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未踏 20号 「お父さんになってという感情」について

作者: 山口和朗

「お父さんになってという感情」について


 私が最初に「お父さんになってという感情」に出会ったのは、小学四年生の夏休み、養護施設から妙心寺へ合宿に行った時、花園大学の学生達が演じた、「エゲンさん」という芝居の中でのことであった。

 まだ私は養護施設に来たばかりで、慣れなくて、自分の境遇を嘆いてばかりいた。そんな私に、エゲンさんが呼びかけたのだった。

 どういう生い立ちの人であったかはわからない。何かを求め、諸国を巡り歩くうち年老い、その村に居つくことになった。家も家族も持たず、ぼろを着て、ただその日の食い扶持を求めて托鉢する。


「お父さんになってという感情」について



 私が最初に「お父さんになってという感情」に出会ったのは、小学四年生の夏休み、養護施設から妙心寺へ合宿に行った時、花園大学の学生達が演じた、「エゲンさん」という芝居の中でのことであった。

 まだ私は養護施設に来たばかりで、慣れなくて、自分の境遇を嘆いてばかりいた。そんな私に、エゲンさんが呼びかけたのだった。

 どういう生い立ちの人であったかはわからない。何かを求め、諸国を巡り歩くうち年老い、その村に居つくことになった。家も家族も持たず、ぼろを着て、ただその日の食い扶持を求めて托鉢する。初めは村人に嫌われたりしたが、子供たちの良い遊び相手となり次第に村人からも受け入れられて行く。父も母も幼い時に死に別れ、天涯孤独であったという。劇の最期の場面であった。「この村の人々が私の親、兄弟であり、私の子供である」とエゲンさんが観客の方に向かって呼びかけるのだった。

 私は私が失った家庭というものをエゲンさんの心の中に見つけ、そしてエゲンさんが見つけた家族というもの中には私も含まれる。私はエゲンさんを「お父さんになってという感情」で捉えていたのだった。


 小学五年生の夏休み、夜の校庭での映画会。「アリの町のマリア」の女性に、お父さんではないが、お父さんという、包み、見守り、導く人が実際にこの世の中にはいるのだということを観たのだった。

 キリスト者のその女性は、社会のために何かをしなければと思っていた。そこへ屑拾いをしている神父から、屑拾いで生活しているバタ屋部落の子ども達に勉強を教えて欲しいと頼まれる。待っていたようにその女性は、バタ屋部落に出かけるのだが、「お嬢さんに何が」と冷たい嘲笑を受ける。でも子供達と一心に生活する中で、次第に受け入れられ幸せなときが流れていく。しかし、綺麗になっていく回りからは、バタ屋部落は汚いと、町が取り壊されそうになる。その女性は、人々の心のより所になる教会をその町に建てようと思いたつ、部落に住み、子ども達と一緒になって屑拾いをし、やがて教会は建つのだが、最期は病気に倒れ死んでしまう。

 まだ私は社会を何も知ってはいなかった。無数のそうした人たちがいることも。

養護施設という中で、社会から保護されている私ではあったが、その女性が示したような、自分をかえりみないで、分け隔てなく、人々と一緒に生活し、みんなのマリアのような存在になっていく姿に私は生身の「お父さんになってと言う感情」をみていたのだった。この社会にはそうした人がいる、私はけっして一人ではないと言う。

 次に出会ったのが、私が青年になって本を読み始めた頃の国木田独歩の「源叔父」、そしてゴーリキーの「秋の一夜」であった。


 「源叔父」

 唄の上手い、男気の船頭であった源叔父は、結婚し、幸せな生活を送っていたが、妻を二度目の出産で亡くし、無口な人付き合いの悪い男になってしまう。残された息子も十二才の時、海で亡くし、遂に源叔父は世を捨てたような人になってしまう。そんな折、村で乞食をして暮らしていた知恵遅れの「紀州」と呼ばれる子どもと出会い、子を亡くした親と、親を亡くした子が、父となり、子となれば幸せになれると、一緒に家族のように住み始めるのだった。その子を死んだ自分の子どもように世話をし、生活を再び始めた源叔父は、次第に昔のような明るさを取り戻していく。しかし、親兄弟を知らない「紀州」は再々家からいなくなる、その度に連れ戻すのだが、ある日、いくら探しても見つからない、やがて源叔父は希望を失くし首をつって死んでしまう。

私は源叔父の、村で野良犬のように暮らしていた「紀州」という子に、我が子を見つけ、自分の子どものような愛情を注ぐ姿に、「お父さんになってという感情」を見ていたのだった。


 「ある秋の一夜」

 冬近い船着場、放浪していた私が雨宿りに、とある売店の軒先立ち寄ると、女が一人うずくまって売店の下を手で掘っていた。誰かに殴られたのだろう、顔には青あざを作っていた。中に食べ物があるかもしれないと言う。空腹の二人は穴を掘り、中に入ってパンを見つけ食べる、ヒモの男に殴られたのだというその女は、「なんていやな暮らしだろう」と、運命を呪う、寒さもあったのだが、「ね、寒いんじゃない、いい子だから、泣かないで」と、人生を捜し求めていた十七才の私をやさしく抱きしめ、数え切れないほどの接吻してくれた。その接吻は私の心にこびりついていた、それまでのさまざまな憂いや、愚かさを一度に洗い落としてくれるような無上のものだった。娼婦のようなその女に、今まで読んだどんな本よりも強く、私は生きていく勇気を与えられるのだった。


    亜 衣


 題名が面白くて、「お母さんを売る店」という童話を読んだことがある。両親のいない、お祖母さんと二人きりで暮らしている男の子は、お母さんが欲しいと思う。そして街で見かけた広告の店で、店の奥にあった、綺麗ではないけれど、安くて丈夫なお母さんを買ってもらう。友達は、高くて綺麗なお母さんを買ってもらった。安くて丈夫なその男の子のお母さんは、働き者で、世話もよくしてくれた。でも、高くて綺麗なお母さんは、遊んでばかりで、そのうち病気になって入院してしまう。男の子は綺麗ではないけれど自分が買ってもらったお母さんが、一番良いお母さんだと思うというお話。

 亜衣にはお父さんがなかった。でもお父さんを欲しいと思ったことはなかった。大お祖母さん、大お祖父さんがいるし、叔父さんたちもいる、お母さんからは、お父さんは亜衣が生まれる前に死んだと聞いていた。お母さんはお父さんのことを何も話さなかったし、あまり好きではなかったようだったから。学校の友達からも、お父さんなんて仕事ばかりしていて、少しも遊んでくれない。たまの休みも寝てばかりで、居てもいなくても一緒よと言われていたから。

 そんな亜衣の家に純がやって来たのだった。お母さんの弟達と年の違わない、お兄さんのような感じだった。

 お母さんたちとは別に暮らしていた亜衣が、しばらく振りにお母さんの家に遊びに行ったときだった。叔父さんたちの中に知らない男の人がいた。誰だろうと思っていたら、「これが亜衣」とお母さんが亜衣を紹介した。今までお母さんは亜衣のことを誰かに紹介したこともなかったし、一緒に暮らさないのは、お母さんに何か都合が悪い事があるからだと思っていた。知らない男の人と顔を合わせることと、お母さんに初めて自分の子供として紹介されたことに、亜衣はドキドキした。お母さんも何か恥ずかしそうに照れていた。

 その男の人は、ひげもじゃらの顔で、「純ですが、よろしくうー」と動物の物真似のような太い声で、亜衣におどけて言った。亜衣は一瞬笑ってしまったが、その楽しそうな男の人に自分が一人前に扱われたようで嬉しかった。お母さんからは何も聞いていなかったが、でもこうして特別に亜衣のことを紹介するのは、何か理由があると思った。

 亜衣は小学二年生になっていた。お母さんは朝仕事が早いし、叔父さん達の世話で大変だからと、大お祖母さんの家から学校に行っていた。亜衣はその日の気分でお母さんの家に泊まったり、大お祖母さんの家に泊まったりしていた。今日は純という男の人がいるし、お母さんの家で泊まっていこうかなっと思った。純と叔父さん達は、もう以前から知っていたのか、一緒にゲームをしたり、漫画を読んだり、亜衣の知らない間に友達になっていた。亜衣もみんなの間に入って漫画を読み始めた。お母さんは妹の光子叔母さんと夕ご飯を作っていた。和志叔父さんと、博叔父さんと、純と、亜衣と、六人分の食事。お母さんは大変だろうなと亜衣は思った。

「お里、今日のご飯は何?」

おなかが空いてきた亜衣が聞いた。

「ハンバーグ」

「ヤッター」

亜衣はハンバーグが大好物だった。でも人数が多いから一つしか食べられないかなーと心配もした。純は和志叔父さんとボクシングのゲームをしていた。寝そべって、和志叔父さんよりは年上のようで、和志叔父さんをからかっていた。亜衣は何か特別な男の人が家に現れたようで、ワクワクした気分を感じた。大お祖母さんの家は大お祖父さんと伯母さんと伯父さんと犬のラブがいたけど話すこともなく詰まらなかった。お母さんの家は純が来たことで何か様子が変わった気がした。良く見れば、お母さんも、光子叔母さんも、いつもとは違って、澄まして、おしとやかだった。

「亜衣、運んでねー」

亜衣を呼ぶ声も優しい、食事を作るのも嬉しそう。

「はーい」

亜衣もつられて素直な良い子を演じ可愛く返事。

ハンバーグが山盛り、すばやく数える。一、二、三、四、十個、お母さんと、光子叔母さんは一つずつで、私は二個。

「ウォー、美味そうー」

純が大きな声で歓声を上げた。

「お母さんのハンバーグって最高なんだから」

「ほんとー」

亜衣が自慢げに純に言うと、純も喜んでくれた。純という知らない人が一人いるだけで、食事の雰囲気も何か違う。皆で楽しくなろうとしているみたい。いつもは暗い顔をして、叔父さん達に怒ってばかりのお母さんが一番嬉しそう、

「きょう亜衣、先生にほめられちゃった」

学校のことなど話したことのない亜衣だったが、純が居たことと、皆が楽しそうにしていたから、思わず自慢するように言ってしまった。

お母さんも、光子叔母さんも笑っていただけだったが、純は真っ先に聞いてくれた。

「ほんとー」

純は友達みたいに「うそーッ」とは言わないで、

嬉しそうに、亜衣をのぞきこむように聞いた。

「亜衣の絵、上手だーって」

「亜衣ちゃん、お絵かきが好きなんだ」

亜衣は一人で居る時は、だいたい本を読んだり、絵を描いたりして過ごしていた。

「実は俺も好きだよ」

純は秘密でもうちあけるように亜衣に言った。

「ちょっとそこの紙取って」

そういうなり、近くにあった鉛筆を取って、テーブルの狭い隙間で、皆が見ているのもかまわず絵を描きだした。

見る見る格好良いロボットが出現した。

「すごーい、これ何というの」

「ガンダム、知らないだろうねー、俺が子供の頃大好きだったロボット」

「知ってる、知ってる」

叔父さん達も純の絵を見ながら、昔のテレビの話などを始めた。亜衣はすっかり嬉しくなった。絵が好きで、楽しくって、その純がお母さんと何か特別な関係で。

 食事が終わって、皆でテレビを見て、叔父さんたちは自分の部屋に帰ろうとしたときだった。

「亜衣、きょう泊まっていくね」

亜衣はいつもの調子で気楽に言ったのだった。

「駄目―」

お母さんがすぐさま、強い調子で言った。

「どうして」

「どうしても」

お母さんの亜衣をにらんだ顔があった。亜衣は理由がわからなかったが、お母さんの強い気持を知った。純も、叔父さん達も、突然機械が止まったように動かなくなり、黙ってしまった。泊まっては駄目なのだ、皆がそう思っているんだ。

亜衣がどうしたらいいのか、困った不安な顔をしていると、

「今度の日曜日、遊園地に行こう」

純が亜衣を、なだめるように言った。

亜衣は、自分が原因で亜衣に悲しい思いをさせているというような、純の哀しい声に接し、泊まりたい気持ちを変えた。お母さんの変化、叔父さんたちの純への態度、お母さんちでは何か亜衣が知らないことが起きているのだと思った。


 帰り道、亜衣が暮らしている大お祖母さんの家は、直ぐ近くだったが、きょうの亜衣にはとても遠いところに思えた。今まで家が二つあって、自由に行き来出来て、どちらに住みたいと思ったことはなかったが、大お祖母さんの家が寂しく思え、お母さんの家に住みたいと思った。近頃考えることはあった。どこの家も、一つの家で、お父さんとお母さんがいて、そこに子どもがいる。亜衣には家が二つあるがどちらも自分の家ではない気がしていた。亜衣はお母さんが急にどこかへ行ってしまったような不安な心になった。今までも、大お祖母さんが言うから、あまりお母さんの家で泊まらなかったけれど、亜衣だけ一人のけものにされ、どこの子でもないような寂しい気持ちになった。


日曜日、お母さんとは初めて行く遊園地に思えた。亜衣は叔父さんとは何度か来ていたが、遊園地がお父さんと、お母さん、そして子どもという家族で来る所だと知って、いつの頃か行きたくなくなった。それがきょうは純がいて、何か家族のような気がしていた。

 亜衣は純とお母さんを二人にして、つぎつぎと乗り物のはしごをした。亜衣は遊園地がこんなに楽しいところだとは思わなかった。どの子も、お父さんとお母さんがいて、いつも子どもを見守ってくれている。それでみんな安心して遊んでいる。亜衣も時々乗り物から二人に手を振って、しあわせな家族の休日のようにふるまった。

「ああ疲れた」

遊び疲れた亜衣はのどが乾いてしまった。

「お里、ジュース買って」

いつもの調子で亜衣がお母さんに言ったときだった。

「おかあさんと言いな」

純の怒った命令する声があった。

亜衣は一瞬息が止まってしまった。恐い顔でにらみつけてくる純、困ったように下を向いてしまったお母さん。亜衣は今までお母さんのことをお母さんと呼んだことがなかった。誰もが「お里」と呼んでいたし、お母さんもそのほうが良いようだったから。亜衣が特別お母さんと呼ばなくても、お母さんは、亜衣のお母さんには違いがなかったから。

「亜衣のお母さんなんだから、お母さんと呼びなよ」

純は「亜衣のお母さん」と言うところに力をこめて言った。

亜衣は別に暮らしていることもあったが、お母さんは叔父さんや、病気がちな大お祖父さんの世話をする、みんなのお姉さんだったし、亜衣だけのお母さんとは思えなかった。亜衣が「お母さん」なんて言ったら、みんな驚いてしまうし、嫌がると思った。みんなの前ではお母さんなんて言えそうにないと思った。

亜衣が困った顔をしていると、純がジュースを買いに行ってくれた。

家族のように、純というお父さんのような男の人と遊園地に来ていることと、お母さんのいつもとは違ったお化粧した綺麗な姿を見ると、亜衣は「お母さん」と言ってみたくはなった。でも口に出すのは恥ずかしかった。そっと心の中で「お母さん」と言ってみた。

 純の注意は、大お祖母さんや叔父さんが注意するのと何かが違う、純は本気で言う。お母さんも亜衣もそれに従っている。でもお母さんも、亜衣もそれがどこかで嬉しい。お母さんの何かが変わっていく、亜衣の心も何かが変わろうとしている。亜衣は今まで味わったことのない不思議な気分だった。威張って命令する、でもみんなのことを考えている。そんな男の人が、お父さんというものだろうか、特別な男の人。そんな男の人がいて、お母さん、子どもがいるというのが家族なのだろうか。


 亜衣はお母さんの家で夕ご飯は食べるようになっていた。純も毎日来て泊まっていくようになった。お母さんは相変わらずみんなの世話で忙しかったが、亜衣と純は一緒に絵を描いたり、ゲームをしたり、純はお母さんの純より、亜衣の純のようだった。

そんなある日、学校で父親参観日があった。お父さん達だけの授業見学。亜衣は嫌いだった。お父さんがいない子はどうするの、と思った。教室の後ろや、廊下にはお父さん達がいっぱい。友達は自分のお父さんを見つけ、ニヤニヤ、そわそわ、亜衣にはお父さんがいない、誰も来るはずはない、一瞬、純が来てくれたら良いなとは思った。でも純はお父さんではない、友達に説明も出来ない。お父さんてなんだろう、亜衣は今まで考えたこともなかったが、純が来るようになってから、純がお父さんになるということを考えるようになった。純はお母さんとお父さんがお互いに好きなら、自動的に亜衣のお父さんになるのだろうか、亜衣が好きでお母さんが嫌いになったら、純はお父さんにはなれないのだろうか、反対にお母さんが好きで亜衣が好きになれなくても純はお父さんになるのだろか、ぐるぐる亜衣の頭の中では、お父さんというものについての考えが渦巻いた。あの子のお父さんは、あのメガネの優しそうな人か、あの子のお父さんは、あの恐そうなパンチパーマの人かと、亜衣は友達のお父さんを観察しながら純はどうなんだろうと思った。優しい、格好良い、でも恐い、亜衣は毎日の純との時間を思い出していた。夕ご飯までの時間、二人でよく絵を描いたりゲームをした。亜衣の絵を純はよくほめてくれた。ゲームはわざと負けてくれた。買い物に行った時は、よくレストランに連れて行ってくれた。でも最近の純はよく怒るしうるさい。箸の持ち方、靴の履き方と、大お祖母さんの家では何も言われたことはないのに、お父さんとは、やっぱり、恐い、命令する人なのか、亜衣は嫌な父親参観日だったが、純のことを思っていたら、あっという間に過ぎてしまった。


 そんなある日のことだった。お母さんと純が喧嘩をした、お母さんは泣いていた。純は何も言わないで恐い顔をして何かをにらみつけていた。亜衣を見つけても知らん顔、亜衣はどうしたら良いのわからなくなり、柱にもたれて立っていた。

お母さんは泣いてはいたが、怒っているようだった。

「男は勝手よ」

お母さんが一人ごとのように言った

最近のお母さんは毎日の仕事と、みんなの世話で疲れているようだった。純も、叔父さん達も、少しもお母さんのお手伝いをしない、皆で暮らしているのに、お手伝いをするのは、光子叔母さんと、亜衣だけ、お母さんはそんな皆に怒っているのだと、亜衣は思った。

「私はもう嫌だからね」

お母さんが怖い顔で純をにらんだ。

「ちょっと待ってくれって言ってるだけだろ」

純がふてくされたように言い返した。

お母さんと純の話は少しもかみ合わない。お母さんが怒っていて、純が謝っているのか、純が怒っていてお母さんが泣いているのか。亜衣はお母さんが少し待ってやれば良いのにと思ったが、何が原因で二人が喧嘩をしているかは判らなかった。二人とも何か大事なことを言い合ってはいるようだった。

重苦しい時間が流れた。

「自家へ行って来るよ」

しばらくして純が立ち上がった。

お母さんは純を無視して、返事もしなかった。

純は心配そうに立っていた亜衣のところに来ると、亜衣の頭を優しく撫でてニコッと笑った。

亜衣はその時初めて純には自家があるのだと思った。純の自家ってどんななのだろう、いろいろ聞いてみたいと思った。


その日、純は帰ってこなかった。夕ご飯が突然に、テレビだけがしゃべっているような、無口な、いつかのお母さんの家になった。お母さんは何もしゃべらない、何か言うと怒られそうで、叔父さんたちもお母さんをそっとしておいた。

もう純が帰ってこないと思っているのか。皆はそんなお母さんを心配して黙っているのか。

亜衣は純がいなくなって、初めて純が居ないとこんなに寂しいのかと思った。

食事が終わって亜衣はめずらしくお手伝いをした。そしてお母さんとちょっと話した。

「純は帰ってくるでしょ」

「帰って来ない」

お母さんはぷりぷりして言う。

「純は何を怒ってるの」

「亜衣には関係ないの」

お母さんは純のことを話したくないようだった。

突然、亜衣はまた誰の子でもないようなのけ者にされた気分になった。

もうお母さんは純を嫌いになったのだろうか、

純もお母さんものことを嫌いになったのだろうか。でも、お母さんが嫌いになっても亜衣は純が好き。せっかく何かが始まり出したのに、やめてしまうなんて、亜衣は絶対嫌だ。亜衣はまだ純に嫌いとは言われていない。

その日から亜衣は、お母さんの家に泊まるようになった。お母さんがどこか悲しそうだったし、お母さんも駄目とは言わなかったから。


 亜衣は毎日学校から真直ぐに帰ってきた。きょうは純が来ているのではないかと。お母さんの家は皆仕事や学校に行っていて、誰もいない。昼間は大お祖母さんの家より淋しい。友達とも遊ばないで、大お祖母さんの家にも寄らないで、毎日待っているのに、純は来ない。亜衣は純がもう帰ってこないのかもしれないと不安になった。お母さんも、叔父さん達も、少しも純の話をしない、わざと話さないようにしているようで、亜衣は何も聞けなかった。純のこと心配ではないのだろうか。純もどうしているのだろうか。

 そんな数日後、純がひょっこり帰ってきた、両手に荷物を持って、どこか旅行にでも出かけていたように。

「着替えを取ってきたよ」

純はお母さんに少し恥ずかしそうに言った。

お母さんは純と顔を見合わせると、黙って純から荷物を受け取った。そして後ろを向くと、ちょっと泣いた。お母さんはとても悩んでいたのだと思った。亜衣もそれを見て少し泣いた。


 その日、お母さんはいつかの純に出会ったときのような明るい顔に返ったが、純は以前とは違って暗い、無口な純になった。

亜衣は純の家で何かがあったと思った。

純が買い物に行くときだった、「亜衣も行くー」と二人で買い物に出かけた。そして今まで聞いた事のないことを色々質問したのだった。

「純の家ってどんな家」

「兄弟は」

「お父さんは」

「お母さんは」

「亜衣の家に来て心配しないの」

亜衣は思いつくまま純に聞いていた。純も次々とクイズのように答えていた。

「料理は何が好き」

「ではお母さんのこと好き」

「亜衣のことは」

「純、亜衣のお父さんになって」

亜衣は唐突に言った。ずっと言わなければと思っていたこと、でもどこで言ったら良いのかわからなかった。それでずっと質問を続けていたのだった。

「いいよー」

純が答えの続きのように言った。

「ほんとなの」

亜衣は純があまりに気楽に言うので、聞きなおした。

「うん、そう思ってるよ」

純のいつもの嬉しそうな顔があった。

「やったー。ぜったいね。亜衣のお父さんになってくれるのね」

亜衣は純が少し亜衣から離れた気がしていたが、そんなことは全然なかった。亜衣はバレンタインの日、好きな男の子にチョコレートをあげて胸が重苦しかった。チョコレートは返ってこなかったが、いま純が返してくれたような気がした。

男の子なんかよりずっといい、亜衣のお父さんという。

亜衣は以前読んだ「お母さんを売る店」といものは実際にはないのだけれど、お母さんがどこかでお父さんを買ってきてくれたような気分だった。いま一緒に歩いている人が、亜衣のお父さん、優しくて、強くて。そして今に、「純のこと、お父さんと言え、お父さんは、亜衣のお父さんなんだから」と、亜衣は怒られるかしら。

早く「お父さん」と言ってみたい、そして友達にも自慢してみたい。亜衣は初めて、自分がお母さんと純の子どもだと思えた。男の人と女の人が好きになり、その好きな心が一つになって子どもが生まれる、その子どもが男の人をお父さんと呼び、女の人をお母さんと呼ぶ。生まれた子どもには、初めからお父さんとお母さんが決まっている。でも亜衣にはお父さんがいなかったから、亜衣は自分でお父さんを選ぶことが出来た。純は私が選んだ私のお父さん。

一緒に並んで歩いているときだった、純の手が一瞬亜衣の手に触れた。亜衣は好きな男の子とは異なった、ずっと亜衣のことを待っていてくれたような、温かくて大きな手を感じた。

「純お父さん」

亜衣は純の手を取り、左右に振った。

「純お父さん」

もう一度確かめるように言うと、純の手を取って二人で手をつないで歩いた。



  「猫を捨てて」


 家族の誰もが押し黙り、変に労わりあう数日があった。小学六年の嘉樹は、一人になって忘れようとしているのか、終日、原っぱへ虫取りに出かけていた。下の小学一年になった潤は、そんな兄とは一緒には遊べず、一人公園へ出かけていた。妻は昼間からソファーに寝てテレビを見ているばかりだった。私はそんな家族の様子を、どこかで心地良く眺めていた。

 三日目の夜だった。

「もう寝なさいね」

 妻が十時を過ぎても寝ようとしない子供たちに、いつもとは違った、優しい声で言っていた。

 子供たちは母の気持を察してか、不服顔も見せず素直に従った。いつもなら何度も言われ、しぶしぶ床に着く、ついてからもふざけ、なかなか眠らないのに、この数日は通夜のように静かだった。

 猫の居なくなった部屋は、ポッカリと穴が空いた様な淋しさがあった。

「子供たちがかわいそう」

 テレビを見て気を紛らせているばかりの妻が、誰に言うとなく言った。

 私は打ち沈んでいる家族に、慰めや同情的な言葉を掛けられなかった。終日、憂鬱な顔をして本を読んでいるばかりだった。

 私は子供の悲しみより、捨てられた猫の方がもっと悲しい、捨てられた猫の悲しみを、家族のそれぞれが一人になって、感じていたほうが良いと思うことで、猫を捨てたことへのいたたまれない気持を押えていた。

 しばらくして妻は心配して子供たちを見に行った。

「貴方来てちょうだいよ」

 妻が呼んでいた。

「どうしたの」

 私は返事をしながらも、立ち上がらなかった。

 泣いているのだろう子供たちの顔は見たくなかったし、何より、優しく言葉が掛けられるような心の状態ではなかった。

 整理のつかないものが、いつまでも心の中ではうずまいていた。

「嘉樹が――」

 妻が再び私を呼んだ。

 私はしぶしぶ子供部屋へ行った。妻は嘉樹の枕元に座って子供たちの頭を撫でていた。

「嘉樹、泣いているのよ、ミーの鈴の音がして眠れないって」

 私は蒲団にうつ伏せて泣いている嘉樹と、狼狽し、私を見上げる妻の顔を見ているばかりだった。


 薄汚れてはいたが、毛足の長い、ペルシャかかった上品な猫だった。一ヶ月ほど前、嘉樹が近くの公園で拾ってきた。嘉樹は団地では飼えないこと、私がペットを好まないことは知っていたが、傷をしていたし、何人かが犬や猫を飼っていたから、もしかしたら私が飼ってもいいと言うのではないかと、連れてきたようだった。

「ねえ、いいでしょう」

 外出から帰った私に嘉樹は、胸にその白い猫を抱き上げて言う。

「どうも雄猫にやられたようなの」

 幼い頃猫を飼っていたと言う妻は、物知り顔で言いながら猫の傷を見せた。

 鼻の頭、首筋に爪のひっかき傷のようなものがあった。

「あまり啼くから牛乳あげたんだけど、戸を開けといても、出て行こうとしないのよ」

 妻も飼いたそうに言う。

「じゃあ、少し泊めてやったら」

 私は飼うというより、猫が居たいのなら居ればいいといった、軽い気持で返事をしたのだった。

 とたんに、子供たちは緊張が解けたように、大はしゃぎをした。

 

 物静かな、躾のいき届いた猫だった。

 「ミー」と名付けた、その名を呼ぶとやって来たし、食事は「おあづけ」が出来た。トイレは風呂場へ行き、自分で流し口に向かって用を足した。

「ミーは感心な子ねえ」

 妻は以前の飼主が躾けたのだろう、ミーの一つ一つの振舞いに目を細め可愛がった。

 朝、玄関を開けてやると、しばらく散歩して食事時には帰ってくる。後は家で仕事する私の近くで眠っている。

 昼時になると起きて、物欲しげに私を呼ぶ。私は昼休みの合図のように、仕事を止めて、昼食をミーと取る。

 子供たちが学校から帰ると、ミーは忙しかった。交替に抱かれなければならかったし、パートから帰った妻の、毛づくろいや傷の手当があった。だがミーは嫌がる様子も見せず、なすがままだった。

 夜は子供たちの蒲団で寝た。


 傷も癒えた頃のことだった。

 風呂に入っていた私たちを、戸の前で呼ぶのだった。

「風呂に入りたいんだよ」

 嘉樹が一緒に風呂に入れたそうに言う。

「猫を風呂に入れる人、居るって言うからね」

 妻がそう言って戸を開けると、ミーが入ってきた。

「綺麗にしたいのよね」

 妻は子供たちとシャンプーでミーを洗い出した。ミーは鳴いてはいたが、嫌がっている様子はなかった。

「ほんとにこの子、大事に育てられてたんだわ」

 妻は風呂から出ると、三人目の子供でも出来たように毛づくろいをした。

 ドライヤーで乾かし、ブラッシングすると、ミーは見ちがえるような美人になっていた。

 翌日、私は鈴の付いた赤い首輪を買ってきた。首の長い、青い目のミーに、それは良く似合った。歩く度に、軽やかな鈴の音が我家に響いた。

 そんなある夜のことだった。妻が団地の集会から帰ってきて、一人怒っていた。

「どうして皆ああなんだろう」

 妻は私の顔を見ながらため息を付いた。

「犬や猫を飼ってはいけないのは分っているけれど、どうしてもっと寛容になれないのかしら、聞いていて嫌になっちゃった」

 時ならぬ団地の集会のわけが分った。

「いいから、一部始終を話してよ」

 私はいつまでも愚痴っている妻に苛立って言った。


「最近、犬や猫を飼う人が増え、苦情が出ている」

 役員のAさんがみんなにはかった。

「規則なんだから飼ってはいけないと思う、猫は他所の家に入って来るし、犬は吠えてうるさい」

 一階のYさんが言った。

「子どもが、Iさんちも、Oさんちも飼っているのに、どうして自家では飼ってはいけないのかと言ってきて、返事に困ってしまう」

 両隣が犬を飼っているMさんが言った。

「うちの子は、腕白だとか、うるさいと言われ、よく注意されるけれど、犬や猫はいいのですか」

 三人の子持ちのKさんが日頃のうっ憤を吐いた。

「最近、人に迷惑を掛けたり、違反をして平気な人が多い。夜遅くまでカラオケをしたり、青空駐車をしたりと」

 いつも口うるさいHさんが言った。

「規則だ違反だと、杓子定規に言わないで、もっと許しあって暮した方がいいのでは」

 見かねて妻が言った。

「そんなきれい事じゃない、迷惑や違反を放置していたら、示しが付かなくなる」

 妻の人の良い発言に、Hさんが反論した。

「市は何と言っているんですか」

 役員のAさんが市職員である管理人のSさんに聞いた。

「私は良いとか悪いとかは言えない、ただ苦情が出ている以上、違反は違反と言うしか」

 Sさんは言葉を濁した。

 重苦しい雰囲気になった。

「悪いのは分っていますが、絶対迷惑はおかけしませんから黙認して下さい」

 毛の長い洋犬を飼っているOさんが、いたたまれなくなって言った。

「いま飼っている人が手放すという事は、子供を手放すようなものだから、迷惑にならないようにしていけば良いのじゃない」

 普段無口なDさんが言った。

「みんな飼いたいのに我慢しているのだから、そんなことでは正直者が馬鹿を見るだけだわ」

 Hさんが言い張った。

「そんなに言うんだったら、青空駐車も、無線も、ベランダの物置も、違反は全部やめてください、そうしたら私も手放します」

 Oさんが泣きながら言った。

 結局、結論は出ず、住人同士の気まずい感情だけが残って終ったのだった。


 ミーは何も知らず藤椅子の上で眠っていた。アパート住いに団地住いと、初めて飼ったペットだった。ミーを中立ちにしての家族の団欒と、喜びの姿。いつしか私もミーに愛着を抱いていた。だからこそ気分が悪くなり、苦情を言う人への、腹いせのように猫を捨てたのかも知れなかった。

「ミーどうするの」

 隣の部屋で聞いていた嘉樹が来て、不安そうに言った。

「保健所に持っていって殺してもらう」

 私は子供に残酷なことを口走っていた。迷惑や苦情があると知った以上飼うことはしたくなかったが、どれほどの迷惑かと腹立っていた。

「飼いたければ皆んな飼ったらいい。でも自家は飼わない」

 私はミーを抱きかかえている嘉樹に浴びせ掛けていた。

 私にはもともと、ペットを飼えるほどの安定した精神状態などなかった。たまたま猫だったから同居できたようなものだった。

 妻のような、ペットとマイホームを楽しむ生い立ちを、私は送って来なかった。

 昨年のことだった。一人暮しをしていた母が、茶のみ友だちと再婚し、私は数年来の肩の荷が下りた気になっていたら、相手の姉妹が反対し、離婚したいといって我家に転がりこんだことがあった。

 引越しの時、「嫌になったら帰ってくれば」と、冗談で母には言ったのだったが、求められての再婚、今度こそは幸せになってくれるだろうと、諸手を上げて喜んだのだった。

 それが一年で壊れ、母は我家に身を寄せることとなった。

 私はとたんに憂鬱になった。

 母は、私は男運に恵まれない星なんだはと二度離婚していたが、母にはどこか人としての自立した感情が育っていなくて、男には献身的に尽すのだが、男女の対等の愛と言うものには理解がいかなかった。

 兄、妹達と比べての自分の不運を嘆き、男に対して依存的な感情ばかりが目立った。

 男と別れては、息子がもっと甲斐性が有って、一緒に暮らせたならどれほど良いかと言うことばかり考えていた。

 そんな母を見なければという気持はあったが、まだ孫の面倒を見る歳でもない母を、とても考える心境には成れなかった。何より私の心の奥底には、まだ癒えていない、少年時代の記憶があった。


 母は毎晩、愚痴をこぼす。私は聞きたくないから隣の部屋で一人自分の事をしている。すると妻が私の母だからと、際限なく母に付き合う。

 襖一つで仕切られた部屋では会話は筒抜け、私は段々に母が憎くなってくる。そのうちには妻も憎くなってくる。我家の平安を乱しているのは母なのだが、その母に、私は妻を盗られているような気がしてくる。妻は私のそんな気持が解かっていないのだといった、子供が駄々をこねているような、ほぐしようの無い感情に襲われ、遂には家に居られなくなる。

「散歩に行ってくる」と、家を飛出るのだが、言いようのない自己嫌悪が襲ってくる。

 母を見なければとは思う、だが、私には母に対して、妻や子に対するような、培ってきた愛情が無い、ただ義務感や、同情心があるばかり。たとえ経済的な余力があっても、私は母と一緒には暮らせない。


 重苦しい数日があった。自分の気持をどうすることも出来なくて、私はいつしか妻や子に当り散らすようになっていた。

 ある夜、母が寝たのを確かめ、妻が私の気持を聞いてきた。

「どうしてなの、私がこんなにお母さんのことを心配しているのに」

「嫌なんだ、貴女が母と話しているのが」

 私は、それが、貴女を母に盗られているような気になるとは言えなかった。

「そんなこと言ったって、貴方のお母さんでしょ」

 妻は私の気持が理解できないと呆れたように言った。

「貴女には理解できないのだよ」

 私は言いようのない悲しみに囚われていた。

「貴方って冷たい人なのよね」

 その言葉を最後に私は口が利けなくなった。

 思案に暮れている母に、妻が優しくすればするほど、私は家から逃げ出すようになっていった。

 しばらくすると、母は居たたまれなくなったのか、何も言わないで、また戻っていった。


 翌日、保健所ではなく、良く遊びに行っていた、隣町の森林公園へ、子供と一緒に出かけた。

「子供は連れて行かないほうが良いのでは」という妻の反対を押し切って、私は子供とミーを車に乗せていた。

 心ある人に拾ってもらえたらと、首輪には「躾の良い、おとなしい猫です」と手紙も添えた。

 道々、バスケットの中で、ミーは啼いていた。潤は「ミーミー」と呼びかけ、嘉樹はミーの好きな煮干を与え続けていた。

 私は、子供に対して残酷なことをしようとしているとは思ったが、子供に捨てさせないわけには行かなかった。子供の気持を思って、そっと一人で捨てに行くという事はしたくなかった。

 公園に着くと、人に見つからないように、バスケットを隠し持ち、人影のない道を選んで歩いた。林の中ほどの開けた場所に来た所でバスケットを下し、子供たちに了解を取り蓋を開けた。見守る中、ミーが飛び出して来るかと思ったらなかなか出て来ない。私は仕方なくバスケットからミーを抱きあげ、草の生えていない平地に置いた。

 ミーは泣き止んではいたが、知らない場所のせいか、うずくまり、動こうとしない。

「動かないね」

 嘉樹はミーが逃げて行かなかったことで安堵したのか、嬉しそうに言った。

 そんな兄の表情を見た潤は、ミーの側に行って頭を撫で始めた。

 私は戸惑った。我家に来て一ヶ月だし、林の中で放せば、逃げ出し、簡単に捨てられると思っていた。

「どうする」

 バスケットを抱え、立ち尽していた私に、嘉樹が決断を迫るように聞く。 

「ミーかわいそう」

 潤までが私に抗議めいて言う。


 私は昨晩の妻との話し合いを思い出していた。

「今すぐ捨てるなんてしなくて良いのじゃない」

「嫌なんだよ、人に迷惑だといわれて飼っていることが、動物を飼うという行為自体、私には不遜なことに思えて、心の余裕が無いと言われればそうなのだが」

 私はかたくなな自分の気持ちをどうすることも出来なかった。

「よく子供を納得させてから、子供の居ない時に捨てて下さい」

 妻は私の性格を察してか諦めて言った。

 そのあと、私は子供たちに話したのだが、納得させられたかどうか、子供たちはただ従う以外無かっただけにも思えた。


「さあ帰ろう」

 私は子供たちの一抹の希望を打ち砕くように言った。

 戸惑いを吹っ切るしかなかった。子供たちを悲しませても、人に迷惑と言われてまで、飼いたくはないと言う気持は強かった。

 数日前に買って来て、まだ半分以上残っている固形フードを近くの木の根元に置くと、なかなか帰ろうとしない子供たちを残し、私は一人先に立って歩いた。

 子供たちも仕方なく立ち上がると、ゆっくりと、ミーとの別れを惜しむように、後ずさりしながら、私に付いて来た。


 黒い地面に、真白な固まり、うずくまり、いつまでも動こうとしないミーは、捨てられることを知っているようにも思えた。仕方がない、飼うわけにはいかない、私は一瞬ミーの姿を見たが振り返えらなかった。

 一人、やり場のない気持に耐えながらその場を後にしていた。

「付いて来るよ」

 嘉樹の叫ぶ声がした。

 見ると、ミーはまだ捨てられたとは思っていないのか、散歩にでも来たように、ゆっくりとこちらに向かって歩いて来ていた。                          

「走るんだ」

 私は、ためらっている子供たちに言うと、一人走りだした。

 子供たちも小走りに走っては来たが、本気で走ってはいなかった。

 ミーも子供と遊んでいるつもりか、逃げ隠れしながら走ってくる。

「駄目だよ、やっぱりついて来る」

 嘉樹は、どこかミーが付いて来るのを喜んでいるように言う。

 草の間には、こちらを見ているミーの白い姿があった。

「もっと速く走らないからだよ」

 私は腹を立て言っていた。そして、再び子供たちと走った。

 やはりミーは走ってついて来た。

 私が子供たちのところまで戻った時には、ミーは子供たちに追いつき、立ち尽す嘉樹の足元に居た。

「明日にしようよ」

 嘉樹は私の戸惑った顔を見つけると、涙ぐみ訴えるように言った。

「駄目だよ」

 私は子供たちの中の、燻っていた感情を掻き消すように冷たく言い放った。すると潤が声を上げて泣き出した。

 私は誰かに見られるのではないかと思い、周りを見回した。

「泣くなったら」

 私は潤の頭を引き寄せると、顔を身体に押しつけ、泣き声を押えた。

 途方に暮れ、私は、自分のやっていることが虚しく、いつしか哀れに思えてきた。涙が何処からともなく流れてきた。

 私は遠い昔を思い出していた。

夏の昼下り、音の止ったような白い街に、その建物はあった。私はもう諦めていた。

 父が「養護施設に行くか、それとも此処で一緒に死ぬか」と、夜の三ツ池で迫った時、父がそう願うならと、私は養護施設行きを承諾した。もう小学四年生だったし、一人でも生きていけような気がしていた。親戚の家で気兼ねする生活より、父の言う、三日に一度は肉が食べられて、ちゃんと服も着せてもらえるといった安定した生活の中で、しっかり勉強をしなければと思った。何より施設には、小学校に上った妹がいるのだし、心配でもあり、私が行けば喜んでくれると思った。


「暑かったでしょう」

 笑顔で迎える女の先生に案内され、父と私は事務室に入った。

「好きな学科は何?」

「友達とはどんなことして遊ぶの?」

 女の先生は時々顔を上げ、私に尋ねながら、何か書類を作っていった。

「しっかりしたお子さんだこと」

 私の返事に、先生は目を細め、父に向かって言っていた。

「ええ、なかなか感心なやつで」

 父は自分が褒められたように照れていた。

 廊下では、ものめずらしそうに子供たちが覗き込んでいく。

「ではこれで終りです、お父さんはがんばって働いてくださいよ」

 先生が父を促す。

「よろしくお願いします。出来るだけ早く迎えに来ます」

 父は何度もお辞儀をしていた。その度に、私は父の心配から切り離されていった。

「先生の言う事をよく聞いて、しっかり勉強しろよ」

 父は道々言ったことを繰り返した。

「必ず迎えに来てよね」

 私はとり巻く子供たちの中で、やっとそれだけを言った。

 父が夏の陽ざしの中へ消えて行った。白いワイシャツ、グレーのズボン、父の後ろ姿が見えなくなったとたん私は泣いた。遂に一人になった。もうどこへも行く所はない、給食費が払えず、破れた服を着ていても、父と一緒にいることが安心だった。

「男の子なんだから、いつまでも泣いていちゃだめ」

 部屋の隅で泣いていた私に、先生の囁く声があった。初めて、私は、自分が可哀想だと泣いていたのだった。


「お座りっ」

 嘉樹のミーに命令する声があった。ミーは泣いて、嘉樹に抱っこをせがんでいた。いつまでも泣き止まないミーに、突然、嘉樹が頭を一つ叩いた。叩かれたことなどなかったミーは、驚いたのか、一瞬顔を歪め、唸り声を上げた。すると、再び嘉樹が今度は強く叩いた。ミーは何かを察したのか、首を縮め、その場にうずくまった。

 それを確かめると、嘉樹は立ち上り、一人一目散に道を駆け下りて行った。

                 了



   星になったピーちゃん



 秋っていうのに、毎日つめたい雨がふっていた。

 日曜日になってやっといいお天気になった。保育園も休みだし、どこかへ行きたいなーと、よっちゃんは思っていた。

 それなのにおかあさんは朝から洗濯だし、お父さんは寝ているし、仕方がないから超合金のロボットで一人遊んでいた。

「あなた、もう起きてください、今日は忙しいのだから」

 おかあさんが声をはりあげ、お父さんに言った。

「よっちゃん、お馬さんして起こして、そしてお父さんといっしょに公園へ行ってらっしゃい」

 そうだ、こんなにいいお天気だもの。

「お父さん、公園に行こうよ」

 よっちゃんは蒲団にもぐりこんでいるお父さんに馬乗りになって揺すった。

 でも、お父さんはなかなか起きない。

 ちかごろのお父さんはどうしちゃったのだろう。

 馬のりしても、すこしも暴れてこない。

「よし、じゃあピーちゃんを買いに行こう」

 突然、お父さんは何を思ったのか、ピーちゃんを買いに行くと言う。

 昔、家に小鳥がいたのは少し覚えている、でもいつの頃かいなくなってしまった。

「かわいいんだぞー、ピーちゃん、手にも、肩にも乗って、呼べばいつも飛んで来て」

 お父さんは、もうピーちゃんがそこにいるように話すのだった。

「いいわねえー、ピーちゃんだって、よっちゃん覚えている」

「覚えてないよ、三才ぐらいだろう」

 お父さんと、おかあさんが懐かしそうに話し出す。

「ぼく覚えてるよ」

「ほんとう、真っ白で、文鳥って鳥」

「でも、どうしていなくなったかは知らない」

 よっちゃんはふしぎに思って言っただけなのに、お父さんと、おかあさんは押し黙ってしまった。

「死んじゃったの、生きもの飼うと、死んだ時つらいけどね」

「大丈夫、今度は」

 お父さんが笑顔で言った。

「じゃあ、鳥かご掃除しておくからね」

 おかあさんもうれしそうな顔になっていた。

 こうして、また家にピーちゃんがやって来ることになった。


 それからが大変だった。まだ自分で餌が食べられないピーちゃんは、お父さんと、おかあさんに交替で、餌を口に入れてもらい、寒い夜にはコタツも入れてもらった。まだ首の周りは毛が生えてなくて、赤い皮膚が丸見えで痛そうだった。

 でも、よっちゃんは触りたくて仕方がない。一度だけ手に乗せてもらった。ドクドクとお腹のあたりがしていて、コチョコチョと動いて、くすぐったい。ときどき目を開けるけれど、すぐにねむそうに目をつぶってしまう。おっことさないように緊張して手を広げていたら、腕が痛くなり、手には汗をかいてしまった。

 それからは、ときどきお父さんが餌をあげている時に、顔を近づけたり、「ピーちゃん」と呼んだりした。


 ある日、「お父さんが指を入れてごらん」と、よっちゃんの前に、ピーちゃんの巣箱を置いた。

 よっちゃんがこわごわ指をピーちゃんの前に出すと、つついてきた。

「あっ、つついた、つついた」

「もうまもなく、自分でご飯食べられるようになるな」

 お父さんがピーちゃんをのぞきこんで言った。

 そして、巣箱から出して、ピーちゃんをテーブルの上に置くと、ティシュをピーちゃんの前でゆらした。するとピーちゃんが追っかけた。

「歩いてる、歩いてる」

 よっちゃんは、テーブルから目だけ出して、ピーちゃんの様子を見ていた。マッチ棒のような足で、よちよちと歩いている、ときどき「チッツ、チッチ」と鳴く。腹にはまだ毛がない、でも家に来たときとくらべると、見ちがえるほど大きく、きれいになっていた。

「いつ飛ぶの」

 よっちゃんは、ピーちゃんが部屋をぐるぐる飛ぶのが、待ち遠しかった。

「あと一週間もすれば飛べるだろう」

 お父さんはそう言ってピーちゃんの羽を拡げて見せてくれた。

 白い扇子のようなピーちゃんの羽

 お父さんも待ち遠しそうだった。会社からはまっすぐ帰ってくるし、毎日ニコニコしている。そんなお父さんを見て、おかあさんもうれしそう。

 ピーちゃんが家に来てほんとに良かったと、よっちゃんは思った。

 

 しばらくすると、ピーちゃんは昔いたピーちゃんのかごに入れられていた。よっちゃんは保育園から帰ると、まっ先にピーちゃんに声をかけた。

「ピーちゃんただいま」

 すると、よっちゃんの声が聞こえるのか、戸の側によって来て顔を傾ける。

 もう自分で餌も食べている、お父さんは「もう一日か、二日かしたら飛ぶよ」と言っていた。楽しみでならなかった。


 お父さんが休みの日「飛ばしてみようか」と、おかあさんと話していた。部屋中の窓を閉めて、台所を片付けて、ピーちゃんをかごから出した。

 お父さんはピーちゃんを手に乗せてみんなに見せた。

「いくよー」

 そして手をすうーと上にあげたと思ったら、ピーちゃんが羽ばたいて、部屋を何度か回った。そして本箱の上に飛び降りた。

「飛んだ、飛んだ」

 天井すれすれまである本箱の上から、ピーちゃんが下を見ている。

「すごいなー、ピーちゃん」

 よっちゃんは、自分が空を飛んだようにわくわくした。

「わあ、すごおーい」

 おかあさんも手をたたいて喜んでいた。

 よっちゃんは心臓がドキドキしていた。

 ピーちゃんもきっとドキドキしていると思った。

「ピーちゃん、ピーちゃん」

 おかあさんが手を出して呼んでも降りてこなかった。

「きっと怖かったんだよ」

 よっちゃんはピーちゃんの足は震えていると思った。

「お父さん、下ろしてやってよ」

 おかあさんが心配そうに言った。

「そうだね、今日は初飛行だから」

 お父さんは椅子を持ってきて、本の上で縮こまっているピーちゃんを、そおーっと下ろした。でも、テーブルの上に置くと、元気に動き回った。

 急に大人になったみたいに、すばしっこかった。

「さあ、もうピーちゃんは一人前だ」

 お父さんはやっとピーちゃんから手が離せると喜んでいた。


 よっちゃんは、友だちが出来たみたいに毎日がうれしかった。

 夜、お父さんが帰ってきて、かごから出して遊べるのが待ち遠しかった。

「ピーちゃん、ピーちゃん」

 みんなして呼び合った。だれの肩に飛んでくるか、ピーちゃんの好きなお菓子や、みかんを見せて、だいたいはお父さんの肩に行った、でも、みんなが知らない顔をしているときなど、突然によっちゃんの頭の上に来たりして驚かせた。いっしょに遊ぶのが大好きで、ティシュや、つまようじを、とりやっこをすると、本気でおこったりする。

 もう、自由にどこにでも飛んでいくし、呼べばいつでもやってくる。お父さんに作ってもらった台の上で、きれいな声で鳴く。くちばしはサクランボみたいに真っ赤になって、白い羽はフリルがついているみたいに、ふわふわ。バレリーナみたいなピーちゃん。


 そんな楽しい毎日がつづいていたある日、ピーちゃんと部屋で遊んでいて、知らない間によっちゃんは寝てしまった。おかあさんがピーちゃんを探しに来た。よっちゃんはおかあさんに起こされ、はじめてピーちゃんのことを思い出した。いっしょに遊んでいて、どうしちゃったのだろう。

「ピーちゃん」

 呼んでみても声がしない。

 おかあさんが、よっちゃんが寝ていたところの、服をどかした時だった。目をつぶって横になり、寝ているように動かないピーちゃんがいた。

「ピーちゃん、ピーちゃん」

 おかあさんは泣き顔になって、ピーちゃんをつかむと、手をもむように揺すった。そしてお腹を何度もたたいた。でもピーちゃんの首はぐんなりして、目も開かなかった。おかあさんが泣き出した。よっちゃんもいっしょに泣き出した。

 ぼくが寝ている間に、ピーちゃんを押しつぶしてしまったんだ。ぼくが悪いんだ。ぼくがピーちゃんを死なせてしまった。

「ぼくが、ぼくが」

 よっちゃんは動かなくなったピーちゃんを、おかあさんの手からとると、顔に押しあて泣きつづけた。

「よっちゃんが悪いんじゃない、おかあさんが悪いの、ピーちゃんのことすっかり忘れていて」

「泣かないで、よっちゃんは何も悪くないんだからね」

「ごめんね、ピーちゃん。ごめんね、よっちゃん」

 おかあさんは泣きながら、台所へ行ってしまった。

 ピーちゃんは死んでしまった。ぼくが死なせてしまったんだ。ぐるぐる、ぐるぐる、いつまでもよっちゃんの頭の中で、黒いかたまりのようなものが回っていた。


 さっきまで元気に飛び回っていたピーちゃん、いくら暖めても動かない。真っ赤だったくちばしは青くなってきた。真っ白だった羽はぐっしょりとぬれて、よじれて汚くなってしまった。どこへ行ってしまったの、ピーちゃん。

「ピーちゃん」いくら呼んでも返事はない、


 よっちゃんはずっと、ピーちゃんを手の中で抱いていた。夜になって、お父さんが帰ってきて「ピーちゃんを見せなさい」と言ったけど、ピーちゃんを手から出せなかった。そのあとも、おかあさんが何度も心配して来たけれど。


 夜遅くなって、お父さんと、おかあさんがいっしょに来て、よっちゃんの前に座った。

「よっちゃん、おかあさんも、よっちゃんといっしょだったの」

 ピーちゃんと寝ていたよっちゃんに、おかあさんが、ポツリポツリと話しはじめた。

「前にいたピーちゃんね、おかあさんが死なせてしまったの、ピーちゃんが出ているのを忘れてしまって、天ぷらをしていたの、そしたら、呼んでもいないのに、突然おかあさんの肩に飛んできたの、おかあさんは驚いてしまって、危ないって大声出したら、ピーちゃんも驚いて、止まろうとした肩からすべって油の中に落っこちてしまったの、お腹と、足に大やけどをして、まもなく死んでしまった。おかあさんがいけなかったの、ピーちゃんが出ているのに天ぷらなどしていて」

 おかあさんは泣いていた。

 そうだったのか、いつの頃かいなくなったピーちゃんは、油に落ちて、熱かっただろうな、おかあさんも悲しかったんだろうな。


 よっちゃんは、いつしかおかあさんに抱かれていた。

「よっちゃん、ピーちゃんはお星さまになるのよ、前にいたピーちゃんが死んだとき、おかあさんは、おばあちゃんから聞いた話を思い出して、泣くのを止めたの、お空のお星はみんな亡くなったピーちゃんや、おじいちゃんや、ポチなんだよって。亡くなるとみんなお星さまになるの、きれいなお星さまになって、いつまでもみんなを見守ってくれるんだって。だからピーちゃんはいつだっていっしょにいるんだよって」

 おかあさんが涙をふいて、いつもの明るい顔になって、よっちゃんを抱き起こした。

「あした、みんなでお墓をつくろうね」

「前のピーちゃんといっしょのところがいいだろう」

 お父さんも会社に行く前に、いっしょにお葬式をしてくれると言った。

「ほら、こんなにぐっしょりになっちゃって、ピーちゃん、かわいそう」

おかあさんが、ピーちゃんをよっちゃんの手からとり出して、かわいい小箱に入れてくれた。

「お花も入れてあげようね」


 次の日、前のピーちゃんが眠ってる、大きなケヤキの根元にピーちゃんを埋めた。ピーちゃんは少しも淋しくないんだ。前のピーちゃんといっしょだし、夜にはお星さまになって、ぼくらを見守ってくれる。みんなで手をあわせお祈りをしたら、とっても気が楽になった。

「ピーちゃん、保育園に行って来るね」

よっちゃんは、いつものように元気にあいさつをしていた。

                   おわり

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