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六花詠う空に

作者: 青桜さら

桜シリーズ③前世編(初めて出逢う冬)



「となり里から参りました、雪乃(ゆきの)でございます」

 凛とした声があたりに響く。その者は巫女の服装をして、湖の淵に立っていた。

「里神からの手紙を預かってまいりました」

 これが雪乃と龍神の出会いだった。


 近くにある里の神は、何度もここへお願いをしに来ていた。

『もう自分には里を守る力はない。存在自体が尽きる寸前だ。たのむ、後任を………』

 切実な里神の願いだけど受けれられないと、何度も断ったはず。

「お前は――」

「雪乃でございます」

 今回は人が来たようだ。

 巫女のように見えるが、それでも人には変わらない。

 里神が再び来たとしても断るつもりだったけれど……人が来ることを考えていなかった。

(ここの神域に入った時点で、神罰が下っても文句は言えないだろうに)

 とはいえ龍神自身の好奇心で、この者を中に通したわけだけども。


「雪乃か。里神に言われて来たのか?」

「いいえ、そうではありません。わたくしの意思でここにいます」

 よく考えれば、あの人間大好きな里神が、人をここへ向けるわけないだろうな。

 雪乃は両膝を地につき、手紙を捧げ持つ。そして龍神がそれを受け取るまで微動だにしない。

 手紙を取らなければ、いつまでもそのまま居そうで……気が進まないが手に取る。

 手紙をとっても雪乃は動かない。

(この場で読めってことか)

 人は嫌いだが、里神の代理なら仕方ない。かさりと紙を開いた。 

 そこには里神のいつもの言葉がつづられている。

『前略 どうか後任をおねがいしたい』

 いやこの手紙も十分おかしいだろう。少し抜けている里神だけど……さすがにこれはない。大きなため息が出てくる。

 詳しい内容は先日聞いていたから、改めて書かなかった可能性がある。

 長々と事細かく書かれていたら、龍神は読むのを諦めていただろう。

 だとすれば、この内容は龍神の性格を考えて書かれたかもしれない。確信はないが。

 

 手紙を読み終え、伏せている雪乃に声を掛けた。

「手紙を読んだぞ。そろそろ立て、雪乃」

 その言葉で雪乃はゆっくり立ち上がる。

 人の姿をしている龍神と、雪乃の目線が意外と近かった。

(雪乃は背が高いんだな)

 

 龍神を見上げる雪乃は、目を反らさない。龍神の金色の瞳をまっすぐ見つめている。

 神の目をまともに見る人間は、雪乃が初めてだ。

(怖いもの知らずなのか、それとも……) 

 雪乃は不意に、にっこりと笑みを浮かべた。

「龍神様。わたくしどもの里へ、是非いらしてください」

「…………」

「幸いにもこの湖と里は、さほど離れておりません」

(結構離れているぞ)

 歩いてきた雪乃なら、遠いことくらいわかるだろうと、龍神は思う。

「龍神様ほどのお力があるなら、ここの湖とともに……里の加護もしていただけると信じております」

(勝手に信じられてもな)

 そもそも里に行く気はない。

(雪乃を困らせるには何か一番良いだろうか)

「俺は気性が荒い。人間を加護するには向かないだろう。ここにいる雪乃も安全とは限らないぞ」

 少し怯えればいいと思う。

「それに……里神の頼み事はすでに断ったことだ。雪乃個人が神に願いを乞うなら、それ相応の代償が必要だ。雪乃は俺に何を差し出せる?」

 何事もなく帰ってくれたらいい。

 しかし雪乃は怯えない。 

「龍神様はわたくしの何を求めるのでしょう? ……わたくしの血肉、でしょうか? 何も持たないわたくしには、その程度しか差し上げられません」

 雪乃は怯えも動揺もしない。平然と己の血肉かと尋ねる。

(確かに邪神に墜ちたものは、贄を求めたりすることもあるな)

 本当は代償がつねに、血肉や命を必要とするわけではない。

(雪乃なりの決意か。命をかけてでも守りたいものが里にあるのだろう)

 雪乃は静かに答えを待っている。

(覚悟を持ってここに来たってところか)


 深いため息を吐きだし、龍神は雪乃に答える。

「人は食べないし、必要ない」

「では、何をお望みで?」 

(目の前にいる雪乃を少し怯えさせて、里神が人をよこさないように、と考えただけなんだが……諦めそうにないな)


 命を失う覚悟の雪乃にそれは無理かと龍神は諦める。

 むしろ贄を差し出してくる人間の方が、怖いと龍神は思う。

 それより……そこまでして雪乃が守りたいものに、龍神は興味が沸いた。


「まさかとは思いますが……代償が必要というのは、嘘ではないですよね。わたくしは血肉をと言いました。ですが龍神様は『食べない』とおっしゃいました」

「そうだな」

(代償に血肉を求めるとも言ってないが)

「こちらの案を否定なさるのなら、龍神様からご希望をお願いいたします。願いごとに代償が必要……ならば、わたくし自身だけで対処できることを強く望みます。そうですね……たとえば――」


 その後に続いた言葉に龍神は頭を抱えた。

 生贄で血肉とか、人柱とか、なんなら湖に身を投げるとかなんとか……。

 他の神はしらないけど、そんなことを提案されても困る。

(湖に身投げとかやめて欲しい。水が汚れるし。そもそも生贄が必要なんて言っていないのに)

 ただの代償だったはず。

(たとえば作物とか酒とかだろう? 雪乃が素直に諦めて帰ってくれるにはどうしたらいいのだろうか。一番効果的な方法は何かないだろうか)

 龍神は考える。

 人と関わり護るなんてやりたくない。人は移ろいやすい生き物。どうせ千年くらい経てば、信仰はなくなるだろう。

 そうなったらその里を護る必要もなく、この湖へ帰ればいいだけだけど、それも面倒だと思う。

 しかし、ここを離れてわざわざ里神になること自体が無駄。

 今の里神は最初から力が弱かった。隣の神域だからよく知っている。

 それでも力の続く限り里神として守り続けていたようだ。そんな里神も最期のときが来ただけのこと。

 どんな神でも限りある。


 雪乃は神子みこだろう。

 神の姿を見て言葉を聞いて、それを人々に伝える役割。そして人々の上に立つ、おさという立場だと予測する。

 龍神が見えて、龍神と話せるから、恐らく間違っていないはずだ。

 いろんなものを背負い雪乃はどんな気持ちで、いまここに立っているのか。

 喰われるかもしれないくらいは、考えていただろう。


 ただ雪乃からは悲観的な感情は読めない。何がなんでも龍神を里へ、必ず連れて帰るという意思は感じた。

(ただの強がりか、それとも……)

 雪乃はどういう者なんだろうか。

 目の前の雪乃だけが、全てではない。龍神はそんな予感がした。


「――で、よろしいでしょうか?」

「あ? うん?」


 何の話だと聞こうとしたら、雪乃の声にさえぎられた。

 長々と案を語る雪乃の話を、龍神は全く聞いていなかった。

 

「なんと慈悲深い龍神様。わたくしは生きてきた中で、これほど感動することはなかったです。龍神様さえよければ、わたくしはいつでも心の準備はできております。さぁ、里へいらしてください。そしてすぐ婚儀を執り行いましょう。ふつつか者ですが、命ある限りおそばにおいてくださいませ」


 龍神は長々しい話を聞いていられない、そんな自分自身を憎んだ。


(……やられた)


 聞き返そうとした頷きは、了承とされてしまった。

 話を途中から聞いていなかった龍神の失態だろう。それでも龍神の怒りを買えば、ただでいられない。

 ここで雪乃を消してしまっても、問題はなにもない。

 ここへ来させた里神の責任で、龍神にしてみれば神域に無断で入ってきた雪乃を排除できる権限がある。

(しかしなぁ。雪乃のなにかが惹かれるんだよな)

 龍神は雪乃という人間に、興味が湧いた。


 一つ間違えば命すら簡単に落とす状況で、強気に出る雪乃はいままでどのように生きてきたのか、強く惹かれた。


「仕方のない人間だな」

「雪乃とお呼びくださいませ」

「雪乃がここへ来れば、里に帰る必要もないだろう。この湖で暮らせばよいだろう」

 その言葉に雪乃はにっこりと笑う。

「里神に報告しに帰ります。わたくしは里で待っていますね」 

「……そうか、わかった」

「それでは新たな里神、竜神様をお迎えする準備をして待っています」

 一礼し雪乃はそのまま去っていった。

 あくまで里神になることが条件らしい。

「まったく困った雪乃だ」

 ここまで慕われる里神が、少し羨ましい。

 里神の後任を勝ち取った雪乃は、命を掛けて今の里神を慕っている。

 そんな人間は龍神のそばにいたことがない。

(雪乃のいる里なら、行ってもいいか)

 形式上で伴侶になるのも悪くないと龍神は考える。


(信仰がなくなればいつでも、この湖に帰ってくればいい。それまでの自分のひとときを雪乃にくれてやろう)


***


 徒歩で里に帰り着いた雪乃は、まっすぐ里神の元へ向かう。

 龍神をこの里へ迎えることを、報告するつもりだった。

 里神が直接交渉しても、龍神は次の里神になることを了承しなかったと聞いていたからこそ、雪乃はある程度の覚悟は必要だと思っていた。

 けれど実際に見た龍神は、独りを好むだけで荒神ではないと感じた。

 そのことに安堵しつつ、この里へ迎えるには里神をどう説得するべきだろうか。


(それにしても、冗談が通じる龍神様で本当に良かった……)

 覚悟をしていたとはいえ、実際に命を引き替えにと言われると厳しい。

「雪乃です、ただいま帰りました」

 本殿へ入り扉を閉める。それから正座して静かに深く頭を下げた。

 いつもここに里神がいるわけではない。ここでこちらから呼びかけて、里神は神域より降りてくる。

 祭壇に里神の気配がやってきた。

 静謐に静寂、そして温かい里神。いまはもう弱い気配になってしまった。

 雪乃が神子になってから、急激に里神の力は衰えてきた。 

(わが里神様……)

 雪乃は、なんとも言えない気持ちに苛まれる。

 後任の心配はなくなったというのに、雪乃の心は晴れない。


「雪乃お帰り。龍神はどうだった?」

 里神から声をかけられ、雪乃は頭を上げる。

 優しい声が本殿に響くその声に、少し心配そうな声音が混じっていた。

「お話を聞いていた通りの龍神様でした」

「そう、それは良かった」

 里神は龍神のことを、面倒事を嫌うけれど悪い神ではない、と雪乃は聞いていた。

「龍神様は快く、この地に来てくれるそうです」

 本当は快くではなかったけれど、心配させたくなくて細かいことを省き報告する。

「…………そうか。本当に良かった」

「はい」

 今まで断り続けられてきた里神は、喜びを噛みしめる。

「ただ……こちらに来て頂く際に条件がありました」

 雪乃自身でも無謀だと思ったし、それを龍神が受け入れることさえ想定していなかった。

 とにかく龍神に里へ来て欲しい。あの時はその思いだけで、龍神と交渉していた。

(無謀なことだとわかっていました。気に入らなければ、わたくしなど相手にせずどうにでもできたでしょう)

 けれど雪乃のなにかが龍神の心を動かしたようで、何事もなく雪乃は里へ帰ってこられた。

 雪乃は必死だった。龍神は結果的に里へ来ると約束をしてくれた。

(何をどう思われても、この地に新たな里神が来るというのなら……それでいい)

 神との口約束は、正式な契約になってしまう。

(わたくしは約束を守らなければなりません)

 龍神はこの地の里神となり、雪乃は神子みこと里長と、龍神の花嫁として兼任していく。

「雪乃」

 少し困った顔をして里神は雪乃を見る。

「本当は無茶なことをしてきたんだろう。雪乃が無事に帰ってきてくれて、本当に良かった」

「…………」

 里神は穏やかな声で雪乃に語る。ただそれだけで雪乃は胸が熱くなった。

 これは恋でも愛でもない、そんなものでは言い表せないほどの感情。

 本音を言えば、ここでの雪乃の役目が終わったとしても、里神にはずっとこの里にいて欲しいと思う。

(しかしそれは叶わないこと。せめて里神様が望むことを少しでも――出来ることなら、この里の平穏な日々を約束したい)

 心の奥底に密かに……でも強く思う。

 少しでも里神の憂いが晴れるなら、どんなことでもしたかった。


「ところで雪乃。龍神の条件ってなんだったの」

「龍神様がわたくしと婚姻をすることです。間もなく龍神様は、この里へいらっしゃることでしょう」

(わたくしが取り付けた条件だけども)

 ふいに本殿の空気が冷えた。

「雪乃ちょっと待て。そんなことは頼んでいない。婚姻だと?」

「いえ、願うなら代償をと言われまして……血肉も命もいらないと言われました。ですので婚姻することで了承して頂きました」


 正確には、長々と話をしている間に龍神が話を聞いていなかったから、そのときに雪乃の都合の良い条件を出し了承させた。

 婚姻さえ必要ないなら、龍神はその場で断っただろう。

 けれど龍神は呆れた様子を見せたものの、断ることなく了承した。

 龍神の力は強い。おそらく生きていく時間も果てしなく長いと雪乃は考える。

(なら、ひとときの暇つぶしくらいにはと、考えてくれたのだと思う)


「雪乃、きちんと話をしなさい。婚姻というのはそんなことで簡単にするものではない。もっと自分自身を大切にして欲しい」

「……預かりました手紙を読んでもらいましたが、断られてしまいました」

(次は会ってくれないかもしれない)


 この里は雨が降りにくい。だからこそ里神の加護が必要だ。

 山の実り、川の恵み、作物の豊作。これらは人の力だけではどうにもならない。

 龍神は水や天候を操ると聞く。

 ならば、この土地の加護に最適だろうと雪乃も考えた。

「なかなか了承していただけなくて、提案の一つにわたくしとの婚姻を提案させていただきました」

「それで?」

「はい。すぐに断ろうとしなかったので、多生強引に話の取り決めを」

「龍神と雪乃の婚姻は決定か。けれど雪乃、私は反対だ」

 雪乃は目を見開く。里神はその雪乃の目をじっと見てくる。

「雪乃には幸せになって欲しいと常々思っていた。でもそれが龍神との婚姻とは……。確かにこの地に後任の神は必要だよ。それでも雪乃自身が犠牲になる必要はないだろう」

 里神の言葉は静かに、そして怒りに満ちていた。

 雪乃はここまで里神が怒るとは想定していいなかった。

「里神様どうか静まってくださいませ。どうあっても後任の神様は必要でした。ですから私も里長として、最善を尽くしたのです」

「そうじゃなくて雪乃は龍神に好意を持っているならともかく、そうではなくてただ里に来てもらうための条件として婚姻をしようとしていることに、私は怒っているんだ」

「――それでも後任の神様は、必要だと思います」

「確かにそれは必要。私が消えてしまえば、この里の者たちは別なところへ移住しなければ生きていけないだろう」

「わたくし一人でどうにかできるなら、本望です」

 里神は頭を抱える。

「雪乃には好きになった人と、一緒になって欲しかった。それは確かに私の勝手な考えだよ。それでも幸せになって欲しい」

「――わたくしの幸せは、この里の発展と安定。そして里神様の心が休まることです。それ以外はなにもいりません」

 恋を知らない雪乃は、好きな人と結婚する良さが全く理解できない。

 それでも里神は雪乃の婚姻に、何かしらの思い入れがあるように見える。

「雪乃よ、お前が神子みこだったとしても、一人の人として幸せを手に入れて欲しい。お前がとても心配だよ。なにも雪乃が一人で抱える必要なんてない」

「この里の人々が幸せに暮らせるとしても……でしょうか?」

「だとしても、婚姻は好きな人として欲しかったんだ」

「ですが、龍神様との契約は成りました」

 里神は深く深くため息を吐き出す。

 神との契約は絶対、それを里神は知っているから悩ましいのだろう。

「里神様、大丈夫です」

「雪乃?」

「お会いした龍神様は、悪い方ではありません。でしたら、わたくしが慕うこともあるでしょう。想いは後からでも良いかと思います」

 そうなるかなんて保証はどこにもない。

 それでも今の里神を鎮めるには、この言葉が必要だった。


 先のことは不確かだけど、龍神と恋仲になる可能性はゼロではない。

 不可能を証明するのはとても難しい。だからこそゼロではない可能性に里神が納得してほしいと願う。

「……雪乃がそこまで言うのなら、婚姻のことはもう言わない」

 やっと折れてくれた里神に、雪乃は深く頭を下げて感謝を表す。

「けれど、龍神がここに来てもすぐに婚姻はさせない。私が力尽きる瞬間まで、雪乃の気持ちが龍神へ傾くのを見届ける。私の命が先に消えるか……雪乃が恋に落ちるのが先か……」

 断言の後に里神はそう呟いた。ただ単に反対しているわけじゃない。雪乃のことを心配してるからこその里神の苦悩だろう。

 いまは何を言っても里神の心は安心できない。雪乃はそう思った。

(龍神様と恋仲……)

 それは雪乃にも未知なことで、良い考えが見つけられない。

(可能性はゼロではないけれど……あり得ることなのでしょうか)

 心の中に不安が、波紋のように広がっていく。


***


 雪乃は神域にある湖の畔にいた。

 ここは里神の加護のおかげで、枯れることはない。

 凪いだ水面に太陽の光が、眩しいほどに煌めいている。

 今日は龍神がこの地に来る日。

 この湖が良いだろうと里神が、龍神の来訪を許した。

 本来、ひとつ地に神が二人いることはない。

 里神を送り出して、龍神を新たな里神として迎え入れる。里神は本来そう考えていた。

(どうしてこんなことに……)

 里神は、龍神と雪乃の婚姻を認めてない。

 形ばかりの婚姻に過ぎないのにと、雪乃は頭を悩ませている。

 

『雪乃は神子みこの後任を育てなさい。いずれ神子を辞めるときに必要だから。それと普通の人として幸せになれないのなら、龍神との婚姻は認めないよ』


 里神の存在が消えてしまうそのときまで、雪乃を見届けると。

 確かに龍神と婚姻を成せば、神子として退位したとき雪乃は他の人と婚姻が出来ない。

 人並みの生活や営みとは、違う老後になるかもしれない。

(わたくしの全てを掛けてでも、龍神様を迎え入れる必要があったのだから)

 だから覚悟はしていた。

 ただ里神が反対するとは予想していなかった。

 


 寒く雲の低い空から、白い花が降ってくる。

 里にも雪の季節がやってきた。

 目を閉じ雪の結晶を思い浮かべる。六花と呼ばれる雪の結晶は、とても美しく儚い。

 雪乃はこの喜びを詠う。今年もまた美しき景色を見られる喜びを込めて。

 静けさの中に響く雪乃の声は、女性にしては低めだとよく言われてきた。

 それも仕方のないこと。


(そろそろかしら)

 用意していた敷物を畔に敷いて、履物を脱ぐ。そして敷物の上に正座し、ひれ伏す。

(龍神様がいらっしゃる)

 里神から龍神がこの日に来ると聞いていたけれど、時間は読めなかった。

 すこし気まぐれなところがあると、聞いている。気が向いたときにあちらの湖から飛び立つのだろうと、雪乃はそう考え朝からここで待っていた。

 そうして、雪が舞い始める頃に龍神の気配を感じ、雪乃はこうして敷物の上で頭を地につけ待つ。


「久しいな、雪乃。六花を詠うとは風流だ」

「お待ち申し上げておりました。龍神様」

「里神から事情は聞いた。面白いことになっているな」

 笑うだけで許してもらえたことに、雪乃は安堵する。

「……申し訳ございません、全てわたくしの責任でございます。神域のことなのですが……」

「良い良い、気に病むな。この湖に棲むから、心配はいらない」

 本来ならありえないことに、怒ってもおかしくない。それでも、龍神は不問にするという。

「婚姻は遠くなりそうだな、雪乃」

「約束は違えません。申し訳ございませんが、しばらくお待ちくださいませ」

 龍神は雪乃のそばに来て、雪乃の頭を撫でる。

「最初は面倒な人間が来たと思っていたが……雪乃は使命に忠実な神子だったのだな」

 ただ不器用な人間だと、龍神は言う。

「雪乃、顔を上げて」

 言われるままに、ゆっくりと頭を起こす。

 直接見てしまわないように、目は伏し目がちに湖の水面を見つめた。

 水面に吸い込まれる雪が、見える。

「雪乃のために振らせた雪だ。六花と共に詠う雪乃は美しい。婚姻を前提にここに来たのだから、あのときのように胸を張って目を合わせて話をしようか」

「はい」

 初めて龍神の穏やかな表情を見る。

 包み込むような暖かな気配。

 雪乃に心を砕く龍神。

(本当は人が嫌いなわけではないのでしょう)

 雪乃はそう感じた。


***


 里神と龍神は二人だけで話をしたらしい。

 神同士のことに、神子といえども同席はできない。

(わたくしの仕事は、里神様の声を里の人々へ伝えること。里長として、皆が安心出来る環境を維持していくこと)

 とはいえなにを話していたのか、雪乃は気になっていた。もし何かがあれば里神が伝えてくる。そうしてこないなら、その必要がないということだろう。


 雪乃は務めの合間に、雪道を踏みしめて湖に通っていた。

 義務とかではなく、なんとなくそうしたかった。その理由は雪乃もわからない。

「雪乃、寒くはないか?」

 そう出迎えてくれる龍神に、雪乃の心は絆されていく。

 短い逢瀬に、寄り添うだけの時もあったり、以前いた湖のことを雪乃に話をしたり、この里のことを雪乃から聞いたり。

 なんてことない毎日が雪乃の楽しみだ。


 ある日務めの後、雪乃は里神に呼び止められる。

「楽しそうだね」

「そうですか?」

 確かに楽しいかもしれない。

 里神から見て「楽しそう」と見えるなら、それは正しいことだろう。

「悔しいけれど、龍神のせいかな」

 そうぼやく里神は、少し悔しそうな顔をしていた。

 雪乃が楽しそうに過ごしている姿は、龍神がこの地に来てからだと里神は言う。

「この里を龍神に任せるのは、全く問題ない。けれど雪乃がな……婚姻なんて神とするもんじゃないよ。幸せになれないだろう?神という存在は、立派な神ばかりじゃない。そんな世界に関わるなんて、雪乃は本当に愚かだよ」

 まるで父親の小言だと雪乃は感じる。

 幼少の頃から雪乃は、里神の神子としてずっとこの地にいた。

 里神にしてみれば、娘のような存在の雪乃を嫁に出す気持ちだろう。

「里神様、全て承知しております。覚悟も」

 雪乃がそう答えると、里神は深く深くため息を吐き出す。

「いつの日か神子をやめて、普通の人として人生を歩んで欲しかったな。幸いにもこの時代は能力ある者に恵まれた。神子の後任教育もしっかり頼む」

「はい」

 里神はなにかを諦めたように、脱力して本殿から消える。神域へ帰っていったのだろう。

 弱くなっていく里神は、こちらにいるだけで力を消耗してしまう。

 話を聞く回数も時間も、日々短くなっていくことに雪乃は気付く。

(どうしたら里神様の心を、穏やかにできるのでしょう……)

 龍神と良好な関係なら、大丈夫と思っていた。けれど、それはそれで里神を悩ませてしまう。

 仲違いしても婚姻は決定事項。

 どちらにしても、雪乃の決めたことは里神を悩ませることになってしまった。


 

 里長として皆を見守るとともに、雪乃は能力がある者たちを選別していく。神子後任のために。

 基本的に男女は関係ない。ないけれど、女性の方が良いとされてきた慣習を思えば、女性であるほうが気持ちは楽だろう。

(わたくしのような苦しみは、もう終わりにしてあげたい)

 今はともかく雪乃が去った後、生まれてきた者たちが男児だけの可能性もある。   

 雪乃のときと同じように。

 性別をひた隠しにし、女性として生きていくことはつらい。

 里神は神子の性別も姿も気にならない。神だからこその感覚かもしれないと雪乃は考えている。

(そういえば……龍神様は気付いているのかしら?)

 欺く意図は全くなかったし、神ならすぐに気づくと思っていた。けれども、仮に気づいていなかったら……。

 雪乃は急に背が冷たくなる。


「雪乃様、ご気分が悪いのですか?」

 幼い子が雪乃の顔を覗き込んでいた。

 小さな可愛らしい女児。神子候補の一人の子。

「大丈夫ですよ。さて今日は何のお勉強をしましょうか」

「はい」

 少し気分の落ちた声が、少女の口から落ちる。

「お勉強は嫌いですか?」

「い、いえ、そんなことは」

 嘘のつけない素直な彼女は、慌てたように否定する。

 愛らしいその姿に、雪乃はかわいそうに思う。

 望んで神子候補になったわけではない。実力があったからこそ、雪乃は彼女を選んだ。

 他にも候補はいるけど、その中で能力が秀でているのが今目の前にいる少女だった。

「神子になるのは怖いですか?」

「わからないです」

「では今日はお勉強ではなく、神子について知らないことや不安なことを聞いてあげましょう」

「いいのですか?」

「ここだけの話ですが、わたくしも勉強は嫌ですよ」

 雪乃がそう言うと少女が笑う。それにつられて雪乃も一緒に小さく笑う。

 年相応の幼い心。

 雪乃とは何もかもが違う存在を、大切にしてあげたい。


(できれば、里長の職も分けてあげたい。神子の仕事が多すぎて、人によって合わないこともあるでしょう)

 里のすべてを神子一人で、背負うのはとても大変なこと。

(わたくしのときは、それが当たり前でそう教えられてきた。でも時代の流れに合わせていくのも必要)


 少女の不安や好奇心からの質問に、雪乃はわかりやすく笑顔で答えていく。

「雪乃さまの背は、とても大きいですね」

「もう少し、小さくなりたかったですよ。理想があっても思うようにいかないものですね」

 女性にしては高い身長。長い髪で雰囲気を隠しているけれど、雪乃は男性。

 男性にしてみれば低めの身長。声だって声変わりしてから、常に高めの声を出そうと心がけている。

 神子の適性に男女は関係ないと言っても、やはり見た目は女性であるように……また、近しい者のほかには性別を隠すことを教え込まれた。


『里神様を欺く必要はありません。ですが、里の人々を不安にしないこと』

 男性の神子は過去にもいた。

 その時代に里人は神の怒りに触れ、里の天候は荒れに荒れた。

 元の原因は里人の乱れた行為にあった。

 女性を大切にしなかったり。盗む行為を多数の者がしていたり。神子に敬意を持っていなかったり。などなど。

 信仰心がなかったことも、原因のひとつだっただろう。


 男性の神子だから厄災が起きたわけではない。

(すべてが……男性の神子だったから神の怒りに触れたと。そんなわけがないのに)

 その神子は贄にされたと、記録に残っていた。

(神子に否はなかった)

 誰かに責任を押し付けたかった人々は、それで満足したのだろうか。

(わたくしが神子でいる間に、あの記述は消してしまいましょう)

 雪乃が神子の役目を終えたとしても、男性として生きていくのは無理だろうと考える。

 女性の神子として役割をこなし、また里長も兼任している。

 女性の神子だから皆は安心している。

 男性だったとわかったときに、人々はきっと平静でいられない。

 何か災いがあったときに、雪乃が贄にさせられる可能性は高かった。

 ならこのまま女性として生きた方が、自分自身も里の人々も平穏でいられるだろう。


(すでに人並みの生活はできないのなら、龍神様の花嫁になっていたほうが里は安泰でしょう)

 龍神に雪乃の性別を言うべきかどうか悩む。

 知っているなら問題ない。知らなくても契約はすでに成っているため、それも問題ない。

 龍神との関係が良好になったいま、自身の性別の話をするのが怖いと雪乃は思い始めていた。

(龍神様を欺いたわけではないのに、どうしてこんなに心が苦しいのでしょう)


 龍神がこの里に来て、ひと月が過ぎる。

 それでも里神は雪乃が心配で、穏やかにこの地を去ることができない。

 幸いにも龍神の気分は害していないのが救いだった。

 神子後任の教育は、皆それぞれ頑張っていて順調。

(できれば……神子は女性に、里長は男性に)

 神子と里長の関係が対等なら、より良いだろう。

 祭事も分けるほうが、神子の負担が減ると雪乃は考える。

(私が変えなければ、これからも同じことが続いていく)

 雪乃には、それだけの権力があった。

 龍神との婚姻は形だけでも、雪乃の言葉に重さが増す。

(生きている間に、いろんなことを変えていかなければ)  

       

***


「最近の雪乃は、少しばかり元気がないように見える」

「そんなことはないですよ」

 龍神が心配した顔で、雪乃を覗き込んでいた。

 はじめて龍神を見たとき、正直なところ……心優しき龍神とは思っていなかった。

 人と関わりたくない。そんな雰囲気があった。

 過去に何があったのか、何もなくても人が嫌いなのか、それはわからない。   

 龍神の言っていた通り、人の心は移ろいやすい。

 それは仕方がないことだろう。

 雪乃自身も人々の勝手によって、女性の格好をさせられ……また男性であることをひた隠しにしなければならない。

 恨んではいない。それでも理不尽だと雪乃は思う。

 過去に亡くなった神子もまた、里の人々の理不尽で命を奪われた。

 もう繰り返してはならない。

「雪乃は難しく考えすぎだ。立場があるのはわかる。けれど、もう少し自分自身を大切にして欲しい」

「龍神様、わたくしは神子です。この里のすべてを守らなければ、いけないのです」

「雪乃を大切にしてくれない里なのに」

「……里神様が大切にしてくださいます」

 龍神はひとつ息を吐く。寒い空気の中、それは白く雪の景色に美しく見えた。

「雪乃、寒くないか?」

「はい」

 今更ながら、龍神が棲む湖の周りは雪化粧で……白く煌めき何もかも浄化してしまいそうなほど美しい。

 雪は積もっていても空は青く、陽の光が降り注ぐ。

(そういえば、本当に寒くない)

 寒さに慣れている雪乃の指先は、冷たくなっていないことに気づく。

 両手を広げ指先を見つめている雪乃に、龍神はほほ笑んだ。

「やっと気づいたか。雪乃がここに来るときは、寒くないようにしていた」

 人は脆いからな、と龍神は言う。

 雪乃は温かい指先から、龍神へ視線を滑らせる。

「申し訳ございません。ありがとうございます」

「毎日会っているのに、雪乃は考え事ばかり。体を大切にしてくれ」

「はい。――あの、この雪ももしかして……」

 龍神は湖を見た。

「この湖は美しいな。こうして雪乃と一緒にいられるのだから、俺から雪の贈りものだ。雪が好きだろう?」

 朝には晴天だった。

 なら、この雪は深夜に降ったことになる。

 里にも雪が積もっていたけれど、人々の困るほどではなかった。

 ここの雪景色だけが、何もかもが真っ白。

(皆が寝静まる夜に……)

 湖を見つめる龍神を、雪乃は見つめる。

 思えば、人と関わりたくないと言っても、基本的に龍神は思いやりに溢れていた。

 すべてを抱え込む雪乃に、寄り添ってくれていた。

「……もしかして龍神様は、わたくしを好ましいと思ってくださっていますか?」

「やっと気づいたか」

 水面の揺らめきを見ていた龍神は、再び雪乃に向き合う。

 優しいような、呆れたような、嬉しいような。そんな表情が混ざっている。

「雪乃が寒くないように温かい空気に包んでいても、それに気が付かないほど里を思う雪乃が好ましい。意外と素直なところもまた好ましい。きっと俺は雪乃を愛おしいと思う」

「愛おしい?」

「そうだ。暇つぶしのつもりでこの里に来た。でも今は雪乃が愛おしい。雪乃、どうか俺の伴侶になってほしい」

 伴侶。神様の伴侶。それは雪乃が人でなくなること。

 龍神から正式に求婚されているということ。

(嬉しい)

 嬉しい、けれど雪乃は龍神に男性だと言っていない。

 里のこともやり残している。

(言わなければ)        

 女性ではない雪乃を、龍神は同じように想ってくれるだろかと怖くなる。

 そこまで考えて雪乃自身もまた、龍神を愛おしいと感じていたことに気付く。

 口を開き伝えようとするけど、言葉が出てこない。

「雪乃。返事は急がない、いま答えなくても良い」

「そうではないのです、わたくしは龍神様に伝えなければいけないことが」

 伝えなくてはいけない。

 まっすぐな想いを欺いてはいけない。

 雪乃は一度強く目を瞑り、そうして再び龍神としっかり目を合わせた。

「聞かれなかったので、言いませんでしたが……わたくしは女性ではありません。ですから本当は婚姻や伴侶は――。龍神様、わたくしが嫌になりましたか?」

 最初から婚姻の話で、この地へ龍神を招いた。

 形ばかりの婚姻。それは龍神も雪乃も承知していた。

(本当の想いになるなら、わたくしも本当のことを)

 たとえそれが龍神に受け入れられないとしても、雪乃は全てをさらけ出し龍神の望むままに償おうと決意する。

 胸が苦しい。痛い。

 雪乃もまた、龍神を愛おしく思いはじめていた。

「龍神様、わたくしは女性ではありません。騙す意図はありませんでしたが……結果的に欺くような行為になってしまいました。もし……お許しいただけないのなら、龍神様の望むままに、わたくしは償います。ただ、わたくし一人だけを罰してくださいませ。どうか――」

 雪乃は血を吐くように、己の真実を龍神に告げる。 

「都合の良い話だと、理解しております。ですが、どうか……」

「雪乃」

 必死に言葉を綴る雪乃に、龍神は止めた。

 発言を許されないなら、雪乃は黙るしかない。

 あとは龍神の心ひとつで、この里の未来は決まってしまう。

(本当に思い合っていなければ、形だけの婚姻だったならば、こんなことにならなかっただろう。わたくしが恋さえしなければよかったのに、なんて罪深いことでしょう)

 誰かを好きになることが、大きな過ちになるなんて雪乃は思っていなかった。

 そもそも誰かを愛おしいと思うことは、雪乃の人生でありえないと考えていた。

(女性として生まれていれば、なにも問題はなかったのでしょう)

 今更そんなことを考えても、どうしようもないことだと知っている。

(この命を失うとしても、守らなければいけないものがわたくしにある)

 咎は雪乃だけにある。

「雪乃」

 再び龍神に声をかけられて、雪乃は見つめ返す。

 何を言われるのだろうか、恐れながら雪乃は龍神の言葉の続きを待つ。

「雪乃はそんなことを気にしていたのか? それとも他に隠していることがあるのか?」

 思わぬ言葉に雪乃は言葉を失った。

 そんなことでは済まないはずだと思う。そう思っていた。

「いいえ、他に隠していることはありません」

「なら、なにも問題はない。性別なんて些細なもの。子を作るわけじゃないし、作れるわけでもない。そうだろう雪乃?」

 人と違うからこその、龍神の感じ方に雪乃は驚きを隠せない。

「わたくしが男性であっても、龍神様の想いは変わらないということでしょうか…………」

「何も変わらない。雪乃が雪乃であれば、俺はそれでいい。雪乃はどうだ」

 絡み合う視線は月明かりに照らされて、龍神の言葉が真実だとわかる。

「わたくし、ですか?」

「俺は伴侶になる申し込みを、雪乃にしたつもりだ。伴侶とは形だけの婚姻ではなく、俺の眷属となり人の営みを外れることになる」

 そのほかに寿命が延びること、見た目は若いままだということ、いずれ龍神の神域で暮らすことになることなどを雪乃に細かく説明していく。

 その申し出はとても雪乃の心を揺さぶった。

(愛おしい龍神様と長いときを、一緒に暮らしていく)   

 それはなんて素敵なことだろうか。

 里神でもしたことがなかったことを、龍神は雪乃に求めてくる。

 それほどまでに好まれていると思えば、嬉しさで涙が出てきた。

(でも、わたくしは生きているうちにやらなければいけないことがある)

 嬉しいと同時に、それを断らなくてはいけない胸の苦しみがつらい。


「雪乃、泣くほど嫌だったか?」

「いいえ、とても嬉しいです。けれど、わたくしは人であるうちに、やらなければいけないことがあるのです。この里の未来にわたくしのように悲しむ者、苦しむ者を救わなくてはいけないと考えています。私は神子です。この里の長であり、里神様の言葉を人々に伝える使命があります」

 龍神は雪乃の言葉を静かに聞いた。

 雪乃も神子としての自分が、しなくてはいけないことがあると必死に伝える。

「わたくしが人でなくなったら、ここの神子でいるのは無理でしょう。加護してくださるのは里神様ですが、あくまでこの里は人の住まうところ」

「そうか。なら雪乃のやるべきことが終わるまで、俺は待っていよう」

 どこまでも深く広い心で、雪乃のことを大切にしようとしてくれている。

「龍神様、ありがとうございます。ですが、里内部の改革は簡単にできることではありません。全てが終わるころにわたくしは、年老いた者になっている可能性もあります。そこまでお待たせするのは、心苦しいく思います」

 人の命は短く儚い。

 里の慣習を変えることは、想像つかない苦労があると雪乃は考えている。

 時間もかかる。そこまでして龍神を待たせることは、雪乃にはできない。

「姿が変わっても、雪乃には変わりないだろう。無理にとは言わない。けれどもし雪乃にその気があるなら、前向きに考えて欲しい」

 雪乃の白い左手を龍神は取り、薬指の付け根に柔らかい口付けをした。

 今まで感じたことがない、胸の高鳴りが雪乃の中から溢れる。

(これが本当の恋というものでしょうか……)   

 ただ呆然とそんなことを頭の片隅で思う。

 月明かりと水面に反射する光が、雪乃の見えている世界全てを煌めかせている。

 甘く切なく、そして愛おしい。

「雪乃、これから先もよろしく」

「はい」

 ふわりと笑う龍神は、手のひらを空にかざし白銀のひらひらと六花が落ちてくる。

「また詠ってくれ」

「――はい」


***


 里神は最期まで雪乃の婚姻に納得はしなかった。

 納得はしていなかったけれど、雪乃の幸せを思い了承してくれた。

 里神の立ち会いのもと、龍神と雪乃は表向きの婚姻を結ぶ。

 龍神の花嫁に、雪乃はなった。

 そして里神を見送った。

 龍神が新たな里神になることを、里の人々に雪乃は伝えた。


 どんなときも龍神は雪乃のそばに寄り添っでいてくれていた。

 



 あれから幾年。

 雪乃は神子の職を他のものに任せ、里長や神職もそれぞれ適任のものへ任せた。

 改革は思っていたよりも難しく、新たな里神の助力とともになんとか形になってきた。


 それでも、まだやらなければいけないことがある。

(ですけれど……わたくしの残された時間はわずかしかありません)

 任せた者たちを信じて託す他ない。

 

 雪乃は白く痩せた手の甲を眺める。

(ああ……でも悪くない人生でした)

 愛してくれる存在がいることは最高の幸せ。

(心残りがあるとすれば、龍神様を遺してしまうことです)


 最期のときが訪れる。

 目の前には、出会った頃と同じ愛しい龍神がいた。

 空からは龍神と出会った頃のような、白い雪が舞っている。

 雪が舞っているのに空には美しい三日月も見えていた。

 日は暮れ、夜が訪れようとしていた。


 龍神はずっと雪乃の手を握って、そばに居てくれていた。

 龍神には雪乃の最期がわかるのだろうか。

 悲しそうな目をしていた。

(伴侶になれなくて、ごめんなさい)

 そう思うものの、想いの深さが嬉しくて雪乃の頬が緩んでしまう。


「龍神様。わたくしは幸せでした。貴方様を置いていってしまうことが心残りです。ですが、また会えます。必ず出会えます」

 これは神子としての先読み。

 必ずまた会えることが、雪乃にはわかる。

「わたくしを探してくださいね。つぎは龍神様を1人にしないと約束します」

 龍神は涙を堪え、雪乃に微笑む。

「必ず雪乃を見つけると約束しよう」


 雪乃は静かに目を伏せる。

 

 三日月の夜に六花が舞ってくる。

 幻想的な景色に、 雪乃は龍神のために詠う。

 



【End】





お読み下さりありがとうございます。

桜シリーズ③の前世編(初めて出逢う冬)となります。

前作まではKindleにてありますので、よかったらよろしくお願いします。



全作品

1.桜舞う空に (龍神と神子の出会いの春)

2.紅葉色づく空に (愛深まる紅葉の秋)


Kindleにて公開中


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― 新着の感想 ―
[一言] 素晴らしい作品ですね! ☆5個つけさせて頂きました。 これからも頑張って下さい! 応援してます。
2021/11/13 18:20 退会済み
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