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 ……――逃走は、思いの外、簡単に行われた。

 記録に無い――無いという記録すら無い、という記録すら云々――前代未聞の異常気象に、水晶宮(クリスタルパレス)の力は半分以下となり、庇護の大半を失った市民達は、自分自身の選択で以て事態に対処する事を強いられた――受け入れざるを得ないこの現象の中で、彼等が導き出したのは、内に篭り、天の主が正気付く時を待って耐え忍ぶ――これを裁きと受け取るものも居たが、だが多くは自らの潔白を信じていた――事であり、そしてもう一つは、この混乱こそ機会――水面が王冠を被る様な――だと捉え、自力を信じ行動する事であった。

 ルイク・ヴェヌスバーグが乗じたのは、後者だった――浮かび出された乃至は照り出された潜在的暴徒と、身に帯びた役割しか知らない黄衣の男達――その多くが、程度の差こそあれ、銘々酷い焼け爛れを帯びている――そんな彼等の諍い場と化した路上の影を、隅を、浮浪児童達(オタマジャクシ)と共にルイクは駆けずり回り、必要最低限の生活品を――麻痺していた、けれど、落としてしまった訳では無い良心を元手に仕入れて行く。

 それから、日光と刺客とその他諸々が何時我が身に降り掛かるかと怯え続ける幾日を過ごした後に、ルイクは漸く紛いなりにも住処と呼べるものを、己以外の誰からも見放されていた廃墟の内に定める事にしたのだが、驚いた事に、そこには既に先客が居た。


 ――お帰りなさい、兄さん……外は、大変だったわね……


 古くは無い、しかし懐かしき声に、ルイクは目を見開き、回した把手そのままに固まってしまった、けれど、直ぐに苦味だけの笑みを浮かべれば、扉を後ろ手に閉め、


 ――ただいまスティカ……嗚呼、全く……本当に……本当に……


 こうして鳩は再び泳ぎ出す――

 彼は今日に至る数週間を、かつての如く妹と共に暮らして来た。

 奇妙な話だが、ルイクは理解していた――視界の隅、自身の傍らに常に居るスティカ・ヴェヌスバーグの姿が、空想という名の雨滴に寄って、自らの脳裏にのみ灯されている幻影であるという事を。何故彼女がここに居るのかという事を。そして――彼女で無ければならないのかという事を。

 賢明なスティカ――今なら痛い程良く解る。彼女は不思議がっていたのだ、純粋無垢なる想いとして――何故この与えられた境遇を受け入れる事が出来ないのか、と。

 何故? 何故と言って、スティカは、妹は受け入れていたのである。ろくろく外に出られない我が身に対して、それを強いる周囲に、環境に対して、彼女は一言足りとも不平不満を漏らす事無く、限られた人生とそれを取り巻く世界を愉しんでいた――それは最期の時にも変わらず、病に喘ぎながら、彼女はこんな台詞を残して逝ったのである。


 ――嗚呼……これで、漸く私も……雨に触れる事が出来る、って訳、ね……


 そうして浮かぶ死の表情は衰弱した、しかし安らかな、美しい笑みであり、ルイクはこう思ったものだ――彼女の様に生きれたら――そして、彼女の様に死ねたら……

 だが、哀しいかな、彼はまた知っていた。

 それが、何不自由無い檻の中、箱の中で一生を終えたが故の、染み一つ、傷一つ無い綺麗な黒い肌であったが故の、類稀な幸福であり贅沢であるという事を――誰もが望んで成れる存在では無く、また望むべき存在でも在り得ない。

 だからこそ、ソフィエル・ネイトは望む事無く、ただただ行動したのである。

 これもまた、今になって解るのだが、彼女の聡明さは、螺鈿子(モザイク)である境遇から来ていた。殆ど黒子(アルテノ)でありながら、しかしそうは成り切れず、異質さを際立たせる白、聖痕の白に苛まれていたソフィ――スティカも言っていたでは無いか、ミルクを入れた珈琲は別物、と――さらり雑談の種に供された生立が、実際どの様なものだったか、そして最も重要な、彼女の思い、考えが解るだなんて、ルイクには口が避けても言えなかった、けれど、その然りげ無さは、彼をも巻き込んだ聖テル=テリ・ボルスへの活動と熱狂とは相入れず、暗に答えを伺わせる――服の下の肌が、ある種の啓示を示すが如く。

 確かにソフィは聡明だった。その聡明さを行為に移せる女性であり、だからこそルイクは惹き付けられたのだが、同時にそこには性急さもあった――己が生に忙しないが為に、多かれ少なかれ、他人の生まで目が向けられない、そういう性急さだ。

 尤も、そんな視野をソフィに求めるというのも、酷な話かもしれない。何せ、螺鈿子(モザイク)とは黒子(アルテノ)の変種であり、これまで一度足りとも顧みられる事の無かった存在なのだから。彼女がされて来なかった事を、彼女にしろだなんて、何とも都合の良い事である。

 それに、例えその精神が一義的、一面的なものであったとしても、力強さの裏返しであるというのは何も変わらない――何もしないよりかは、余程好ましい事だろう。

 そう――ルイク・ヴェヌスバーグに比べれば、間違いなく素晴らしい行いである。

 一体全体ルイクは何をしたというのか――スティカの様に、世を受け入れる器も無ければ、ソフィの様に立ち向かうだけの力も無かった彼が選んだのは、詰まる所、何も選ばないという事に他ならない。知識も待遇も役割も、与えられれば貰い受け、その状態に甘んじて来た。勿論人間なのだ、己から望んだものも少なからずあったけれど、切っ掛けは内に無く、内に無いからこそ、肝心の時に躊躇する――僕の答え? 一体どの口がそんな事を言えたものやら――そして、その様な優柔不断が招いたのが、大混乱――結果を先延ばしにしただけの大混乱だった。白でも無ければ黒でも無く、勿論その間の存在でも無い、両者が混然と一体になって気の違えた、灰色に染まる曖昧な世界――

 そこでルイクは思い出す――結局は解らずじまいだった、紀元についてのその見解、その神話……愚かである所か、悪しきものでもあった紀元前の人々への裁きとして、恵み深き天の主は雨を降らし給われた。その両の眼から、怒りと哀しみと、ほんの少しの喜びの涙を流す事で……父方の叔父だったか、彼は誕生日を経たばかりの幼い甥へ向かってそう述べると、琥珀色をした生命の水(アクア・ヴィーテ)を瓶から直接飲みながら、人形ずりずり群集へと合流していったものだ。イルヤース都歌を、喜びを込めて叫びつつ……

 当時のルイクは何も言わなかったし、言えなかったけれど、今ならば、紀元前の人々とやらの部分含め、否定する事が出来る――即ち、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()と――降り続けた先か、降り止んだ後か、それは解らないが、何にせよ、雨の後にやって来るもの、それが裁きなのである。そして、その間こそは猶予にして待ち時間ならば、ある意味にて、決定づけられていないという意味に置いて、それは、それ自体が、罪であり、また然りの罰であるのだ――死者には迷惑な事だろう、最早居ない筈の妹に、一人きりで完成を迎えたスティカに頼らなければならない程の孤独と隔絶と、にも関わらずの明白さの欠如を実感として感じながら、昼夜途絶えるという事を知らない嘲笑の声を受けつつ、今のルイクはそう己を省みていた――覚悟、もっとちゃんとした覚悟をしていれば、受け入れられたかも知れない、しかしそうであれば、そもそもこんな道を進んでいなかったかもしれない、だが――なんて、その苦悩すらも模糊なるままに……

 けれど、それももう、お終いである。

 誰かの、もしかしたら何かの到来を告げるノック音は、一向に鳴り止まない――クスクス笑いもまた同じであれば、ルイクは己を掻き抱いていた片手を、そっと離した。そこに伸びる五本の指を力無くと開いていけば、見出せるのは何時かの記憶と殆ど同じ、染み一つ、傷一つ無い綺麗な掌であり――彼はここに来て始めて、過去の行いを悔いる為の溜息を漏らしたが、しかし今更後悔なんてして、何の、誰の役に立つ? そんな後悔こそ今更というものであれば、もう一度吐息出して、ルイクは扉をそっと見据える。

 いいさ全ては成り行き次第だ――これまでも、ならこれだって――彼はそう腕を伸ばし、伸ばした途中で躊躇して、震える拳を握り締めると――それすら弱々しいものだったが――今度こそ、とばかりに把手を掴み、ぐい、と扉を開け放った。

 如何なるものであれ、遂に来た決定的な審判。

 その是非へと、身を任す為に――……

 ――――――――――――――……

 ―――――――――――――……

 ――――――――――――……

 ―――――――――――……

 ――――――――――……

 ―――ァン――――……

 ――――――――……

 ―――――――……

 ――――――……

 ―――――……

 ―――……

 ――……

 ―……

 ……

 …

 ‥

 

●◎○

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