僕の妻を知りませんか?
ふと思いついたので。
「僕の妻を知りませんか?」
その男は朧気な記憶を辿るように尋ねた。
一瞬、その言葉の意味に戸惑ったのは、彼が困ったように笑ったからかもしれない。
「妻、ですか」
思わず聞き返すと、男は「妻です」と頷いた。
オウム返しも芸がない。頭をかいてみれば、それだけで彼には伝わった。
男は齋藤史夫と言った。
本名は知らなかったが、彼のペンネームはどこかで見たことがあった。
文学に興味のない私でも知っているくらいだ。さぞかし人気作家なのだろう。
職場の後輩が言うには、彼は映画化もドラマ化も経験済みの売れっ子作家らしい。
私が編集者とやらに話を聞いたとき、そんなことは聞かなかった。いや、私も尋ねなかったし、ペンネームを聞けば私がわかるだろう、と編集者が予想したのかもしれない。
だが、結果として私は彼がどういう人物なのか、彼の書いた小説の文庫本を買う羽目になった。
小説から読み取れることはあまり多くなかった。
おそらく几帳面な性格なのだろうと思って訪ねてみれば、確かに彼の書斎はきれいに整理整頓されていたし、生活音が小さいところはやや神経質とも言える。
ミステリー作品をよく書いていることもあって、彼の書棚には人体に関する学術書から、拷問や処刑器具の歴史書など、多種多様な資料があった。
一番驚いたのは書斎にある糸鋸や鉈だろうか。あれも資料のひとつらしい。
とにもかくにも、きちんと調べ尽くさないと気が済まないという性質があるらしく、几帳面だというのはすぐにわかった。
そうかと思えば、台所の料理道具の品揃えに比べて、冷蔵庫の中身は空っぽで、どこかちぐはぐだった。
今も、彼は突然訪れた私に手ずからドリップコーヒーを用意してくれたが、道具のこだわりに比べると、その淹れ方は乱雑そのものだ。
残念ながら、私にコーヒーの味わいや香りの違いはわからなかった。もしかすると、あれらの道具は彼がいう妻が好んだ品なのかもしれなかった。
「立川さんにも聞いたんですけど、手がかりがなくて」
「ああ、あの編集者の」
「ええ、彼とは長いですから何か知っていると思ったんですが、何も」
齋藤は自分に妻がいる、ということを事実のように語っていた。
「齋藤さん、あなたはどこまで覚えていらっしゃるのですか?」
「大抵のことは覚えているつもりです。でも、どうしてこんなことになったのかまでは……」
彼は書斎で倒れ、折良く現れた立川という編集者に発見された。
本当にいいタイミングだったものだ。
運び込まれた病院で、彼は一命を取り留めた。
何か病気だったわけではない。
医師の見立てでは、自殺未遂としか思えないそうだ。
だが、齋藤自身は自殺を試みたことなどすっかり忘れている。そう告げられたことだけが、中身のない事実として彼の現状を形作っている。
医師は一時的な記憶喪失だろうと言っていたようだ。時間とともに思い出せるとも。
彼は世間的にも有名人だったが、見つけたのが編集者だったこともあって、事態は公にはなっていない。それを喜ぶべきかどうか、私にはわからなかった。
事後生活を考えると、世間に発覚しない方が気楽なのは確かだ。
「ゆっくり思い出しましょう。無理に思い出そうとしても、つらいだけでしょう」
「ええ、ええ」
彼は私にコーヒーを供したが、自分は水道水を飲んでいた。
透明なグラスに並々と注いだ水をちびりちびりと飲んだ。
時折胸ポケットに手をやるような仕草をしていたが、すぐに膝に戻した。
もしかすると禁煙中だろうか、と思いつつ尋ねる。
「煙草なら、私のことなど気にせずお好きにお吸いになってください」
「あ、ああ、いえ、すみません。ちょうど切らしていまして、これは癖みたいなものです」
煙草を買いそびれたという齋藤は苦笑して、それからまた水を飲んだ。
「煙草はどのぐらい吸われますか?」
「毎日一箱ですね。締め切りが近いとどうしても増えてしまって」
「はあ、作家というのも大変なんですね」
「いやいや、一度手が止まってしまうと、イライラして煙草を吸うんです。集中してしまえばむしろ吸いません。イライラしているときは人が変わったみたいだって言われることもあって……。自分ではそんなつもりないんですが」
なるほど。私も昔はそうだった。
仕事が行き詰まったときには灰皿が吸い殻でよく埋まっていた。
それも禁煙に成功してから滅多に見なくなった。
「ところで――」
私が切り出すと、齋藤は少し挙動不審な様子を見せ、しかしすぐに緩んだ頬を引き締めた。
若干の間を置いて言う。
「あの睡眠薬は、齋藤さんに購入した覚えはないんですよね?」
「ええ。まったく覚えがありません。私は寝付きもいい方ですし、何か精神的に患っていたわけでもありません。だから、自分で飲んだとは考えられないんですよ」
彼が飲んだ睡眠薬はかなり特徴的な商品で、近くの薬局では取り扱っていない品だった。ネットで購入することもできるが、それならば彼のパソコンに購入履歴があるはずだ。
だが、その履歴が存在しないことは齋藤自身が確認している。
正直なところ、小説家というものは自殺するものだ、と思っていた。
もちろん、大部分がそうでないことは理解しているが、教科書に載るような作家が軒並み自殺していることを考えると、そう不思議なことではないとさえ思っていた。
だが、齋藤はそういう人間ではなかった。
確かに几帳面で、やや神経質なところがある。だが、それでうつ病になりやすいかと言えばそんなことはほど遠い切り替えの素早さがあるし、少々の大雑把さがある。
私の知る限り、この手の人間はあまり悩まない。
こつこつと努力を重ねる一方で、どうしようもないことはすぱっと切り捨てる勇気がある。
「ただ、残っている指紋は齋藤さんと、編集者の立川さんのものだけ」
「ええ。立川さんは私を見つけたときに拾って触ったということでした」
現状で言えば、怪しいのは編集者の立川だが、彼にはきちんとしたアリバイがあった。
出版社から電車を乗り継いで齋藤宅に到着し、その直後に齋藤史夫を発見。すぐに救急車を呼んだ。確たる目撃情報があることも、彼が犯行に及ぶ時間がなかったことを裏付けている。
その上、前日も、前々日も社屋に泊まり込みだった。何より、彼には齋藤史夫を殺す動機がない。
長年仕事をしてきた仲間であり、齋藤は稼ぎ頭だ。
知り合って長いからといってプライベートまで関わりがあったかというと、そうでもない。あくまでも仕事上の関係だった。
実際に、私は彼と会ったが、立川という男は人殺しができるような男ではなかった。少し脅されればすぐに頷くような臆病な男、と言った方が正しい。
それにどうやら、疑うということをあまりしない人種でもあるようだった。
「まあ、こうして生きていますし、犯人がわからないのは怖いですが、セキュリティーのしっかりした家に引っ越そうかな、と思ってます」
「ああ、警察の方でも今の状況からすると……」
捜査に割かれる人員を考えると、自殺未遂で片付けるのが無難ではあった。
そして齋藤がそれを理解している。
睡眠薬を飲んだという事実はある。だが、その睡眠薬を第三者が飲ませたという証拠は今のところない。
この状況では、齋藤が下手に否定すると狂言を疑われることもあり得る。
彼はそのことをよくわかっていた。
こんなことならば、わざわざ重たい荷物を持って彼を訪ねる必要もなかったかもしれない。
「この家、結構気にいっていたんですけどね」
「まあ、命には比べられません」
「ええ、心残りは妻のことです」
やはり、齋藤は自分に妻がいたことを疑っていないようだった。
「失礼ですが、その奥さんのお名前は?」
「うろ覚えですが、確かユミ、コ……だったかと。はっきり覚えていないなんて薄情者ですよね」
「いえ。今は記憶が混濁していて思い出せないのかもしれませんよ」
「そうだといいんですが……」
齋藤は心底寂しそうな顔をしていた。
もしかすると、その妻の顔が脳裏に浮かんでいるのかもしれない。
***
数週間後、齋藤が私を訪ねてきた。
私は彼を家の中に招き入れる。
突然だったために何ももてなしができないのが少々申し訳なかった。
齋藤は数日後に隣の家を引っ越して、別のマンションに入居するらしい。
「まさか、お隣さんが刑事さんだとは僕も知りませんでしたよ」
「ええ、まあ、そうでしょう。私が家にいるのもかなり珍しいですから。ここには寝るために帰っているようなものです」
「では、今日はお仕事はお休みですか」
「ええ、まあ……。といっても、妻子に逃げられてしまってからはずぼらにだらだら過ごしてばかりでして」
齋藤が倒れた日も私は休日だったから、事の経緯はよく知っている。
何せ立川を目撃したのは私自身だ。彼に犯行が不可能だったことは私が一番よく知っている。
「余計なことを聞いてしまったみたいで、すみません」
「いえいえ、お恥ずかしいお話です」
お互いに何やら通じるものがあったのかもしれない。
齋藤は目に陰りを見せた。
私は思わず尋ねずにはいられなかった。
「奥さんのことは何か?」
「いえ。それがまだ何も思い出せなくて……」
私は同情もあって言う。
「もしかすると、思い出さない方がいいことなのかもしれませんよ。私も、当時のことはあまり思い出したくありませんから」
齋藤は少し考えて、どうやら納得した風だった。
「そういうことなのかもしれませんね。それで、私が思い余って……。いや、信じられないことですが、覚えていないだけに完全に嘘とも言い切れません」
彼の苦笑は、私の胸を苦しくさせた。
愛するものが自ら遠ざかっていくことほど恐ろしいことはない。
見捨てられることの恐怖を、私はよく知っている。
ふと、齋藤は応接室の窓に視線を向けて外を見つめた。
家の壁を補修していたせいで、工具類が散らばっている。
「日曜大工でも?」と齋藤は尋ねた。私は曖昧に返事をしてみたが、どうにも収まりが悪くて正直に打ち明けた。
「二階の壁に大きな穴が空いたままになっていまして……。その、昔妻と夫婦喧嘩をしたときに出来たものでしてね。ずっと修繕しようと思っていたんですが、休日は疲れて寝ていることが多くて」
「ああ、わかりますよ。疲れていると何もしたくなくなりますから」
几帳面な齋藤にそう言われると、少し安堵した。
「そういえば、こちらに挨拶に伺ったときもいらっしゃらなかったのはそういうわけだったんですね」
「仕事が忙しいのもありますが、本当に申し訳ありません」
「いえ、もう僕は家を出て行きますし、あはは」
取り留めもない話をした後で、齋藤は帰った。
帰ったとはいえ、彼が住むのは隣の家だ。
二階にあがって寝室の窓から見下ろすと、書斎の本棚を片付けている彼が見えた。
私はポケットに隠していたスタンガンを取り出していつもの鞄にしまった。
先日は使うことにならず助かったが、今日は最悪使うことになるかと思っていた。
振り返る。
あれから数週間かけてようやく塗り終わった壁はもう乾いていた。
「思い出せなくてよかったよ、本当に」
私は壁に指を這わせる。
もう愛する人を絶対に離しはしない。もう二度とあんな思いはしたくないのだ。
ずっと見ていた。この部屋から。君を。
君も、私を見ていたはずだ。
何度も私に話しかけてくれただろう?
やはり、君はあの男の傍よりも私の傍にいたかったに違いない。
「ユミコ。これからは私とずっと一緒だ。嬉しいだろう?」
返事はない。だが、わかるのだ。
彼女は私の傍にいて喜んでいる。