが私を振り向いた。
「あなた、副騎士団長さまがお目当てなの?」
「えっ。お目当てというかその、先日、婚約をさせていただいて」
びっくりして正直に言ったら、そのご令嬢こそ驚いたように目を丸くする。
「あの筋肉ゴリラとご婚約を……?」
「あんな強面、わたくしだったら見つめられたら泣いてしまうわ」
「あなた、副団長のお家に弱みでも握られていて?」
周りにいたご令嬢たちも振り向いて、ざわめき始めた。
これって心配されているのかしら……?
「いえ、あのシェフレラさまとは良いご関係を……」
心配してもらえているようだとはいえ、誤解は解いておかないと。
そう思って声をあげたのに。
「副団長の嫁がきてるって!?」
大きな声に私の声はかき消されてしまった。
ご令嬢たちの間をすり抜けてあっと言う間に目の前にやってきたのは、ひょろりと背の高い騎士の方。
お年はシェフレラさまと同じくらいかしら。でもお顔に散ったそばかすのせいか、ちょっとだけ、こちらの方のほうが落ち着きが無さそう……ではなくて、少年のようと言いますか。
「あの、あなたは」
どなたでしょう。
そう言うよりも先に、そばかすの騎士の方の腕が伸びてきて私の頭のベールをひょいと持ち上げる。
「うわ、ほんとに透明だ」
「あ」
私の間抜けな声のあとは、沈黙。
やさしいご令嬢方の目がこちらを向いて大きく見開かれているのがわかった。
「っきゃああああああ!」
最初に悲鳴をあげたのはどなただったかしら。
皆さま、いっせいに走ってお逃げになって。
大騒ぎはさすがに聞こえたのでしょう、遠くにいたシェフレラさまたち、鍛錬中の騎士の方たちが集まってきて。
「ポルカ、どうした」
聞こえたシェフレラさまの声にびくっとしてしまう。
「あー、副団長。あんたの嫁が来てたからさあ」
「ラナ嬢が!?」
どごんっという音をたててそばかすの騎士さまが視界から消えた。
どこへ行ったのかしらと探す暇もなく、目の前にはシェフレラさまのお顔。
「あ……シェフレラさま」
お名前を呼んで、そして気がついた。
騒ぎを起こしてしまった。ご迷惑をおかけした。
軽い気持ちで出かけて来るのじゃなかったわ。
さあっと血の気が引く。
そばかすの騎士が消えたからベールは元通りに降りているけど、ご令嬢たちが逃げ去ってしまった事実は消えない。
「申し訳ございません!」
たまらなくなって駆け出した。
とにかく人のいない場所へ。
「ラナ嬢っ」
後ろから名前を呼ぶ声がしたけれど、今は止まれない。
行くあてなんてないけれど走って、走って、走って。
「ラナ嬢、転ぶと危ない!」
大きな掌を両肩に手をかけて止められたら、もう走れなかった。
走り慣れない私の息はみっともなく上がっていて、足はフラフラ。だけど後ろにいる人はちっとも呼吸を乱していない。ふらつく私をさりげなく支えてくれさえする。
振り向けないけれど、その声の主が誰だかわかってる。
「シェフレラさま……」
「何があったのか、聞いても良いだろうか」
「わた、私……私が透明なばっかりに、皆さまを驚かせてしまって……!」
涙がこぼれそう。だけど迷惑をかけた私が泣くわけにいかない。
まぶたをぎゅうぎゅうにつむって涙をせき止める。
どうか止まって。引っ込んで。
ひとりになったらいくらでも出てきて良いから。
目を閉じたままちいさくなって震えていると、不意に体が温かくなる。
シェフレラさまがそっと包み込むように、その腕で私を抱きしめてくれていた。
うれしかった。でもやめてほしかった。
そんなことされたら涙が止められなくなってしまう。
だめ、だめ。止まって。抱きしめないで。
「君の姿が見えないのは君のせいではない。それに君はベールをつけている。他の人々を驚かさないようにと、そうしたのだろう? 大方、ポルカが余計なことをしたのが原因ではないのか」
低くて穏やかな声。
格別に甘やかすようなものではないけれど、私のことを救ってくれる言葉にいよいよ涙がこぼれてしまった。
「うっ、ふうぅ……!」
「ちっ、ポルカめ。あの考えなしが余計なことを……!」
低く唸るような言葉は聞き取れなかったけれど、しっかりと包み込んでくれる腕の温かさに涙が止まらない。
こんなにやさしい人に迷惑をかけてしまったことが悲しい。
抱きしめてなぐさめてくれる腕がうれしい。
真逆の気持ちがあふれてせめぎあって苦しくて、どうして良いかわからなくなる。
ぐすぐすと泣いてばかりで何も言えない私に呆れもせず、シェフレラさまは抱きしめた腕はそのままにそっと私の髪をなでてくれて。
「……君の姿が見えないのは事実だ。そのことを誰もが認めるとは言い切れない。現状、どうして良いのかもわからない。だが、それでも、俺は君といる時間を大切にしたい。どうか、君の苦しみをいっしょに抱えさせてはくれないか」
静かに、耳元で吹き込まれるように告げられた言葉。
楽観するわけじゃなく、それでも私の手を離さないでいようとしてくれる言葉がうれしくて、うれしくて。
抱きしめたい。
抱きしめられるだけじゃなくて、この方を抱きしめたい。
私の問題をいっしょに抱えたいと言ってくれたシェフレラさまを……。
縮こまっていた腕を伸ばして、シェフレラさまの体に触れる。
大きなだけでなくて厚さもある体に腕を回すことはできなくて、ただしがみついているような格好になってしまったけれど。
「ラナ嬢……!」
「シェフレラさま……」
抱きしめあって、たくましい胸に頬を預ける。
シェフレラさまの体温で悲しい気持ちがほんの少し、溶けていくようで。
「ラナ嬢、君の腕が!」
「え?」
驚いたようなシェフレラさまの声で目を開けたら、ドレスの袖と手袋の間に肌色が見えた。
思わぬ事態に抱きしめ合う腕が解けて、互いの体が離れる。
「え、ええ?」
慌てて手袋を外すと、そこには指先だけじゃない。手のひら全部がちゃんと見えていて。
ううん、手のひらだけじゃない。手首から上までもそこに確かに見えていて。
「ど、どこまで見えるように?」
思わずドレスを脱ぎそうになって、ハッとする。
「シェ、シェフレラさま! 私、家に帰ります。どこまで見えるようになったのか、確かめますから……!」
「あ、ああ! それはそうだ。ここで脱ぐわけにはいかない。ああ。絶対に駄目だ。ええと、そうだ。帰るのだったな、馬車まで送ろう!」
ハッとしたように顔を上げたシェフレラさまのお顔が赤い。
大慌てで馬車まで戻った私は、父さまを呼び出してもらってお家に帰ることになった。