危機
2歳の誕生日が来た。
「もう2歳か~」
僕はしみじみと言う。
「本当に早いね。 この調子じゃ、あっという間に成人しちゃうよ」
「それは、さすがにないよ」
まだ成人まで18年ある。
きっと、長いだろうな。
去年と同じく、ケーキと写真でお祝いした。
そして、トイレトレーニングが開始される。
保育園でも教えてもらえるが、家でもトレーニングする。
何度も失敗した。
床や服を汚すので、嫌になることもある。
しかし、ここで諦めたらいけない。
辛抱強くトイレトレーニングを続ける。
トイレトレーニングがうまく行かなくて、ナーバスになる母親も多いという。
そして、ついにトイレができるようになった。
「ちっち、できた」
優美は誇らしげにトイレから出てくる。
「やったー!ちっちできたね!」
ママは優美を抱きしめる。
僕たちは大いに喜んだ。
苦労が大きい分、感動も大きかった。
成長した優美は何でも自分でやりたがるようになる。
そして、第一次反抗期。
いわゆるテリブル・ツー、魔の2歳児の時期が来る。
「お外行こうねー」
ママが優しく話しかける。
「イヤ!」
優美は拒否する。
「お着替えしようねー」
「イヤ!」
この有り様だった。
そんなある日の朝。
「ごはん食べようねー」
ママが優しく話しかける
「イヤ!」
優美は持っていたスプーンをポイっと投げてしまう。
ママは再び、スプーンを握らせる。
すると、また投げてしまう。
「しょうがないなあ」
ママは、スプーンで食べさせたあげる作戦に出た。
しかし、優美は吐き出してしまう。
体調が悪いとかではないと思うので、単に食べるのが嫌なのだろう。
「優美! ダメでしょ!」
ママは突然怒鳴った。
「ママ、声大きすぎるよ」
僕はたまらず、ママに言った。
優美は案の定、泣き始める。
玄関のドアの向こうから、声がする。
「ちょっと、朝からうるさいよ!」
隣の部屋の人だ。
そんなこと言われても、小さい子供がいるんだからしょうがない。
「あー! もう、保育園の時間になっちゃう!」
ママは大声を上げた。
優美は泣き続けている。
これでは、食事どころか着替えもままならないだろう。
その時、優美はコップを落として割ってしまった。
「優美!」
そして、ママは手を振り上げ優美を叩いた。
乾いた音が響く。
「え……」
僕は時間が止まったかのような錯覚に陥った。
今、ママは何をした。
優美を叩いた。
虐待。
虐待だ。
「ママ」
ママは我に返る。
そして、自分の行いを今更実感する。
「こ、これは……」
「虐待だよ」
「ち、違う」
「叩いたってことは、そういうことだよ!」
僕は大声を出す。
僕たちは、僕たちの親がしたことと同じことをしてしまった。
「ごめんなさい……」
ママは床に座り込んで泣きながらそう言った。
「最低だ。ママは虐待したんだ」
すると、優美がママに近づく。
優美はママの顔を覗き込んでいる。
「ごめんなさい」
優美はそう言った。
「優美、叩いたママが悪いんだよ。優美は何も悪くないんだよ」
「でも……私も、ごはんちゃんと食べなかったよ」
それはそうだけど。
だけど、虐待は絶対に許されない。
「今のパパ、怖い」
優美のその言葉に、ハッとする。
今の僕はどんな顔をしているのだろう。
ママは優美を抱きしめる。
「ごめんなさい、優美」
これで、良かったのだろうか。
そして、保育園に向かう。
「今日はどうされました?」
保育士さんに聞かれる。
隣には園長もいる。
遅くなってしまったからそのように聞いたのだろう。
全部話してしまいたい。
「優美を、叩いちゃったんです」
ママは保育士さんと園長にそう言った。
「そうですか。じゃあ、お仕事が終わったらお話しませんか?」
園長は穏やかな声で言った。
「はい……」
ママは暗い表情で答えた。
その日の仕事は集中できなかった。
優美はもう、取り返しのつかない傷を負ってしまったのではないか。
そう、考える。
そして、仕事は終わった。
保育園に向かう。
「優美はどうでした?」
保育士さんに聞く。
「いつも通りでしたよ」
それならいいけど。
いや、きっと我慢してるだけだ。
ママの仕事が終わるまで園長の部屋で待つ。
園長は50代くらいの女性で、どことなく品がある。
優しさがにじみ出ていて、きっと子供たちにも人気だろう。
「あ、夏美さんが来ましたよ」
ママが部屋に入って来る。
「すいません」
ママは謝る。
「いえいえどうぞ、掛けてください」
そして、園長との話が始まる。
「まず最初に、優美ちゃんの体に傷は残っていません。ですが、頭を叩くのは絶対やめてください。ゆすったりするのもダメです。子供の頭はまだ未発達で弱いので」
「はい……」
僕とママは一緒に返事をする。
「次に、虐待かどうか決めるのは親じゃありません」
じゃあ、誰が。
「親ではなく、子供自身です」
忘れていた。
そういうことだ。
「優美ちゃん自身は虐待だと思っていませんよ。まあ、まだ虐待という言葉を理解していないのもありますけど。それでも、自分が悪かったと反省していますよ」
「それでも、一回でも叩いたら。どんな理由があっても虐待です」
僕はそう言った。
「……何か、虐待に対して特別な思いがあるんですか?」
園長にそう聞かれ、僕たちは顔を見合わせる。
言うべきか。
「パパ、言おうよ」
「うん」
僕たちは僕たち自身が虐待を受けて育ってきたことを話した。
園長は黙って聞いてくれた。
「とても、辛い経験をされてきたのですね」
その言葉を聞いた瞬間、涙が出そうになった。
「過去のことは変えられません。これから、どうすれば虐待をせずに育児できるか一緒に考えましょう」
「はい」
ママと一緒に返事をする。
「まずですね、自分を客観視することが必要です。子供を叩くのは悪いことだと、わかってる。なのに叩いてしまう。それは、自分を客観的に見ることができていないからです」
「じゃあ、どうすれば?」
僕は聞いた。
「叩きそうになったら、子供から離れて落ち着いた方がいいです。そして、自分の顔を観察してください。きっと怖い顔をしてるはずです。そして、子育て日記をつけてください。出来事を書くだけじゃなくて、どう思ったか、どう感じたかを書いてください。後、子育ての様子をビデオカメラで撮影するという方法もあります」
「そうすれば、自分を客観視できるんですか?」
今度はママが聞いた。
「そうですね。最初は難しいかもしれません。不安になったらいつでも、相談してください」
「はい」
ママと声を揃えて、返事をする。
「優美ちゃんの親はお二人にしかできません。子育ては永遠に続く訳ではありません。乗り越えればきっと楽になりますから。子育てにおいて、一瞬で変われる方法はありません。いろんなことを試しながら、ちょっとずつ成長していくんです。親も子も」
そして、園長との話を終え、優美を迎えに行く。
「ママー! パパー!」
優美は今朝のことなどなかったかのように、無邪気に抱き着いて来る。
「帰ろう、優美」
ママは穏やかな笑みを浮かべ、優美を迎えた。
園長のアドバイスを元に、僕達家族は再出発した。
僕達にとって、最低限のことは虐待しないこと。
そのことさえ守れれば、多少家事がおろそかになってもいい。
頼れる人はいる。
園長や保育士さんはもちろんのこと。
由紀は大学で保育や子供に関する勉強をしているので頼れる。
智恵理先生だって、色々な親子に向かい合ってきたはずだ。
僕達は決して孤立しないように、育児を進めた。
虐待の連鎖を断ち切る。
その思いを、深く胸に刻み込んで。




