#7
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朝っぱらのソープなんざに機嫌のいい従業員がいるはずもなかった。元気よく挨拶をして入っていった大輔は、仏頂面の支配人に睨め付けられ首をすくめた。
「あざーす。そんなニラまないでくださいって、沢口さん。ただでさえ怖いのに」
さっきまでの動揺などなかったかのように、大輔はそれでもへらへらと薄笑いで話しかける。
「おせーんだよ、バカ大。オシボリ本舗から連絡来たの何時間前だと思ってんだ?え?こんなだりい朝っから、てめえのにやけヅラなんか見たかねえよ」
今までの店を仕切る女どもとは違い、明らかに地下の空気を漂わせている支配人は、低い声で唸った。
ふと、隣の美羽子に目をやると、彼はふんと鼻を鳴らした。
「ヤバいバイトに首つっこませていいんかい?こんな世間知らずの姉ちゃんをよ」
女子大生なんて今どきどこの風俗でも流行らないぜ、と唇を歪ませる。
自分は学生では!と勢いよく言いかけた彼女の口を慌ててふさぐと、人手が足んないんっすよと大輔は苦笑いで返す。
「じゃ、これで。またよろしく」
さっさと受け取る荷物をこれもまた美羽子にすべて持たせると、大輔は言葉少なに店を出ようとした。
彼女とのやり取りが応えているわけじゃない。ここに長居は無用だ。何だそれ、必死に自分へと言い訳か?いやに苦い感情がこみ上げてくる。
「おい、大。ちょっと顔貸せや」
目だけで合図を送ってくる支配人の沢口に、今度は大輔の方が美羽子を手で追いやる。彼女の表情が険しくなるが構ってられるか。
…警視の名前を出したからと言って、こいつが本当に桜田門かどうかわかりはしない。ヘタしたら空挺の回し者かも知れないってのにな…
追われる筋合いはない。探られて痛い腹もない。が、不快感はぬぐえない。平常心を失えば命取りのこの仕事。まあ、どこで落としても気にも掛けない生命だっつえばそうだけどさ。大輔は口にも出さずにうそぶく。死なないだけ。今のおれがしているのはそれだけだ。
店の奥に引っ張り込まれた大輔は、沢口から腕をぐいと掴まれた。
「な、何すか?」
「女一人回してくれや。さっきの姉ちゃんみてえなあんなシロウトじゃなく、使える上物をな」
囁く声色は完全に裏家業のもの。ビビる大輔ではなかったが。
「やーめてくださいよ。おれ堅気なのにさ。回せる女なんているわけないっしょ」
よく言うよ。沢口がまたも鼻で笑う。白勢会とは対立関係にある眉敦連合が取り仕切るこの店で長年勤め上げている彼もまた、筋金入りの極道だ。
「白っちいのと派手にやり合ったんだって?名前が売れてさぞかし有頂天になってる頃だと思ってよ」
あの件を知るのは組と言っても上層部のみだろう。少なくとも大輔と警視庁を結ぶ線までばれているとは思いたくはない。
「どっからそんなテキトーな噂。ったく、何かあればみんなおれのせいにされるんだから。やってらんないっすよね」
意味ありげな沢口の含み笑いに、知らず大輔は目を細める。
「なあに、白勢会にしたところで児玉は切りたがってたからな。上のヤツらにとっちゃ、桜さんとはきっちり話がついてたんだろうよ。どっから頼まれたんだか知らねえが、あんたもご苦労なこった」
つまりおれは、二重三重のダシに使われただけってか。まあしゃあねえや。呆れ混じりに首を回す。
「だからまあこっちもな、ヘンなしがらみのねえ大が一番使い勝手がいいんでね」
本当のところはとてつもなくやっかいなしがらみ付きですがね、とこれは言わずにおいた。
「言っときますけどね。おれ、ただの宅配屋ですから。バイトっすから。荷物は運んでも女の調達なんざ…」
「ま、あちこちに声掛けてみるけどよ。ホントにこっちも人手が、ね。誰でもいいって訳にゃいかねえんだよ」
大輔の話を聞いているのかいないのか、沢口は片目をつぶって見せた。この海千山千の支配人がこれだけ言うってことは、女性を必要としているのは「オ(-)ラの泉」なんてふざけた名前の店の方ではなく、裏の会員制超高級ソープの方なのだろう。ますますおれには縁のない話だ。大輔はすっとぼけた顔で、大変っすねえ、と笑って見せた。
あくまでも警視庁組織犯罪対策室が取り締まっている対象は、不法入国で働かせ続けられている風俗嬢らの救出と雇い主の摘発のはず。沢口の絡む店からだって、命令があれば足抜けをさせなければならないのだ。
敵に回したかねえなあ。沢口さんおっかねえし。大きなため息をついてから、大輔は天を仰いだ。
「情報収集ですか?潜入捜査官みたいですね」
美羽子の声がとがる。答えもせずに大輔はハンドルを切り続けた。狭い路地をかいくぐり、今度はきちんとチェリー運送が手がける正規の荷物をさばいていく。もともと大輔の仕事は早いと言うどころではないし、美羽子もまた当然のように勘がいい。朝のタイムロスなどあっさりと取り戻し、昼前には二人を乗せたトラックは公園前の路肩に静かに停まっていた。
すぐに気を利かせて彼女が缶コーヒーを二本、手に入れてくる。渡されたとき、指先が触れた。
怯えたのは……大輔の方だった。
美羽子の方はまっすぐ前を見据え、ゆったりと缶をかたむけている。受け取ったコーヒーを持て余し、先にタバコを取り出してから口にくわえる。
「車内禁煙じゃないんですか」
「はあ?何か言いましたあ?」
つっけんどんに言ってはみるが、どうも勝手が違ってやりにくい。こいつと組まされるのだとしたら、今度こそ本気で堂本警視とは縁を切ってやる。心で固く誓う。
「荷物にタバコのニオイがついて困る。最近、その手の苦情が多いと聞きました。ですからてっきり煙草は禁止なのかと思っていたので、久住先輩」
「その口調、止めてくんね?ここ別に運動部じゃねえし。今度先輩とか抜かしたら、ホントに売り飛ばすかんな」
怒鳴りつけたいくらいの思いは、どこかでしぼんでゆく。朝田…苑子。結界が張られたように避けてきた名前が目の前に突き付けられ、このままでは自分が立っていられない。
…なんてザマだろうねえ。どんだけの修羅場でも何とも思いもしなかったおれがさ…
生き残ろうと願わなければ恐怖もない。だから堂本に便利屋のように使われても文句一つ言わず。
「じゃあ、久住さん…ですか?」
女に名字で呼ばれるなんて、最近じゃ滅多にない。よしてくれ、と思わず吐き捨てる。
「いいよ、大輔でも大ちゃんでも。どうせみんなそうやって呼ぶんだからさ」
「なら…大輔、先輩?」
何を考えているのか、そっと呟く美羽子に、感情が突然爆発する。
「先輩って呼ぶなっつってんだろっ!?ここは防衛隊じゃねえ!!」
冷ややかな視線がまた大輔を捉える。ようやくわかりました、と。
「防衛隊のことを思い出したくないんですね。だから自分のことも避けるし、わざと茶化すような言葉しか遣わない」
「あんたとは何があっても組まないからな」
噛みしめた歯の隙間から、絞り出す声。それは警視に言ってください、とあくまでも冷静な美羽子の言葉。
ああそうだ、桜田門に集合だったっけ。どうせまた気の重い仕事を押しつけらられんだろ。それでもいい、生きているうちの暇つぶしになれば。
大輔の手の中で、ゆっくりと醒めてゆく缶コーヒーは、まるで奪われてゆく生き物の体温のようだった。
「そういえば、さっきの店のことなんですけれど。『オラの泉』ってソープランドなんですよね」
一度目をつぶってからプルトップを乱暴に開け、中の液体をぐいと飲み干そうとしていた大輔は、突然の美羽子の声に咳き込んだ。
「げほ、ごほごほげほ。んだよっ、いきなり!!ようやくあんたもそこで働く気になったか!?」
こぼれたコーヒーを拭こうとティッシュを差し出す美羽子の手を、思わず払いのける。
まだむせ続ける大輔をまっすぐ見据えると、彼女は言った。
「パク・ユンナ。Kポップの代表的なアイドルのはずの彼女が、どうしてあの場にいたんでしょうか。ソープランドは唯一、実際の行為が行われる風俗店だと聞いているのですが」
「はいぃっ!?」
こいつの言葉は何でこうも、いつだっておれを驚かせやがるんだ!
大輔の手の中で、デミタス缶がひしゃげた音を立てた。
(つづく)
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