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……――搬送は、思いの外、簡単に行われた。
ルイク・ヴェヌスバーグの裏切りが、信奉者達にとって余りにも予想外の事だった――一体彼等が、何を予想していたのか、甚だ疑問ではあるのだけれど――勿論それは大いに在り得たし、三人に一人の割合で配置された警邏省の者との腕っ節の差も、また少なからず関係しているに違いない――肉体的訓練だけを積み重ねて来た彼等の力加減は、雷に例えられる程なのだから。
けれど一番の影響は、空模様だったに違いない――わざわざ水晶宮を通る事無く、暗く長い道を回って、『雨の後の命名処女地区』が一角へと引き摺り出された人々を待っていたのは、太陽で無く黒雲だったのだ。予報とは似ても似つかないそれは、今しも雨滴を降り注ぎそうな具合であり、黒子達の多くはただ呆然と立ち尽くしてしまい――電流の一撃を以て気絶させられ、抱え上げられては、狭い馬車の中へと押し込まれて行く。いとも容易く、呆気無く――オーソン・ジュマノルだけは幾分抵抗を見せたけれど、見せただけだった。結果は何も変わらず、彼もまたぐったりと放り込まれる。
そして、その何処か牛を思わせる――現代でも過去でも、愚鈍っぷりは余り変わらないを彼は良く知っている――一連の流れを、行列を、彼等にも増して虚ろな瞳でルイクは見詰めていた。
実の所、彼が見ているのは人々で無く、遥か彼方の空、水晶宮の先端より放たれている、濃厚な銀砂の流れであり――これが星霜というものか、と、自身始めて見る活動中の微細機械という奴に、ルイクはぼんやりと、そんな感想を浮かべていた――一体何を勘違いしているのか、熱心に彼を褒め湛えている、統括省の上官の言の葉を聞き流しながら、
――ルイクっ……
と、その時、馴染みの声が向けられば、彼ははっと我に返る――引き戻した視線の先に、今しも連れて行かれようとしているソフィの、恐るべき形相が捉えられ、
――貴方……貴方っ……ルイクっ……離して、このっ……信じてたのにっ……
最後の台詞の意外な苦痛に、そっと目元を大地へと伏せ――けれど、押し当てられようとする電磁棒を制止しつつに再び上げた瞳は、はっきりと彼女の方を向いており、
――ソフィ……許してくれ……僕にはこうするより他なかったんだ……
――一体何を言って……貴方は私を、私達を裏切ったのよルイク……どうして、絶対に、許さない……許してなんか……皆救われて……スティカちゃんだって、きっと……
それは、悪魔じみたニ色の瞳に、涙が、純粋な哀しみによる涙が浮かんだ事で、またしても変わりそうになったけれど、ぐっと堪えて耐え忍べば、ゆっくりと頭を振って、
――ソフィ……それは誤解だ、僕は君達を裏切っていない……ただ僕には出来なかったんだよ……君達の為に、他の全てを裏切る事は……それに、……
――そんな、事……それに……それに、何、よ……何なのよルイク……
――それに……スティカの事も誤解している。妹はただ流行病で亡くなったんだ……健常と呼ばれる者達と共に、数百人に渡る犠牲者の一人として……雨が降ろうが光が差そうが、関係無く、彼女は救われなかったし……それも望んでいなかったし……
それから天を仰ぎ、何かに目を細め、黒眼鏡を取り出した、その瞬間、
――だから、ソフィ……君も妹も関係無い、これは僕の答えなんだよ……
分厚い雲がいきなり裂け、強烈な日光が、傍観していた上官の元へ注ぎ込まれた。
鼓膜を破る様な絶叫が、ルイクの耳元で上がり、彼は眉間に皺を寄せる――絶対の予報を変える事で、管理方法とその陰謀を証明したのだ。その上、屋内から来たならば、日除けなんてしている筈が無い――頭巾を目深に被りつつ、彼は彼をそう見下ろした。
冷静さは、予め知っているからこそのものだったが、勿論周囲はそうは行かない。余りにも唐突な、余りにも限定的な天候の変化に誰もが牛の如く我を失ってしまい――だからこそ、次に起こった変化に対応出来たのは、たった一人の例外だけであった。
丁度信奉者達の行列が居る真上に、今度は大粒の雨が降り始めたのである――まるで彼等を狙い澄まして――テル=テリ・ボルスの格好には何の加護もありはせず、そして彼等もまた予報を信じていたならば、他にどんな雨除けがあるものか――先にも増して盛大な絶叫が上がり、肉の焼ける匂いが立ち込み出せば、何者も恐れない黄の男達も、色めきざるを得なかった訳だが、当然の様に、気の違った空は彼等もまた見逃さない。
銀の発光――それを合図に、雲はより神経質に形を変えて行く――縦に横に、と、岩の如く亀裂が走れば、その隙間から溢れる光は、正に太陽の矢であり槍であり剣であり――指揮者が防げなかったものを、どうしてその部下が防げるだろう? 当然予期等出来る筈も無く、する暇も無く、季節外れのテル=テリ・ボルス祭りに相応しい、男達の野太い悲鳴が、合唱の如くに響き渡る。
秩序だった取り組めを以て、雨滴と陽光が同じ時刻に降り注ぐ――平等に、公正に、誰の、彼の、区別無く――イルヤースに生きる人間がこれまで体験した事の無い天気、何と呼んでいいのかも解らない天候は、刻一刻と、その勢いと範囲を狂わせる。
最早空は継ぎ接ぎ状であり、一面を構成する部分なんて、まるで別の日の装いだった――青空がちらと覗いている、その隣は素知らぬままに固まった灰雲であり、更に隣は降り頻る小雨、大雨、豪雨に暴雨、と続くに見せ掛け、在り得ない程の晴れ渡りが、合間合間に穿たれ光柱を成し、更にその隙間を縫う様にして、雨天の変調、雪やら雹やら雷やら砂埃やら犬猫やらが――気流の関係か、冗談に聞こるかも知れないが、しかし最後も真実で、空に居る間は兎も角として、大地にぶつかり、四肢と鱗とその中身を盛大にぶちまける姿は、笑いたくとも笑えない――普通の時でも殆ど現れない鬱憤を解消する様に暴れている。加えて、古代寄りの遊戯、市松盤にも似た天の模様は、耐えず変動を続けており、そんな出鱈目具合はとても予想出来るものでは無く、逃げ様にもどう逃げたらいいか、まるで理解出来ない始末であり――
そして気が付けば、『雨の後の命名処女』地区どころでは無い、都市全体に阿鼻叫喚が反響していた――憂鬱な晴の日が突然終わり、健やかな雲が姿を見せた、その数瞬に惹かれて外へ飛び出した者達と、何日ぶりかの日光を浴びようと外出したは良いものの、突如姿を見せ始めた何時も通りの雲に機嫌を損ねて帰ろうとしていた、聖域に至っていない極少ない黒子――どちらも全く油断をしていた所に、未曽有の天候が襲い掛かったのである。
逃れられた者は殆ど居なかった――屋根の下に入る、たったそれだけの単純な方法で防ぐ事は出来るのに、そもそも屋根の下まで到達出来ないのだ。例え自分の今居る場所が安全な所でも、瞬きしている間に変わってしまう。一歩、二歩と踏み出した先も同じ状況なら、既にして身を晒していた者が、再び身を潜める事はまず出来ない――無事な者とは、大半がそもそも危機に瀕していない者、外出していない者であり、彼等が不安げに体を抱き締め抱き合い、助けに駆け付けたい衝動を必死に抑えて、窓より見守るしか無い中――とは言え、それでも、巻き込まれる可能性はあった、何が降って来るか解らないのだから――助かった殆どは、幸運な事に、外に出ようとしていた、或いは出ても間も無かった所であり、先にも述べた様に例外はと言えば、事態に反応する事の出来た人物、即ち、この現象を引き起こした張本人であるルイクと、彼が馬車の中に押し込めたソフィ位で、
――ルイク……あ、貴方は……貴方は、一体、何をしたの……
聖なる牛の群れが呻き呻き、身動ぎしている傍ら、彼女は震える声で問い掛ける――のた打ち回っている者へと追い討ちを掛けるべく、一切の躊躇を見せない天の様子をひしと見守りつつ、向けられたその言の葉の中には、驚愕と悲哀、そして確かな非難の念が篭っており――締め付けられる胸元を気取られぬ様に抑えながら、日除け頭巾のその下で、ルイクは務めて淡々とした表情と言の葉を繕い、ただ真相のみを告げる……
――僕がノアを統べる技に気付いた時、真っ先に行ったのは、上司への報告だったよソフィ……理由は言った通り……僕は役人でもあるんだから……
――言い訳だね、ごめん……でも、そんな風に僕は全部を伝えた……文字通りの全部を……そしたら何と返って来たと思う、ソフィ? 彼は僕にこう言ったんだ……
――封印を解く時が遂に来たか、と……
――おかしいと思ったんだ……もし水晶宮がイルヤースの何もかもを……ノア含めて、何もかも支配しているのだとしたら、何故晴れなんかが存在するのか……いいや、雨だって、全部が全部、本意である訳が無い……だったら、屋根も傘も外套も、その他諸々、必要ある訳が無く……雨の所為で、誰かが死んだりする事も無い……
――そのまさかさ……彼等も同じだったんだ……同じだったんだ、ソフィ……
――上の連中は、それが何かを知っていた、けれど、どうすれば良いかは解らなかった……君達と変わらず、けれど決定的に違ったのは、状況がそれ程悪いものでも無いというただ一点で……だから彼等は封じていたんだ……少なからず、今よりかは悪い状態にならない様、誰も彼も触れぬ様、その存在自体を隠して来た……
――けれど、もう隠す必要は無くなった……僕がそうと伝えたんだから……
――僕は君達の行為を認めてあげられない……そのつもりも無いんだろうけど、さ……それは結局、白を黒と変えるだけの事だから……でも、だからと言って、君達が虐げられて良いだなんて勿論思っていない……これもまた本当さ……
――だからソフィ、僕はこうノアに設定した……懇願したんだ……どちらでも無い様に、ってね……雨でも無ければ晴でも無い、一切合切、滅茶苦茶な模様に、天候を固定してくれるよう、そう祈りを捧げたのさ……皆が救われる、そんな事が昔見たく期待出来ないんだったら……皆が救われなければいい、と……
――うん……正直やりすぎだと僕も思うよ……でも、これ位やれば、子供だって解る筈だし……僕が手を加えられた以上、永遠である筈も無いし……
――判断は……どうすれば良かったのかは……君が決めてくれ、ソフィ……
そして、そこがルイクの限界だった。
愛する者――今この瞬間に至って尚も、想いは変わらず、胸の奥がきりきりと軋む――その名を以て語りを締め括ると、彼は馬車の外へと飛び出した――自身が齎した空模様、一歩歩む毎に降り注がせるものを尽く変える天の下へ――古びた石畳の、薄汚い染みと化している白と黄の外套、焼け爛れ燻っているニ色の肌の間を通り抜けながら、前、ただ前を目指して、ルイクは只管駆け続ける――背中越しに叫ばれる己が名前に、そこに篭った困惑の響きに、しかし一度も振り返る事無く、一心不乱と突き進んで……
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