08 白猫
ギルドホールの簡単な掃除と戸締りを終えて、ギルド長のレオンおじいさんを家まで送り届けた後、僕は帰路に着いていた。
現在は、春。
仕事を終える時間を迎えても、まだ日はそれなりに高い。
ハーレルアは、迷宮都市という冠を抱くことからもわかる通り、何事にも迷宮が中心となる街だ。迷宮内部には太陽の光が届かないため、昼夜の区別はそれ程関係ない。そのため、迷宮に挑む冒険者や奴隷はあまり時間を選ばなかった。
彼らをターゲットにした商売等は、夜でも活発に行われていたりする。
まあ、夜更けの暗さは犯罪に打ってつけであるから、そうした特徴が、ハーレルアの治安の悪さに一役買っている側面もあるのだけど――。
最初の頃は、僕も夜遅く色々と『冒険』してみたものだ。
その結果、十中八九、トラブルに見舞われた。
特に貧民街とも云うべき下層域は危険で、見た目は美少女にしか見えない僕がうろうろしていると、不貞の輩が次々と忍び寄って来たものだ。
もちろん、僕はハーレルアで暮らし始めてから程なくして、公衆衛生の革命児となった。その過程で、僕は良くも悪くも街中に知られる存在となったし、〈白剣姫〉シオス・アーゲラの寵愛を受けていること、本当は美少女ではなくて美少年であること――それらも周知の事実となった。
だから、現状、僕に魔手が伸ばされることはほとんどない。
ハーレルアの住人――少なくとも、それなりの期間を街で暮らした者は、噂に聞くなり何なりして、シオス・アーゲラの奴隷である黒のマリアを見知っているからだ。
だが、残念なことに、迷宮に挑もうとする新人は日々沢山やって来る。
そうした人達が、ハーレルアの常識を十分に理解する前に、「おや、あのチョーカーは奴隷の証だ」「それならば、大した文句も云えない」「見ろよ、綺麗な顔をしてやがる」「ああ、超可愛い」「超可愛い」と、僕に絡んで来てしまうわけだ。
うん。
僕って、罪作り。
自他共に求める可愛さよ。
いや、そうではなくて――。
無用なトラブルなんて、回避できるに越したことは無い。
危機に陥ったならば、御主人様はいつでも助けに来てくれるけれど、その度に血の雨が降るのは勘弁だ。なんだか、僕がハーレルアの治安の悪さに拍車を掛けているようで、さすがに気分の良いものではなかった。
今は、夕方になればまっすぐ家に帰るようにしている。
いつもの大階段。
僕の歩みは自然と、スキップするように弾んだものとなる。
しかし、トラブルは意図的に避けていたとしても、それ自体からやって来ることもある。注意を払って、常日頃から用心していたとしても、交通事故のように現れるのだ。
それは例えば、僕がこの異世界に迷い込んでしまった時のように――。
「ニャー」
いつもの白猫。
僕は、大階段の途中で足を止めた。屋敷の行き帰りに、その白猫は待ち構えているように姿を見せる。今朝は物騒な冗談で怖がらしてしまったけれど、どうやら機嫌を直してくれたみたいだ。
まあ、猫が言葉を理解するはずもない。
モンスターという異形の存在する異世界だけど、それ以外は基本的、同じである。犬も猫も、二足歩行するようなこともなければ、人語を解するようなこともない。
そう、そのはずだったのだけど――。
「時は熟した」
「……ん?」
ひとしきり、もふもふと撫で回して、「それじゃあ、また明日」と別れを告げて立ち去ろうとした。白猫に背を向けたその瞬間である。涼やかな少女の声が響いた。
「我は、契約者を求める」
「……んん?」
僕は振り返った。
「汝、契約者たる素質を持つ者として、我は認める」
……いや、まあ。
なんとなく。
迷宮都市ハーレルアの人々、正確に云うならば、この世界の人々と比べて、映画でも漫画でも、あるいは小説でも、何にしろフィクションの物語というものに慣れている僕は、こう来れば、次はこうだろうと――勝手な推測をしてしまうことが多い。
馬鹿馬鹿しいけれど、そんな予想は良く当たる。
今も、ビンゴ。
「……猫が、喋ってる?」
白猫。野良の癖に、妙に毛並みの良い猫。
ここ一ヶ月ぐらい、いつも狙ったように現れていた。
それと意識してみれば、確かに不思議かも知れない。
だが、僕は、この猫がまさか流暢に言葉を操るファンタジックな存在であるなどと、そんな馬鹿げた可能性を考えてみるような性格をしていなかった。
「なんだ、お前……?」
今さら、摩訶不思議な出来事に巻き込まれるなんて――。
僕は驚きながら、勘弁してほしいと思っていた。
「さあ、我と契約を……」
僕は、ぼんやりと考える。
馬鹿らしい。心底、馬鹿らしいけれど。
なんだか、まるで、壮大な物語の始まりのようではないか。
「汝、迷宮の王となる者。我と契約し、無限の力の継承者となれ」