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01 風呂

 沈んでいく太陽を眺めながら、僕は吐息を漏らしていた。


 オレンジ色の日差しに染まる湯船は広々として、一人で使うには贅沢だ。滑らかな石材で大工事を施した時の苦労を思い出しながら、僕はさらに深く、湯の中に身体を沈み込ませた。


 露天風呂である。

 高台のため、周囲に建物はない。


 覗かれる心配もないのは安心である(いや、僕は別に見られてもいいのだけど……そうではなくて、御主人様が入っている時などの心配である。念のため)。


 身を乗り出せば、ダンジョンを中心としたハーレルアの街並みが一望にできる。


 そろそろ篝火が焚かれる時間だ。迷宮の入口となる荒れ果てた古代遺跡――崩れかけた城門のようなその周囲は、夜でも灯りが絶やされることはない。モンスターが入口から抜け出して来ることは滅多にないけれど、油断した時こそ、そうした事故は起きてしまう。


 冒険者や奴隷にとっては、迷宮入口の近辺は利便性も高く、雑多な店が軒を連ねる。その辺りに住居の類は見当たらない。一応、安宿はあるのだけど、野宿している者の方が多いぐらいだ。


 ハーレルアの街は、すり鉢状の地形に作られている。


 底に当たるのが迷宮であり、下層は貧民街だ。

 中層が一番分厚く、一般的な市民の暮らす場所になっている。

 シオス・アーゲラの屋敷は上層部。すなわち、富裕階層に位置していた。


 迷宮都市ハーレルア。

 冒険者と奴隷による、無法と混沌の渦巻く街。


 住み心地が良い場所ではないけれど、上層部は治安もまだマシだ。貴族や豪商が大手を振っている場所だから、それはそれで、神経をすり減らすような苦労はあるけれど、強盗に怯えず、ぐっすりと眠れるのはやっぱり素晴らしい。


 そうそう、素晴らしいと云えば――。


「わあ。さすがに、のぼせる……」


 長く浸かり過ぎた。夜風が吹き始めている。

 僕は風呂の縁に座って、ほわほわと温まった身体を冷ます。


「毎日、温泉に入れるのは良いことだね」


 ハーレルア、唯一の美点。


 至る所で、湯が湧いていること。


 この地方は自然の湧出水に恵まれているのだ。そのため、まず生活用水に事欠ないで済む。そして、そうした豊富な水資源は、ここ最近、公共浴場にも活用されるようになっていた。


 何を隠そう――シオス・アーゲラの屋敷を手本として、富裕層の間では、自宅に湯を引き込むことが流行になりつつある。そうした時、僕はアドバイスを求められて、奴隷でありながら丁重にもてなされたりするのだ。


 そう。僕こそ、ハーレルアの入浴ブームの火付け役。


 別段、富や名声を欲して、あれこれ頑張ったわけではないけれど。


 本音を云えば、御主人様の湯に濡れている姿が見たく――。


 ああ。違う違う。

 本音すぎた。


 真面目に語ろうか。


 迷宮都市ハーレルアで暮らし始めた一年程前、僕はカルチャーショックで寝込みそうになった。実際、感染症の類で死にかけたことも幾度かある。もちろん、僕の知る現代社会と比べれば、この異世界は明らかに文明レベルで劣る。それだから、豊かで便利な生活なんて、最初から期待もしていなかったのだけど――。


 しかし、それにしても酷かった。

 端的に云えば、汚い。


 困ったことに、僕と迷宮都市の人々の間では、公衆衛生の概念が根本から異なっていた。


 ちょっと余談であるけれど、例えば、中世から近世・近代までのヨーロッパの都市部に放り込まれたならば、現代人はとても耐えられないはずだ。数週間に一回、足を洗うぐらいが普通で、体臭は香水などで誤魔化す。そもそも湯に浸かるという行為が、病の元と信じられていた。ゴミや動物の死骸が道端に捨てられて、汚水がそのまま飲み水にも使われる河に捨てられる。


 ハーレルアの文明は、大体、その頃のヨーロッパのそれに近しい(僕の乏しい知識を元にした推測なので、大いに間違っている可能性はあるけれど……)。


 だからと云って、公衆衛生の概念まで倣わないで欲しかった。


 それだから、僕は立ち上がるしかなかったのだ。


 入浴の文化を生み出したことなど、僕が繰り広げた戦いの一端に過ぎない。上下水道の整備や行政による清掃の徹底、害獣・害虫の駆除など――語り始めると、涙なしには終えられない物語になってしまう。うがい・手洗いの習慣を根付かせるだけで、どれだけ苦労したか……まあ、いいさ。それは別の機会、別の場所で話すべき物語である。


 何はともあれ。


 結局、やはり――。


 僕の幸運は、御主人様に依るところが大きかった。


 僕の為そうとしたことは、都市ひとつの在り方を変革させるに等しく、奴隷の野望としては、あまりに大それたものと云えた。そもそも最初から本気でそんな変化を求めたわけではない。価値観の違う世界、勝手の異なる文化――その不便や不満の数々を愚痴として零したことが、全ての始まりだった。


 ああすれば、こうすれば……。


 もっと、住みやすくなるのに……。


『なるほど』


 御主人様は、僕の話にあっさりとうなずいた。


 そして、微笑みながらこう云ったのだ。


『面白い。好きにやってみろ』


 シオス・アーゲラは、迷宮都市で最強の剣士。


 ダンジョンを中心として全てが回っているこの街では、強さと云うものは、何よりも圧倒的な敬意に結び付く。それこそ、都市を治める代官よりも、御主人様の方が影響力を持っていたりする。


 資金に資材、人材、人望――奴隷の僕にはどう足掻いても手に入れられないものが、御主人様の後押しがあれば、するすると面白いように集ってしまった。


 それだから、一年――。


 たった一年で、ハーレルアは様変わりした。


 その功績を讃えられて、僕は奇跡の天才だとか、神の遣わした天使だとか、御大層な名前で呼ばれることもあるのだけど――何てことはないさ。素晴らしいのは、ただ単に異なる世界の知識を持っていただけの僕ではなく、それらの価値を見抜き、出会って間もない奴隷を全面的にバックアップしてくれた御主人様に他ならない。


 その慧眼も――。

 その慈愛も――。


 僕は、愛してやまない。


 ああ。そうだ。


 一度だけ、前任の代官と衝突したこともあった。


 新しい何かを生み出すためには、古いものを壊さなければいけない時もある。僕があれこれと性急に推し進めて行く中で、気づかない内に、代官が金蔓としていたシステムを叩き壊してしまったということがあったのだ。


 僕は奴隷であるから、御主人様の名前で特許(この世界における呼び名は違うものだけど)を申請したり、信用のおける人々に新しい形態の商売を始めさせたり、資産を増やすことについては目立たないように配慮していたのだけど、さすがにやり過ぎた所もあったのだろう。


 奴隷の僕に、抗弁する権利はない。

 貴族身分の代官を相手に抵抗は許されなかった。


 殴られて、蹴られて、脅されて――。

 死の恐怖すら、じわりと感じて――。


『マリア』


 突然、代官は豚のような悲鳴を上げた。


 血飛沫の散る中、僕は瞳を輝かせたものだ。


 迷宮から帰還したばかりの御主人様は、純白の長髪をべったりと血で汚していた。鉄製の鎧も革のマントも、おぞましく穢れていた。凄まじい戦いをして来たことは一目瞭然である。


 実際、その肩には巨大なミノタウルスの首が担がれていた。


 英雄として、それだけで一生を讃えられるような戦果――。


 しかし、御主人様は、その首をまるで無価値なもののように投げ捨てた。


 細剣レイピアを抜き放ち、二刀を堂々と構えた。


『聞け』


 短刀の一撃で片腕を斬り飛ばされ、無様に泣き叫ぶ代官だけでなく、その数十人の私兵、あるいは、僕に降り掛かった災難をぐるりと遠巻きに囲んで眺めていた群衆の全てに――。


 シオス・アーゲラは告げた。


『私の愛する子を侮辱し、傷つけることは、私自身にそれを為すことに等しいと思え。この私は、迷宮の理に従い、人の理に従わない。白剣姫に泥をかけて、刃を向けるならば――死を受け入れたと、そういうことだな?』


 返答は、必要なく――。


 代官を含めて、その兵士、全てが壮絶な勢いで斬り殺された。


 もちろん。御主人様の方は、傷ひとつ受けることなく――。


 それなのに、痛みでも感じるように泣きながら、僕を抱きしめてくれたものだ。


「……さすがに、のぼせるね」


 乱れ落ちた黒髪を、僕は湯に浸らないように再び結い上げる。


 そして、口元まで沈んだ。


 湯の熱量は十分。


 それなのに。ぞくり、と。


 御主人様を想うだけで、僕の身体は震える。

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