お稲荷さまの言うことにゃ……(三十と一夜の短篇第22回)
「じゃあ、始めましょう。準備してください」
S駅西口のバス・ターミナルに着くなり、おきんが言った。
おれは座布団を置き、折りたたみ式の座卓を開いて自分の座る座布団の前に置いた。そして、扇子を握って、懐から例の丸薬が入った袋を取り出して、一粒手のひらに転がしてみた。黒くて苦そうなありふれた丸薬にしか見えなかった。ふと気づくと、おれの隣にはもうすでにおきんが元の狐になって、ちょこんと座っていた。なるほど、もう大道商売は始まりつつあるのか。では、自分も丸薬を飲まねばなるまい。おれは手のひらの丸薬を飲み込んだ。
その途端、言葉と扇子の調子取りが鉄砲水のごとく迸った。
「ご通行中の皆様方、ちょいとお耳を拝借願います。天下の往来借り受けて行いましたるこの売卜は、そんじょそこらの迷信と十把一からげにされては困ります。こちら山城国は稲荷山、千本鳥居の奥に鎮座いたしたります正一位伏見稲荷の大明神、その御使いたるこのおきつねさまが稲荷大明神の神託を得て、あなたの運命をピタリと判断いたします。ここにおりますおきつねさまは稲荷の総本山、伏見稲荷大社で生まれた由緒正しき御使いでとんびに化けて故郷山州を後にして以来、あっちこっちで油揚げをさらいつつ旅をして、ついにここに落ち着いた次第。本社伏見のおきつねさまとあって、並みのきつねでは持ち得ない神通力を秘めた特別なおきつねさまでございます。どのように特別かと申しますと、まずお客さまにはこちら稲荷大明神の名を書いたありがたい白無垢の札を五百円で買っていただき、それを折りたたんで、片思いの恋から米相場、妾の機嫌まで知りたいと思うことを念じつつ荼枳尼天の巻物をくわえたおきつねさまの顔の前に札を捧げます。おきつねさまが前足でちょちょいと札をこするとあら不思議! 白無垢の紙に稲荷さまのご神託が現われるとこうなっております。はい、そこの坊っちゃん笑わない。これは手品の類にあらず。これまこと稲荷大明神のお告げであります。素寒貧なくずもの売りがさる大財閥の大旦那にまで成り上がれたのも、顔の浅黒い平民の娘がさる堂上華族の御曹司をモノにできたのも、何を隠そうこのご神託を信じた故のこと。ああ、ありがたや。こんなありがたいご神託がたったの五百円。はい、お嬢さん。一枚お買い上げ。その顔は惚れた男がいると見た。さあさあ、恥ずかしがらず、まずはお札に何も書いてないことをお確かめあれ。さあさあ、皆さんもお確かめあれ。では、お嬢さん。お札を畳んで、遠慮なさらず心に強く念じつつ、お札をおきつねさまの前に出してください。さあ、引っかいた。そこに出たのはあなたの運命。それをどう生かすかはお嬢さん次第。おやや、その顔はお嬢さん、色よい神託があったと見た。そうと決まれば、善は急げ。時間を無駄にしてはいけません。恋愛成就の暁には、稲荷さまにお揚げの一枚でも奉じてあげてくださいな。さあさあ、お次はいないか、いませんか。おっと、はい、そちらの紳士。今度はあなたの番ときた。なに、おきつねさまは会社経営のことは分かるのかって? その点についてはご安心めされい。富国強兵明治の世には殖産興業の神さまとして祀られて国の栄えを担った稲荷さまだ。きっとあなたの経済的運命もズバリと判断してくれましょう。おきつねさまの経済判断の前にゃあメイナード・ケインズも裸足で逃げ出し二階の窓から落っこちるときたもんだ。ほら、引っかいた引っかいた。おっと、社長さん。その顔はあまり芳しくないと見たね。でも株で損して会社が傾こうとも大丈夫。そんなときはもう一枚お札を買っていただき、どうすればよくなるかを念じながら、稲荷大明神のお札を一こすり。それでご神託があなたを助けて貧乏神を追っ払うこと間違いなし。ああ、ありがたや、ありがたや。はい、もう一枚お買い上げ、毎度あり。さあさあ、世にあまねくひろがった稲荷大明神のご利益に与れるまたとない機会がたったの五百円! ウン千円の汽車賃払って山州は京の都、稲荷の総本山まで行かずとも、今ここで、たった一枚の五百円玉を資本として投ずれば、稲荷さまのありがたみに触れられる。伏見神社じゃ千円は取られるこの運命判断も本日路傍にあっては五百円に大値下げ。これを逃しちゃ後悔の涙で夜の褥を濡らすは間違いなし。さあさあ、晩酌のお銚子一本を我慢するつもりで五百円をはたいたり、はたいたり。こすったり、こすったり。おっとっと、そういっぺんに押しかけられても、おきつねさまは引っかききれないじゃあありませんか。大丈夫、稲荷さまのご利益は逃げたりしません。一人ずつ並んでくださいな。さあ、まずはあなたから。札に念じて、さあ、こすった。さあ、お次はあなた。慌てずにお願いしますよ。おきつねさまもちょっとは休まないといけません。荼枳尼天をくわえたままではおきつねさまも顎が疲れてしまいます。しかし、皆さん、その昔、平安京では稲荷狐は命婦神と称せられ、朝廷を自由に行き来できるほど格の高い神さまでしたが、今ではその格もありがたみもそのままに我々平民も拝むことのできるとは、まったくありがたい世の中ではありませんか。では、いったんここでおきつねさまには巻物をおいてお休みしていただくあいだにわたくしとこのおきつねさまのエニシをば、披露していきたいと、はい、思う所存でございます。かくいうわたくし、今はこうして大道で売卜をたつきに何とか暮らしておりますが、昔は、自分でいうのもなんですが、けっこうな家の生まれであったのでありました。どのくらい立派かといえば、召使いが三十人住み込みで働いている屋敷があって、お抱え運転手付きの自動車が十台以上あって、そして持っている山は両の手はおろか足の指を足しても数え切れないほどで、そこから伐り出す杉材で途方もない儲けをはじき出していた次第なのであります。あんまり儲かるものだから普通のそろばんでは儲けを計算しきれず、店の番頭は親父に頼んで特注の二倍の長さのそろばんを使って、店の売り上げを計算していました。そんな親父はこれがまたたいそう遊び好きで酒、博打、女と派手に遊びましたが、一番好きなのは狩猟でした。そうです、鉄砲かついで山に分け入りバン!と一発イノシシ一頭。猟師の真似事をしていたわけであります。いや、並みの猟師よりもすごい腕前の持ち主でございました。というのも、アフリカに行けばライオンを撃ち、インドに行けば象を撃ち、支那に行けば虎を撃つといった具合で家には虎の毛皮の絨毯だのライオンの剥製だの純白に磨かれた象牙だの親父が屠った動物たちが屋敷にドデンと構えていたわけであります。さて、その親父はわたくしが十二の誕生日を迎えると、大人の遊びを教えるに十分な齢だわい、とでも思ったのでしょう。わたくしを竹とんぼやおもちゃの飛行機から引き離し、親父流の遊びに付き合わせました。とはいえ、十二歳というのは酒や博打、女を教えられるほど肝のかたまった年齢ではございません。そんなわけで、親父はわたくしの年齢でも楽しめて、かつ最高の遊びを教えることとあいなりました。そう、鉄砲です。親父は週末はいつも自分の持っている山林で鳥獣を撃っていました。そんなわけで、わたくしは初めて銃を持たされ、山に入ったのでありました。猟犬が先頭を進み、伸ばした竹を持った勢子が数名続いて、最後にわたくしと親父がイギリス製の二連式猟銃を持って、その後ろにつきました。勢子たちは張り切っていましたが、というのも十分すぎるほどの酒手を払ってもらった上に、親父は剥製にするための皮にだけ興味を持っていたので、獲物の肉は全部勢子たちにくれてやっていたからです。さて勢子の一人には親父が山の管理人をさせている老人がいました。山の生き字引のような老人でどの季節、どの獲物がどこに隠れているか詳しく知っていたので、親父はこの老人を重宝し、老人の意見には常に耳を傾けてきました。老人は『今日は何を狩りましょう?』と訊ね、親父が『今日はトンビを狩りたい』と言ったとしても別段特に気にするようなことはありませんでした。そのはずなのに、わたくしは妙な胸騒ぎを覚えたのであります。そのうち、猟犬がぴたりと足を止め、勢子たちもさっと横に広がって、獲物が隠れている繁った木の枝を囲いました。親父は銃を手に枝を狙って構え、犬と勢子にそらやれ!と命じました。犬がワンワン、勢子がワアワア騒ぐと、トンビが一羽飛びました。親父は鉄砲をぶっ放し、トンビは糸の切れた操り人形みたいに急に動かなくなって、近くの藪の中に落ちてきました。猟犬はすぐに駆けて、親父の下にぐったりとして動かないトンビを持ち帰ってきました。親父は猟犬を誉め、さんざん撫でてやり、そのついでに勢子たちにもよくやったと一言かけ、そして、また犬を精一杯の愛情を示しながら撫でてやるのでした。親父は犬好きだったのであります。さて、一時間後にはまた同じように怪しい枝が見つかり、犬と勢子が睨みを利かせました。親父も今度はお前の番だといって、わたくしに銃を構えるように言いました。十二歳の小さな体で猟銃を一所懸命構えて、枝を睨むのですが、わたくしの胸騒ぎはますますひどくなり、心臓がドクドク跳ね回っているような音を鳴らし、危うくめまいを起こしてしまいそうな、そんな感じに襲われたのです。それでもわたくしは銃を構えた状態で、それやれ!と声をあげることはできました。そして、一羽のトンビが飛び立ちました。わたくしの銃はまっすぐトンビを捉えていて、人差し指一本でトンビは空から落っこちるのは間違いなしでございました。ところが、どうしても撃つ気になれません。親父がはやく撃てとせっついたので、わたくしは飛んでいるトンビよりもかなり下のほうを狙って、散弾をぶっ放しました。トンビはゆうゆうと飛んでいきます。すると、わたくしの胸騒ぎもすうっと消えてなくなりました。その場にいる全員はもう弾のとどかないところを飛んで小さな点にしか見えなくなったトンビを眺めました。わたくしが狩猟向きの人間ではないことを親父は残念がり、若い勢子たちはこっそり嘲笑い、犬にまで小ばかにされたような気がしたもんでした。ところが年老いた勢子だけはわたくしだけに聞こえるよう耳元で小さな声でささやきます。『坊っちゃん。あれを撃たんかったのは正解じゃったよ。あれはきっと何かの眷属じゃ。御使いさまじゃよ。もし撃てば、罰があたって、坊っちゃんの心の臓は止まってしまってぽっくりいっていたじゃろう』とまあ、こんな恐ろしいことを教えられてはもう山に入る気がなくなります。こうして、親父はわたくしを狩猟に誘うことはなくなりました。一方、大人の遊びのほうはといえば、酒と博打にゃ手は出さなんだが、女のほうにはつい手が伸びた。十五の齢で三十路の女中を孕ませちまったのです。てへへ。まあ、いつもなら親父も笑って許してくれるだろうし、さすがはおれの子だ、と誉めてさえくれたでしょう。ところが、そのときはまずいことに長姉が華族さまの家に嫁ごうとしていたものですから、世間さまへの体面を気にした親父はかんかんになって怒り、わたくしを着の身着のまま家から追い出してしまいました。自分は妾を孕ませておいて、お前は駄目だとはンな無茶な。しかし、親父はもう弁解謝罪も一切聞きたがらず、わたくしを往来に放り捨てたとまあ、こういうわけです。さて、この世を生きる術をろくに知らない材木問屋のお坊ちゃんが齢十五にして捨て子となりました。通常、捨て子は赤子のうちに経験しておくもんですが、当世では十五の捨て子も珍しくはないようでした。さて、そんな世間知らずのボンボンが世間の荒波の中に放り込まれれば、溺れ死ぬのに、そう時間のかかることじゃあありません。味噌田楽も焼けなきゃ、高く積んだ鮨箱を天秤棒でうまい具合に運べるわけでもない。車夫になるにしたって車の借り賃が必要だし、この通りわたくし蒲柳の質がありまして、力仕事もろくに出来やしないだろう、とまあ、世の中お先真っ暗、ならせめて本当に真っ暗になるところを見てやろうと川辺に座って日が沈むのを眺めていました。すると、都会ではあまり聞かない音がわたくしの頭上から聞こえてきました。カシラを仰ぐと、わたくしの頭のはるか上を一羽のトンビめが飛んでいました。ああ、トンビは気楽なものだ。大空をゆうゆうと飛んで、時おりネズミを捕まえに下界に降りてくるだけだものなあ。そんなことを考えておりますと、当のトンビはぐるぐるまわりながら、徐々に下りてまいります。おややと思っているうちに、ついにわたしの目の前までやってくると、トンビはでんぐり返しをして羽根が飛び散り、なんと飴色のふさふさしたきつねに変化したではありませんか! かと思えば、きつねはまたぐるりとでんぐり返しをして、今度は妙齢の美しいご婦人に変わりました。その体つきの美しいことと言ったら、言語に絶するものでした。豊満な乳房と魅力的なくびれが薄緑の和服の上からもしっかりわかるし、ご面相はといえば、高尾太夫も裸足で逃げ出し、奥州仙台伊達公の刃をかいくぐって、座敷船からザブンと飛び込む美しさ。わたくしはただただ驚いて、『こりゃ驚いた。トンビが美女に化けてしまった』『わたしを覚えておいでですか?』『美人の顔は一度見たら忘れないのがぼくの数少ない取柄なんですが、どうも記憶にないですなあ』『それも仕方ありません。以前、あなたと会ったときはわたしはトンビの姿をしておりました』『ややっ。では、あのときのトンビが――』『はい。わたしでございます』『そんなトンビさん――いえ、きつねさんがぼくにどんな御用で?』『あちこちの勧請の旅も終わり、自由の身となりましたので、恩返しをしようと思い、こちらにやってきました』『恩返し?』『あのときわたしを撃たなかった恩返しです』まったく捨てる親父あれば、拾うおきつねさまあり。わたくしはこうしておきつねさまと出会い、その神通力を持ってする運命判断の生業を手に入れたとこういう次第でございます。さて、わたくしの長話にもいいかげん飽き飽きだと思われますし、おきつねさまも顎の疲れは取れまして、霊力も戻ってきたようです。さあ、運命判断再開です! さてさて、最初はどなたから?」
夕方の五時までおれはしゃべりにしゃべりにしゃべり通し、稲荷大明神の札ときつねの占いを売りに売りまくった。最後の一枚を売り渡すと、ガラガラ声で札が尽きたことを謝りながら、それでいて面白おかしい口上で人を引きつけ、今回は見学だけだった人も、今度は自分も見てもらおうと思えるような口上を切った。
薬の効果が切れると、おれは扇子を落として、へなへなと崩れ落ちるように座卓に突っ伏した。たった一粒であれだけの効果があるのならば、二粒以上の服用は命にかかわる。
いつのまにか少女に化けたおきんは売上金を小さな貯金箱のなかに入れて、さあ、いきましょうとおれをせっついた。ずっと座卓に座りっぱなしだったので、体の節々が痛んだ。これじゃ自分は物書きにはなれないな。なんといっても物書きは座卓に座って一日中原稿用紙とにらみ合う仕事だ。書けない苦しみと肉体的苦痛がこれまで何人の文筆家に過剰な睡眠薬を飲み込ませたかわかったものではない。
「そういえば、おきんさん」おれは言った。
「なんですか?」
「あの香具師の口上なんですけど、あまり嘘を言うと問題が発生するような気がするんですよ」
「問題? 何がですか?」
「例えば、ぼくが商家の跡取りだとか」
「それが?」
「なんというか、こうしたことが偽証に問われて、消費者センターの追及を受けることになりはしないかと心配なわけです」
「消費者センター?」おきんはそんなものがいったいどんな用があるのだといった感じの顔をした。
おれは続けた。「虚偽の客寄せ文句に対して、消費者センターから訓告処分のようなものを下されるかもしれないと思ったわけです。それに――」
「それに?」
「鳶がそのまま女性に化けたという場面も若干の脚色がありますし。言いにくいんですけれど、豊満な乳房とか魅力的なくびれとか、その、あなたの体とはかけ離れて――」
地雷を踏んだ。
おきんはキッとなっておれを睨んで、機関銃のように言葉をまくしたてた。
「かけ離れたからどうだというんですか女性の価値は胸やお尻で全てが決まるわけじゃないですよ化けようと思えばわたしだって物凄く大きな胸とくびれを持った女性に化けられるんですよあえて化けてないだけですそれで誰かに迷惑かけましたかどうですか誰も迷惑かかってないでしょう誰の幸福も損なっていないでしょうそうでしょう違いますか?」
おれは黙って頭を垂れた。