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00 御主人様

 突然ですが、御主人様は女の子が好きです。


 引いては、かわいいものが好きです。


 だから、僕は愛されています。




 なぜならば、僕は世界で一番かわいいから。




 ――なんてね。




 道端の野良猫を撫でながら、僕は今にも泣き出しそうな空模様を眺めていた。


 もうすぐ、春の嵐がやって来る。吹き上げる風には冬の厳しさが残っているけれど、嵐の訪れと共にこの街の季節は一気に温かくなるだろう。今はまだ、屈み込んだ僕の膝にちょこんと乗っかる白猫がカイロ代わりにちょうどいい。


「お前、さては飼い猫崩れか?」


 猫には首輪がない。

 僕には首輪がある。


「どうだ、うらやましいか?」


「ニャー」


「うんうん。僕に似合っているね」


 道草を食っている内に、ぽつぽつと雨が降り出してしまった。


 猫を地面に降ろして、僕は立ち上がる。


 嵐の前触れを思わせる強い風に吹かれて、灰色の雲の流れがかなり速い。僕は思わず腕組みしていた。この土地の気候は、僕の故郷のそれとよく似ている。春夏秋冬の移ろいとその風情。ただし、何から何まで同じというわけではなく、まったく異なる部分も沢山あって、春先に台風が多いというのもそのひとつだ。


 ここは、迷宮都市ハーレルア。


 あるいは、もっとわかりやすく、異世界と云うべきかも知れない。


 僕は、現代の日本生まれ。


 原因不明の〈転移〉に巻き込まれ、こちらの世界にやって来てから一年以上が経っていた。


「さて、どうなるか?」


 迷宮都市という異名を持つ、ここ、ハーレルア。


 中央大陸における覇権国家に属し、正確に云うならば、その地方都市のひとつに過ぎない。かなりの辺境であり、政治の中枢からは離れている。身も蓋もなく云えば、ド田舎。王都の偉い人たちからは存在を無視されているような土地なのだけど、ある理由から、ハーレルアはそこそこ栄えた都市となっている。


 人口規模は、一万に足りないぐらいだろうか。


 戸籍のような上等なものは存在しないため、正確な数字はわからない。


 だが、街をぐるりと取り囲む巨大な市壁を見渡せば、ハーレルアがモンスターの襲撃に日々怯える寒村なんかには比べ物にならない規模であることが一目瞭然だろう。大通りを行き交う行商人の多さ、眠らない夜の繁華街の賑わいは、規模こそ小さいかも知れないが、中枢都市にも負けない活気を誇っている。


 僕は街の様子を確認しながら、思わずため息を吐いた。


 今さらだけど、僕が心配するようなことではないのかも知れない。


 だが、引き受けてしまった以上は責任があると思うのだ。


 雨が徐々に、強さを増していく。

 掌を曇天に向けながら、僕はそれを確認してみた。


 このまま今夜にでも、春の嵐が到来するかも知れない。


 そうなった時、例年のようにこの都市は大きな水害に見舞われるだろうか。


 僕は不意に気付く。


 周囲を行き交う人々の視線がすべて、僕の方に向けられていることに――。


 やれやれ。


「ああ、うん。そうだね……」


 何気ない風を装いながら、独り言。


「大丈夫だろう。うん、大丈夫。これならきっと嵐も乗り切れる」


 堂々と、自信満々な表情でうなずいてやった。


 それだけのことで、大勢の表情がホッとしたように晴れるのを見た。


 まったく。


 ああ、やれやれだよ。


 過剰な期待感で、肩が凝ってしまいそうだ。


 ハーレルアは構造上、大昔から水害に悩まされて来た街だったらしい。特に、春の嵐で受ける被害は毎年甚大で、かなりの死傷者が出てしまっていた。そんな話を数ヶ月前に聞かされた僕は、一応自主的に、その実、なかば強制的に、ハーレルアの下水道や排水道の整備に乗り出すことになった。


 ひどい話ではないか。


 わずか、十七歳。


 僕は、まだ子供である――まあ、こちらの世界では十五歳で成人と認められるけれど。


 何はともあれ、まだまだ何の責任も取れないような若者に、一万を超える人命に関わるような事業を任せると云うのだから。


 再びのため息。


 僕は、考えることをやめた。


 やれるべきことはやったつもりである。それなのに、さらに何か打つべき手があるのではないかと考えてしまうのは悪い癖かも知れない。人事を尽くして天命を待つ。後はもう、結果を待つだけで良いはずだろう。僕はなんとか、自分自身をそんな風に納得させる。


 僕は自信家ではない。


 そもそも、自分に大した能力があるとも思っていない。


「さあ、帰ろう」


 野良猫にバイバイと手を振って、僕は雨の中を駆け出した。


 雨風を避けるように、頭の上に手をかざす。まるで顔を隠すような仕草の僕に対しても、無遠慮な視線はどこに行っても付きまとって来る。


 本当に、有名になってしまったものだ。


 そうなりなくて、そうなったわけではないのに――。


 ああ。

 そうだ。


 云い忘れていた。


 僕がやっている仕事は、ハーレルアにおける水害対策の責任者だけではない。内政に関しては、とりわけ多岐の業務に関わっていた。詳細は割愛するけれど、おそらく代官(早い話が地方都市のトップ)と同等にして同量の仕事をやっていると、堂々と胸を張れるぐらいだ。


 さて。


 それでは、そんな僕は何者か。


 そうである。自己紹介がまだだった。


「わお。しかし、雨が酷くなってきたね」


 歓声のような悲鳴を上げて、僕は足を速める。


 同じように雨に降られて急ぎ足の人々や通りに並べていた品物を取り込む商人。人混みを抜ける最中も、僕に向けて人々は振り返る。時には、声まで掛けられた。僕はもちろん、愛想笑いを浮かべて手を振ってやる。


 媚を売るようなもの。


 そうしなければいけないのは、僕の身分のせいだ。

 都市の住人の多くが、僕よりも格上である。


 僕は、首に巻いた黒のチョーカーを指で撫でた。

 それは、奴隷の証。


 与えられた名前は〈黒〉のマリア。


 そう。僕は、奴隷である。






 最低最悪の身分、何の権利も保障も持たない奴隷。


 人間でありながら、物のように扱われる。

 誰かの所有物として、そのようにしか存在を認められない。


 現代の日本に生まれ育った僕には、当然ながら馴染みの薄いものである。しかし、冷静に考えてみれば、人間が共同体を形成するようになってから数千年の間、奴隷制は形を様々に変えながら存在していたわけだ。平等が美徳として謳われるようになり、そう在るべきことが常識になったのなんて近代に入ってからではないだろうか。そう思えば、文明レベルの明らかに劣るこの異世界で、まだまだ奴隷の存在が当たり前であることは驚くようなものではなかった。


 何はともあれ――。


 右も左も分からない異世界に迷い込んだ僕が、奴隷に堕ちるまで大した時間は掛からなかった。


 奴隷となった僕は、こちらの社会のルールに則り、誰かに買われることになった。


 それだから、現在、僕は奴隷としてハーレルアの中で一等地にある屋敷に仕えている。見晴らしも良い高台で、風の爽やかな立地はとても好ましい。ただし、ギルドや市場と行き来するために大階段を昇り降りしなければいけなかった。


 ちなみに、僕は一週間の半分ぐらい、ハーレルアの中層にあるギルドホールで受付嬢のアルバイトをしている。主の命令で働かされるのは奴隷の常だけど、僕の場合は完全な趣味の領域だ。一日働いた後とは云え、疲れはほとんどなく、屋敷に戻ったら戻ったで、料理や掃除に精を出そうかと思っていたのだけど――。


 雨の中、全力で走ったのが間違い。


 屋敷がある上層まで続く大階段の途中、僕はゼイゼイと息を切らしていた。


 自慢ではないが、僕はそんなに体力がある方ではないのだ。


 うん。本当に自慢ではない。


 見た目からして、非常に華奢である。手足は細く、胸板は薄い。日焼けをまったくしていない白い肌。確かに、それらの外見的特徴は運動を怠っている証拠とも云える。だが、一方で見方を変えたならば、それなりに評価できる要素でもあるだろう。


 無駄な肉のない、滑らかな肢体。艶のある陶器のような肌――。


「さて、しかし、このままでは本当に風邪を引くね」


 仕方ない。


 僕は、雨宿りを選択する。


「お邪魔しまーす」


 のんびりと挨拶しながら、手近な所にあった酒場に飛び込んだ。


 夜ではないから、大丈夫と思ったのだけど――。


 残念。


 ここはやっぱり、迷宮都市ハーレルア。


 別名、冒険者と無法の街。


 冒険者と云えば聞こえは良いけれど、その実、ただ単に社会に適合できない者とも云える。遊び人、ごく潰し、チンピラ――そのような者達のなれの果てという意味合いすらあるのだ。


 ハーレルアは元々、社会不適合者である冒険者が寄り集まって誕生した。


 冒険者がぞろぞろと集まって来たその理由ならば、明明白白で――。


 迷宮都市という冠の由来でもある、不思議なダンジョン。


 ハーレルアの迷宮ダンジョンと云えば、この王国中だけでなく、遥か遠方の竜頭大陸や竜爪大陸の国家にも通じるらしい。ハーレルアの中心に入口が存在するそのダンジョンは、地下深く、何処までも続いている。凶悪なモンスターが跋扈する代わりに、一攫千金の宝も山のように眠っているため、死のリスクを恐れずに挑み続ける無法者が後を絶たなかった。


 正直、街の治安は良くない。


「わあ……」


 治安が良くないとはいえ、昼間から酒場に屯している連中なんて最悪だろう。


 僕は驚きの声を上げた後、注目されないように身を縮めた。


「おい、マリア」


 店の入口で所在を失くしていた僕を、酒場のマスターが呼びつける。


「なんの騒ぎですか、これ……」


 僕は、こそこそと酒場のカウンターの陰に赴いた。


「今日、この街に着いたばっかりの新人・・さんだよ」


 禿頭で強面のマスターは顔なじみである。


 そのまま気安く会話を続ける。


「どこぞの田舎者だけど、馬鹿騒ぎの仕方だけは立派なもんだ」


 酒場の賑わう時間は、当然ながら夜からだ。それなりに広い店内は、やはりまだガランとして寂しい。そんな中、四人の若者がジョッキで麦酒を乾杯しながら、若気の至りも極まったような会話に興じていた。


 ミノタウルスを倒してやるぜ!


 ――なんて。


 わお。恥ずかしい。

 僕だったら、口が裂けても云えないや。


「地下三階のゴブリン相手に泣き出すに、一〇〇ルラン」


「僕は、地下二階のワームに賭けますね」


「おいおい、マリア」


 店のマスターは、げらげらと笑った。


「相変わらず、可愛い顔して酷いな」


「僕、これでもギルドの受付嬢ですからね」


 実績のある冒険者と間近に接しているから、実力や素質はそれなりに見抜ける。


「というか、マスター。笑いすぎ……」


 窘めた時には遅かった。


 四人の若者――荒くれ者の成り立てみたいな奴らが、笑い声に反応して振り返る。マスターの禿頭に大注目でもしてくれると良いのだけど……ああ、残念。


 やっぱり、お決まり。


 視線が集中するのは、この僕である。


 僕。黒のマリア。


 迷宮都市ハーレルアを抱えるこの国では、非常に珍しい黒髪と黒目の持ち主。


 御主人様の意向もあって、衣服も黒で統一することが多い。それはそれで、可愛らしくまとめるのは一苦労だったりする。年齢よりもさらに若く見られる顔付きや体格、腰元まで届く艶のある黒髪、大きな丸い瞳、赤い唇――造形美を極めたような人形のような、そんな端正な容姿を持つ僕だから、御主人様の要望にもばっちり応えているけれど。


 過去の知識や経験も活かし、ゴスロリ調にまとめることが多い。


 今も、そんな感じ。リボンで飾った白のブラウスに、フリルの付いた黒スカート。これならば、奴隷の証であるチョーカーすらも、ちょっと洒落た風に見えるのだ。


 云っておくけれど――僕、超可愛い。


 僕、超可愛い。


 大事なことなのです。大事なことなのです。


 毎朝、着替えのため、鏡に自分を映して興奮するレベル。


 いや、嘘。それはちょっと、我ながら変態すぎる。


 とはいえ……。


 まあ、可愛いのは嘘ではない。


 昨年のハーレルア美少女コンテストでも、ダントツのトップだった。自他共に認める可愛さと云うことがわかってもらえるはずだ。


「う、おお、お……」


 荒くれの四人も、僕を見止めた瞬間、言葉を失った様子だ。


 だらりと傾いたジョッキから、麦酒がドバドバと零れている。


 おっと。僕も、うっかりしていた。この酒場に飛び込む前に、少々、雨に降られていたのだ。白のブラウスは見事に透けてしまっている。いやはや、これは若者に対しては扇情的だろうな。特に、片田舎からこのような都市部に出てきたばかりならば――。


 僕みたいな、圧倒的美少女というものを見るのは初めてだろうさ。


 いや、もちろん、僕の横に並び立つような容姿の持ち主なんて、この世に存在するかも疑わしい。だから、彼らの心境的には、場末の酒場でうっかり天使に遭遇してしまったようなものだ。


 ああ。僕、なんて罪作りなのか。


「おい、マリア」


 酒場のマスターに、現実に引き戻された。


「陶酔してないで、相手でもしてやれよ」


「え、どうして?」


 なんで、僕が、そんなことしないといけないの。


「可哀そうだろうが……」


「可哀そう?」


 僕は小首を傾げる。


 きょとん、と。


 わお。我ながら、全ての仕草が可愛い。


「騙している分、酌でもしてやれよ」


 マスターは僕にだけ聞こえるような小声で云った。


 僕は、むっとする。思わず、マスターに耳打ちした。


「騙しているなんて、そんなの勝手な勘違い」


 僕は、性別を偽るつもりなんてまったくない。

 実際に、自分を『女』として喧伝したことは一度もなかった。


「僕は、男に好かれたいわけじゃない」


 むしろ――というか、ごく普通に女性が好きだ。


 男達に酌をしてやるなんて、気持ち悪いことこの上ない。


「なあ、お嬢ちゃん」


 しかし、残念な展開。


 結局、僕の気持ちなんて関係ないらしい。


 マスターとこそこそ云い合っている間に、彼らは好色な気配を漂わせて、僕の方に近寄って来ていた。そして、リーダー格と思しき男が最悪な台詞を口にする。


「なあ、いくらだよ?」


 そう訊かれた瞬間には、さすがの僕も激昂する。


 いや、冷静に考えたならば、その発想はわからなくもない。


 奴隷の証であるチョーカー。

 それを付けているから、僕が奴隷であることは一目瞭然だ。


 僕のように、着飾っている奴隷は珍しい。加えて、この美貌。さらには、酒場に居るという状況も後押しする。所有者の下で、そうした商売に使われている者と誤解しても、まあ、確かに不思議ではないのだ。


 だが、あまりに礼を欠いた発言に、僕は思わず――。


「黙れ」


 パシン、と。

 平手打ちで返していた。


 僕の胸元に、汚い手を這わそうとしていた男はしばらく呆然とする。


「畜生、てめえ……」


 こうなれば、わかりやすい展開が始まる。


 思わず、ため息。


 繰り返しになるけれど、僕は体力がない。

 運動が苦手で、荒事も好きではなかった。


 組み伏せられてしまえば、泣き叫ぶぐらいしか能がない。伸びてきた男達の手を、慌ててステップして避けた。奴隷生活も早一年、すなわち、迷宮都市ハーレルアの暮らしも早一年。酔った男、言い寄って来る男、痴漢同然の男、殺人鬼の男――多種多様な魔手に晒されてきた経験から、逃げ方だけは非常に様になって来ている。


「おい、お前ら……」


 店のマスターは慌てた様子なく、億劫そうにつぶやく。


「マリアに手を出さない方がいいぜ。いいか、忠告はしたからな」


 僕もまた、大きなため息をついた。


「マスターの云う通りだよ。僕に、手を出すな」


 不幸。

 人生は、そんなもので満ちている。


 ただし、僕はそれでも幸せだ。

 幸せを噛みしめながら、生を実感している。


 不幸中の幸い――今日もまた、そんなものが繰り返される。


「ああ? なにを云ってんだ?」


 遂に、男は激情に駆られてか、剣まで抜き放った。


「知るかよ。こっちに来い。今なら、可愛がるだけで許して……」


 ああ、まったく。


 ああ、ああ――。


 馬鹿め。


 僕はため息の代わりに、大きく叫んだ。


「助けて、御主人様!」


 酒場の扉が、吹き飛びそうな勢いで開いた。


 威風堂々、と――。


 時間が止まったような一瞬が訪れる。


「マリア」


 その人影は、雨上がりの日差しを背負いながら登場した。


 当然、僕は犬のように答える。


「ああ、御主人様」


 すぐさま駆け寄る。そうすると、まずは抱きしめられた。至福の時。それから、身体中を撫で回された。「うん。怪我はないな」「はい。御主人様、大丈夫です」と、僕は微笑んで見上げる。


 凛、と。


 長身に真っ白な髪。

 切れ長の緋色の瞳。


 冒険者として、女性はそれだけでも珍しい。華奢で美しい者となれば、この御主人様ぐらいである。すらりと細く、手足にも無駄な肉はない。それなのに胸は豊かで、ぎゅっと抱きしめられた時、鉄製のブレストプレートを非常に恨めしく思ったものだ。


「う、うわ……」


 引き攣ったような、小さな悲鳴。

 僕に絡んでいた四人が同時に叫び声を上げていた。


「シ、シオス! シオス・アーゲラかよ!」


 そうである。

 誰が、間違えるだろうか。


 シオス・アーゲラ。


 すなわち、最強の冒険者。

 二つ名の〈白剣姫〉と共に、その名は大陸中に知れ渡っていた。


 僕の最高にして、最愛の御主人様である。


「さて、マリア」


「はい、御主人様」


「こいつらは、お前に不埒な真似をしたか?」


 尋ねながら、その時にはもう、御主人様は剣を抜き放っていた。


 右手には幅広の短刀、左手には細剣レイピア

 通路の狭いダンジョンにおける戦いに特化した白剣姫の独自スタイル。


 白の長髪と緋色の瞳、長さの異なる二刀――国中に轟く白剣姫の容姿と戦法を堂々と見せつけられて竦まない冒険者がいるだろうか。王立騎士団の騎士隊長達すら手合せを拒んだという技量、西方の竜頭大陸の帝国が莫大な金貨を積んでスカウトしたという力量。


 一対一の屋内戦ならば、右に出る者は絶対にいない。


 加えて、獅子のように、シオス・アーゲラは容赦がなかった。


「ああ。返答はいらない」


 御主人様は表情を変えることなく、淡々と告げた。


「どうでもいいよ。消えろ」


 僕に手を出した、という事実に至るまでもなく――。


 手を出そうとした、というその程度で十分なのだ。


「おいおい、掃除が大変だぞ」


 酒場のマスターは、盛大に愚痴を零した。


「身ぐるみを剥いで、有り金も頂戴したならば、むしろ美味しいだろ?」


 御主人様は、にこりと笑うこともなく、そんな冗談を云った。


 べっとりと血で汚れた刃を拭いながら、「さて、帰ろう」とようやく微笑む。


「はい、御主人様」


 僕はもう振り返ることもしない。


 背後には、心臓を一突きにされて、野心も命も砕けて倒れる者がいる。


 ちなみに、残りの三人は無事である。もちろん、仲間を殺されて、復讐に燃えるだけの気概が見て取れたならば、御主人様は全員の命を奪っただろうけれど――。


 彼らは腰抜けだったということだ。


 今後、彼らは白剣姫の恐ろしさを大いに宣伝してくれるに違いない。自分達が直に体験した事柄を、あちこちで吹聴してくれるはずだ。その美しい奴隷に手を伸ばしかけただけで、問答無用で命を奪って来る。危険な人物。絶対に手を出してはいけない相手と――。


「ダンジョンに潜っている時以外は、のんびり暮らしたいものだ」


 御主人様は、ため息と共につぶやく。


「すみません。僕のせいで……」


「いやいや、マリアが気にすることではない」


 酒場の扉に手を掛けながら、御主人様は笑いかけてくれる。


「お前が、ちょっと可愛すぎるのが問題だ」


「褒めてくれていますか、それ?」


「もちろん、もちろん」


 頭を撫でられた。嬉しい。


 僕は幸せである。


「最初こそ、困ったと思ったものだけど……」


 御主人様は、わずかに目を細めて云った。


「今では、素晴らしい買い物をしたと思っているよ」


「僕に、金貨三枚の値打ちはありましたか?」


「もちろん、それ以上だ。百枚以上の価値はある」


 迷宮都市ハーレルア。


 冒険者と無法の街。


 この街では、命はパンくずのように軽く、金貨一枚の重さにも足りない。


 冒険者と無法の街を舞台に、金貨百枚程度には価値がある僕と――。


 金貨千枚ぐらいの蓄えがある御主人様、シオス・アーゲラの物語。

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