君へ
おはよう、と微笑みかけて今日も君は僕の前に珈琲を置く。
毎朝、ちゃんと珈琲だけは手を抜かずに淹れると交わした約束をそのままに。
知り合ったばかりの頃、君が言った言葉は、嘘じゃなかった。
私、珈琲をたてるのは得意なんです。
確かに上手だったけど、それ以外はちっとも得意じゃなかった。
食事の用意も洗濯物を畳むのも僕のほうが上手だったけれど、ごめん、と小さくなった君が可愛くて、僕はとても幸せだった。
大好きな君と結婚して、小さな部屋でふたりで始めた生活はすべて愛しくて、毎日ただいま、おかえり、と言い交わすことが何よりも大切だった。
ごめん。ごめんなさい。
毎日、君が入れてくれる珈琲に触れる手が今の僕にはない。
薫りを感じることもできない。
あの日のことはよく覚えていないんだ。
僕の車の前に大型のダンプが横倒しになってきたのを見たのが、最後。
咄嗟に浮かんできたのは、君の笑顔だった。
気がついたら、僕の身体は、もうなかった。
何故?どうして僕が。
生きたいのに!君とささやかで幸せな生活を続けたいのに!
これから何十年も続く筈だった生活は、たった二年で幕を閉じた。
肩を震わせる君、唇をかみ締める君、テーブルに顔を伏せる君。
そんな顔をさせている僕は、君に囁く声すらない。
泣かないで。僕はここにいるから。
僕の珈琲がすっかり冷めてしまった頃、君がポツリと言った。
ねぇ、私もう一度恋をしていい?
あなたを抱えたままの私でも、大切だと言ってくれる人がいるの。
もう一度、誰かを大切にして生活したいの。許してくれる?
君は、あれから七年も僕だけに恋してくれていたんだね。
もう、充分だよ。
身体を持たない僕にできることなんか、何もないんだ。
重ねる唇さえ持たない僕には、君の望むものは何ひとつあげられない。
だから、僕のためにする躊躇は、いらない。
君が安心しきって眠る前の微笑を取り戻してくれたら、いい。
君の中の僕は、君の幸せを一緒に感じることができるから。
そして、僕よりも大切なものができたら、それを見届けて僕はゆっくり消える。
でも、たまには思い出してもらってもいいかな。
たとえば、珈琲をたてる短い時間に。
fin.