間違った方法
帰り道。
「なっちゃん、やっぱり寂しいのかな?」
由紀がぽつりと呟いた。
「そうだね」
でも、どうしようもない。
今、なっちゃんと一緒に住むことはできない。
いや、絶対にできないわけではないが、バイト収入しかない学生が一緒に住んだら、きっと不都合が起きる。
なっちゃんには我慢してもらうしかない。
「これからも、ちゃんと寄ろうね」
由紀は強く言った。
「うん」
施設に着いた。
玄関で智恵理先生に迎えられる。
「お帰り、なっちゃんどうだった?」
そう聞かれたものの、なんと答えたらいいのだろう。
「体調は良くなってたよ」
由紀が代わりに答える。
そう、体調は改善した。
だけど、心は。
「でも、寂しいみたい」
「そっか。うん、わかった。二人ともお疲れ様。今日はありがとう」
智恵理先生は職員室に戻ろうとする。
だけど、呼び止める。
「智恵理先生、僕達どうすればいいんでしょうか?」
職員は今施設にいる子供だけで手一杯で、卒園した子供に目を向ける余裕はない。
そもそも、卒園した子供に何かしてあげるというのは、完全に業務外でボランティアだ。
「なっちゃんのこと、忘れないであげて欲しい」
それは、もちろんだ。
それ以上の回答を、妙案か何かを僕は期待している。
だけど、智恵理先生は答えなかった。
夕食と入浴を終え、僕は部屋に戻る。
勉強も身が入らず、ベッドに寝転ぶ。
何もできなくて、無力感に苛まれていた。
ずっと一緒に居てあげたい。
寂しさを忘れさせてあげたい。
そんな願いは叶わない。
僕は暗い気持ちで、眠りに落ちた。
そして、虐待の夢を見た。
久しぶりな気がする。
今度は風呂に沈められる夢。
息ができず、ひたすらもがいた。
新しいクラスにも慣れ、ゴールデンウィークがやって来た。
連休はなっちゃんはずっと仕事だ。
一緒に出掛けることもできない。
あれから何度かなっちゃんの部屋に寄ってはいるが、状況は好転していない。
連休はバイト漬けの生活を送った。
由紀が一緒に出掛けたいと言うので、最後の日だけは空けておいた。
連休最終日。
由紀は映画が見たいと言うので、一緒に行くことになった。
「いいの? 友達と行かなくて」
と、確認してみると。
「友達も大切だけど、お兄ちゃんとの時間も大切だから」
嬉しい返事が返って来た。
朝食後、外出届に行き先を書き、施設を出る。
「お兄ちゃん、もうすぐ誕生日だね」
「うん」
「なっちゃんにお祝いしてもらわないとね」
「そうだね。でも、なっちゃんも忙しいだろうし、僕の誕生日祝ってる暇なんかないんじゃない?」
「そんなことないよ! 彼氏の誕生日なんだよ! 祝う暇くらい作るよ!」
由紀がやけに強く言う。
「どうしたの?」
「うん……。なんかお兄ちゃんとなっちゃん、このままだと自然消滅しちゃいそうで怖いの」
的確な指摘かもしれない。
僕となっちゃんの間に、見えない溝のようなものが少しずつ広まっている感覚。
やはり、一緒に居る時間が減ったからだろう。
近くにいるのに、遠距離恋愛しているようだ。
「お兄ちゃん、なっちゃんのこと好き?」
「好きだよ」
「愛してる?」
「あ、愛してるよ」
「そういえば、キスした?」
「してないけど」
由紀はなっちゃんの過去を知らないのだろう。
「じゃあ、一週間以内にして」
「それは、無理だと思う」
「どうして?」
由紀はムッとする。
そんなこと言われても、たった一週間で性的虐待のトラウマを乗り越えるなんて不可能だ。
そこで、立ち止まって考える。
僕となっちゃんの身体的接触は手袋越しに手を繋いだのみだ。
ずっと、このままなのだろうか。
触れ合うという行為なくして、ずっと好きでいる気持ちを保てるのだろうか。
一歩、踏み出す時なのかもしれない。
由紀との映画の最中も、そのことをずっと考えていた。
なっちゃんが辛い時、泣いてる時何度も抱き締めてあげたいと思った。
だけど、それはできない。
トラウマという、大きな壁があるから。
それに、怖い。
たとえ僕でも、拒否されてしまうんじゃないかという思いがあるから。
僕はその時、ちゃんと好きでいられるだろうか。
「お兄ちゃん!」
昼食を食べ終え、ファミレスでぼーっとしていると由紀に怒声を浴びせられた。
「もう、ぼーっとしてばっかり」
「ごめん」
「なっちゃんのこと、考えてるんでしょ?」
「……うん」
「ま、しょうがないか。初めて人を好きになったんだもんね」
まるで、恋愛の先輩のようなことを言う。
「なっちゃんも、虐待されてたんだよね?」
「え、どうしてそれを?」
どこで知ったのだろうか。
「だって、なっちゃんお別れ会の時言ってたじゃん」
そういえば、そうだった。
「心理的? ネグレクト? 身体的? 性的?」
「……性的」
迷ったが言う事にした。
由紀なら、なっちゃんも構わないだろう。
「そっか。大変だったね」
短い言葉だが、同じ虐待の生存者としての言葉だ。
「でも、いつか乗り越えて幸せにならないとね」
「できるのかな?」
「できるよ。だって、私のお兄ちゃんとなっちゃんだもん」
由紀は笑顔を見せる。
この笑顔に、何度元気づけられたことだろう。
翌日。
今日は学校だが、なっちゃんは休みだ。
バイト帰りに、なっちゃんの家に寄る。
部屋の前に着き、インターホンを鳴らす。
ドアが開き、部屋に入れてもらう。
「大変でしたね、連休なのに」
「うん、大変だった」
なっちゃんの顔に、疲れが見えた。
僕は料理を作りながら会話をする。
ここ最近は、料理をして作り置きするのが習慣だ。
「はあ、辞めたいよ」
だけど、辞めても帰る場所がない。
生きていくためには働かないといけない。
バイト以外で働いてない僕には、何と声を掛けたらいいかわからなかった。
「勇気君は学校の方は順調?」
「ええ、まあ」
特に変わりはない。
しばらくトントンと、包丁の音だけが響く。
火を点ける。
フライパンに材料を入れ、炒める。
「私ね、時々路地裏へ行くの」
「どうしてですか?」
「誰かに……」
その後になっちゃんの口から続いた言葉は、あまりにもひどかった。
「今すぐ、そういうことはやめてください」
「でも、もうどうでもいいかなって」
ああ、まだ終わってなかったんだ。
性的虐待の後遺症は、まだ終わっていない。
「もう、滅茶苦茶になってもいいかなって」
「僕や由紀、元さんや施設のみんな、それに智恵理先生が悲しみますよ。」
「うん、わかってるよ。でもね」
火を消した。
「私、普通にはなれないんだって、思っちゃうの。普通に、幸せになれないんだって。お父さんにあんなことされて、もうだめなんだって」
「なっちゃんは、ちゃんと幸せになれますよ」
「勇気君に何がわかるの! 同じ経験をしてない!」
なっちゃんが叫ぶ。
今までこらえて来たものを一気に吐き出す。
あの文化祭の日と同じように。
僕はわかった気になっていた。
本や資料を読んで、性的虐待について知った気になっていた。
だけど、当事者を目の前にすると、こんなにも無力だ。
「勇気君を傷つけたい。そう思っちゃうの。……勇気君は決して、私を傷つけないから」
なっちゃんは、涙を流す。
「心の中がどうしようもなくぐしゃぐしゃで、とにかく壊したいの」
自分を壊したい。
自分を大切にしてくれる人を壊したい。
自分の気持ちさえ、扱い方がわからない。
僕はそっと、なっちゃんを抱き締めた。
きっと、これが正解だと思っていた。
「ひっ……」
なっちゃんは抱き締められた途端、一気に体を強張らせた。
「やめ、て」
なっちゃんはそんな言葉を口にしていた。
僕はなっちゃんを離す。
「やっぱりね」
なっちゃんは全てを諦めた声で言った。
やっぱり、好きな人でも無理なんだね。
そう言ったんだ。
僕は間違えたのだ。




