4.呪い返し?
「萌、これに体液をちょうだい」
ここは萌の部屋。
体液をよこせと言うのは、七分目くらいに水を張った小さなお茶碗を両手に持つ彩音だった。
「ワオ。西山ちゃん、だいたーん」
茶化す直哉。だが、彩音ににらまれ「サーセン!」と速攻で謝った。
三人は、近々行われる期末テストのための勉強会と称し、萌の部屋に集まっている。もちろん、それは口実で、本当の目的は呪い返しを実行することだった。
「体液って……えーと、なに?」
念のため、聞いてみた。アレだとしたら、全力でお断りするしかない。それが呪い返しに必要だったとしても。
「手伝う?」
彩音は首を傾げて聞いてくる。
一瞬、それを想像してしまい、萌は赤面する。
萌がためらっていると、彩音は水入り茶碗を直哉に渡してから、萌の左手を自身の両手で取った。彼女の手は小さくて柔らかくて、ちょっとだけ冷たかった。
彩音はくるりと背を向け、萌の腕を腋にがっちりと抱え込む。そうして、どこからか安全ピンを取り出すと、その針先で萌の人差し指をチクリと刺した。
「いっ!」
萌は思わず声を上げる。
「ちゃんと消毒してある。心配しないで」
彩音は淡々と言って、萌の指先にぷくりと浮かんだ血の玉を、直哉が持つ茶碗に振り落とした。
「なるほど、体液」
直哉がなにやら残念そうに、納得してつぶやく。
「汗、涙、唾液。体から出るものならなんでもいいけど、血液の方が成功しやすいと思う」
彩音は、これまたどこからか取り出した絆創膏を、萌の指に手早く巻いた。準備万端整えていると言うことは、最初からこうするつもりだったようだ。
解放された萌は、刺された指先を見る。そこに貼られた絆創膏は、なんともファンシーなものだった。黒頭巾をかぶった目付きの悪いウサギのキャラクターがプリントされているのだ。
そう言えば、彩音と出会って間もないころ、萌は彩音がこのキャラに似ていると、彼女に指摘したことがある。主に、それは目力の強さについてだが、以来、彩音はよくこのキャラのグッズを集めるようになった。どうやら、今もお気に入りのようである。
「次は、どうするんだ?」
直哉が聞いた。まだ茶碗を持ったままだ。
「そこに置いて」
彩音は、部屋の中央に置かれた折り畳みテーブルの上を指差した。そこには、親が踏み込んできても言い訳が立つように、三人分の勉強道具が並べてある。
直哉は指示通り、テーブルの真ん中にそっと茶碗を置いた。
彩音は床に座ると、茶碗の上で指を組み、ブツブツと何かをつぶやき始めた。何を言っているかまったくわからないが、お経のようにも歌のようにも聞こえる。
萌と直哉も腰をおろし、息をつめて呪文を唱える彩音を見守った。
「萌、覗いてみて」
体感で一分ほどだろうか。彩音は呪文を止めて、茶碗を指差した。
萌は言われるがまま、水の入った茶碗の中身をのぞき込む。水は澄んでいるが、ここには確かに萌の血が混じっているのだ。
「あっ」
萌は思わず声を上げた。水面に、こつぜんと人の顔が現れたのだ。写真よりも鮮明で、なんならうぶ毛まで見えそうな解像度。しかし、萌が驚いた理由はそれではない。茶碗の中の人物は、夢で見たあの美少女とそっくり同じだったのだ。
「何が見える?」
彩音は尋ねた。彼女の目には、これが映っていないようだ。茶碗の中を矯めつ眇めつする直哉にも、やはり見えないらしい。
「女子が映ってる。今朝、この子の夢を見たんだ」
「夢?」
「うん、えーと……デートしてた」
「デート」
繰り返す彩音の声の響きは、なにやら剣呑なものがあった。
うかつにペラペラしゃべると、ロクなことにならないと直感した萌は、説明から間接キスのくだりをしっかり省いた。
「たぶん、三川さん」
と、彩音。
「でも、僕、三川さんの顔知らないよ?」
「思い出せないだけ。萌も入学式の時に必ず見てる」
たしか、何かの本に、似たような話が掛かれていた。勉強は覚えることより、覚えた知識を引っ張り出すことの方が難しい、とかなんとか。あいにく、本のタイトルは思い出せない。
「なあ、つまり呪いのヌシって、三川さんなのか?」
直哉が聞き、彩音がうなずく。
「どうすばいいの?」
萌が尋ねると、彩音は再び安全ピンを取り出した。
「これで、水面を突いて」
萌は言われるがまま、安全ピンを開き針の部分で茶碗の水面を突いた。途端に詠美の映像は、シャボン玉のように弾けて消え、代わりに茶碗の水は赤黒く濁り始めた。
「ひえっ」
直哉が変な声を上げて、尻をこすりながら後退りした。
萌にしか見えない詠美の顔とは違い、水の変化は直哉にも分かったらしい。
「うまく行った。これでもう、萌のウワサは流れない」
彩音は宣言する。
「なあ……それって、血か?」
テーブルから遠く離れた直哉が茶碗を指差す。
「いいえ。呪いが、そう見せただけ。今はもう消えてる」
萌は茶碗を覗き込んだ。一瞬目を離したすきに、中の水は透明に戻っていた。
「さて」
何事もなかったかのように、彩音は教科書とノートを広げた。
「二人とも、テストの範囲は覚えてる?」




