09 供物
畜生。ああ、畜生。
思わず、汚い言葉で罵りたくなる。
少しばかり駆けただけで、息切れを起こしていた。子供の頃からインドア派で、運動するのが好きではなかった。今も、そんな性格はあまり変わらず、身体を動かしているよりも、思索に耽っている方が楽しい。だが、怠けていると、やはりいざと云う時に困るものだ。
「やっぱり、僕、ダメだな……」
黒のシックなワンピースの下に、嫌な感じの汗。
僕は、それをとても不快に思っていた。
先程の話のようだ。とにかく気持ち悪いと感じる。
重い足と――重い腕を、最後の一息とばかりに持ち上げた。
「ああ、まったく……」
どうして、僕がこんな苦労をしなければいけないのか。
「畜生。でも……」
何のために頑張るかと云えば、全ては御主人様のためだ。
大階段と坂道を全力で走り――。
疲れてふらふらの状態、汗だくで――。
非常にみっともない姿ながら、僕はどうにか笑みを浮かべる。
斜陽に染まる風景。奇しくも、御主人様は屋敷の庭にいた。木造りの模造刀を構えて、何やら技を試しているらしい。迷宮に潜ることが仕事と云っても間違いではない御主人様だから、自身を鍛えることには努力を惜しまない。
迷宮都市ハーレルア、最強の剣士。
その肩書きは、天賦の才もあるだろうけれど、毎日の凄まじい努力にも裏打ちされていた。僕はその姿を見届けているからこそ、ますます御主人様を素晴らしいと思うのだ。
薄手のシャツに革のズボン。
飾らない服装だけど、御主人様は凛々しく美しい。
この瞬間、御主人様は一人だけである。金銀の少女、シャロンとルーシーは屋敷の中にいるのだろう。この時間ならば、夕食の準備で忙しいに違いない。御主人様は黙々と剣を振っていた。舞い踊るような動きに、思わず、僕は見惚れそうになる。
「御主人様!」
シオス・アーゲラは、街の住人の多くから恐れられている。御主人様は一人きりの時、無表情か、少しばかり眉をひそめるような顔のどちらかがデフォルトだから。いつも怒っているように勘違いされてしまう。
しかし、僕ら三人の奴隷と一緒に居る時など、温和な笑みを見せてくれることが多く、特に可愛いものを愛でる時は、幼い少女のように無邪気な笑みを浮かべる。凛と澄ましている御主人様も好きだけど、そんな風に隙だらけの御主人様もまた良いものである。
だから、僕はプレゼントするのだ。
その笑顔が見たくて――。
僕自身、きらきらと笑顔を向けながら――。
「御主人様! 御主人様! ねえ、見てください」
振り返って、小首を傾げる御主人様。
僕は、両腕に抑え込んでいたそれを高々と掲げた。
「喋る猫! 喋る猫ですよ! 喋る猫、捕まえました!」
「ニャ! ニャッ! ニャアァー!」
御主人様に見せたい一心で、ここまで全力で走ってしまった。
さながら、親に百点満点の答案用紙でも見せようとする子供のようだ。
そう云えば、道中、「わ、我は、封印を司る者……こ、こんな無礼を、するなどと――あ、やめてニャ。ぶらぶらすると酔うニャ」などと、なんだか色々と文句を云われていた気もするけれど、まあ、大したことではない。
御主人様の方が大事である。




