傷跡
帰り道、静かに雨が降っていた。
既に、辺りは真っ暗だ。
傘を持っていなかったので、濡れて帰る。
施設に着いた。
「お帰り、勇気君」
智恵理先生に迎えられる。
いつの日だったか、智恵理先生に忠告されたはずだ。
僕となっちゃんの関係は上手く行かないと。
僕になっちゃんは救えない。
「ほら、早く入って」
施設の中に入る。
「お兄ちゃん、何があったの?」
由紀に心配される。
全て話した。
何を聞き、何を言ったか。
そして、何をしたか。
「そう……。お兄ちゃん、辛いよね。でもね、なっちゃんも辛いと思うよ。きっと今頃、泣いてるよ。もしかしたら、泣くだけじゃ済まないかもしれないよ」
「そんなこと、わかってるよ」
「わかってないよ。お兄ちゃんは自分だけ頑張ってると思ってる。なっちゃんだって、トラウマを乗り越えるために頑張ってるんだよ」
それも、わかっている。
でも、どうしたらいいんだろう。
「お兄ちゃんは自分だけがなっちゃんを救える、救世主か何かだと思ってるんだよ。なっちゃんを自分より下に置いてるんだよ。」
そう言われた瞬間、僕の中で何かが弾けた。
由紀の言葉が全身を駆け巡る。
「なっちゃんはね、自分でカウンセリング行ったり、精神科に行ったり、必死に治療しようとしてるんだよ」
そのことを、なっちゃんの口から聞いたことはなかった。
「どうして、僕にはそのことを教えてくれなかったんだろう?」
「治療が上手くいってないからだよ。お兄ちゃんを心配させたくないんだよ」
そう、なのか。
僕はそれなのに。
「お兄ちゃん、もういいでしょ? なっちゃんを迎えに行って、今すぐ!」
「迎えに? 家にいるんじゃないの?」
「違うと思う。なっちゃんの言葉をちゃんと思い出して」
路地裏。
そのワードが、思い起こされる。
今この瞬間にも、なっちゃんは身を危険に晒している。
そう思った瞬間、走り出していた。
路地裏という曖昧な単語だが、場所は限られている。
僕は傘も差さずに、走った。
走っている最中、ずっとなっちゃんのことを考えていた。
思い上がっていた。
なっちゃんを救えるのは自分だけだと思っていた。
使命感のようなものに、燃えていたんだ。
なっちゃんの笑顔を見たい。
たった一つ、その願いを叶えるために付き合い始めたはずだ。
路地裏に着いた。
既に全身がびしょ濡れだ。
雨が降っているのは、幸いかもしれない。
降っていなかったら、なっちゃんに害を与える存在がいたかもしれないからだ。
そして、なっちゃんもそれを目的にしているからだ。
行き止まりの隅に、なっちゃんは膝を抱えて座っていた。
顔は下を向いている。
「なっちゃん……」
なっちゃんは反応しない。
まるで、死んでいるかのようだ。
「なっちゃん、帰りましょう」
体に触れてはいけない。
まだ、その段階ではない。
だから、手を引くこともしない。
「なっちゃん」
「このまま、ここで死ぬ」
なっちゃんは呟いた。
「死なないでください」
「勇気君と仲良くなればなるほど、怖くなる。それに勇気君に酷いことして、酷いこと言って……」
なっちゃんはこちらに、顔を向ける。
「私は好きな人に抱き締めてもらう事すらできない、欠陥品なんだよ!」
なっちゃんは叫んだ。
それと、同時になっちゃんは息を飲んだ。
「勇気君……その傷」
僕は今、制服であるワイシャツを着ている。
そして、雨で濡れて透けている。
僕の体には虐待の傷跡が多数残っている。
火傷や切り傷など様々だ。
海に行った時、泳がなかったのもこのためだ。
「今は僕のことは気にしないでください。この傷は誰にも見られたくないんですが、好きな人になら構いません」
「でも……」
「いえ、好きな人にこそ見てもらいたいんです」
こんな醜い体をしている僕を、受け入れて欲しいという身勝手な願望だ。
「帰りましょう、なっちゃん」
「……うん」
なっちゃんはよろよろと立ち上がる。
アパートに着くまで、一言も会話しなかった。
体を温めるため、お風呂に湯を張る。
なっちゃんが着替えるため、一旦部屋を出た。
そして、数分後再び部屋に戻る。
「勇気君は着替えなくていいの?」
「僕は大丈夫です。それより、話をしましょう。最初に謝らせてください」
「謝るって、何を?」
「なっちゃんに対して、間違ったことをしました」
抱き締めたことだけじゃない。
今までの態度、全てだ。
「いいよ、謝らなくて。こちらこそ、色々とごめんなさい」
「いえ……」
「私、勇気君みたいな人に会えて本当に良かったと思っている。だけど、勇気君を傷つけたいと思っちゃうの。お父さんへの憎しみを誰かにぶつけたいと思っちゃうの。ぶつけても、返って来ない人へと。おかしいよね、人間として。好きな人なら、優しくしたいはずなのに」
なっちゃんは涙を流す。
「私は勇気君に相応しくない」
それは、裂かれるような辛い言葉だった。
「僕はなっちゃんじゃなきゃ、だめなんです。なっちゃん以外の人なんて、考えられません」
「そんなことない! だって私、勇気君に何もしてあげられてない!」
「なっちゃんと過ごした時間が、大好きなんです。それに僕のこと、好きだと言ってくれました」
人を好きになるということを、教えてくれた。
「好きだよ。でも……」
「僕はなっちゃんのことを、助けるとか救うとか思ってました。でも、今は違います」
「え……」
「ただ、一緒に幸せになりたいんです。一緒に笑い合えるような生活をしたいんです」
なっちゃんは涙をぬぐい、泣くのを止めた。
「後悔する日が来るかもしれないよ?」
「そんな日は来ません。なっちゃんと一緒なら」
そう、断言できる。
「プロポーズ、みたいだね」
「プロポーズです。僕はあなたと、幸せになります」
また、なっちゃんを泣かせてしまった。
でも、涙の意味は違う。
ちょうど、お湯が溜まったのでなっちゃんは風呂に入る。
僕は一つ決心した。
僕の過去をなっちゃんに話そうと思う。
20分ほどして、なっちゃんが風呂から出てくる。
先ほどと同じように、向かい合って座る。
「なっちゃんに、話しておきたいんです。僕の過去のことを」
「うん、わかった」
そして、話し出す。
10年前のことを。




