『君のすべてを愛しているよ』と微笑む完璧な旦那様との、幸せな結婚生活。ただ一つ——わたしたちの『思い出』だけが、どうしても噛み合わないのです
「ずっと、君を探していたんだ」
初めて会ったその日、セオドール様はそう言って、わたしの手を取った。
没落した男爵家の、なんの取り柄もないわたしを。
国でも指折りと名高い若き伯爵が、まるで宝物を見つけたみたいに、大切そうに。
モロー男爵家は、父の代で傾いた。
借財に追われ、わたしはいっそ、どこか遠くへ身売りされるのだと、覚悟すらしていた。
そんなとき、物語のように現れたのが、セオドール様だった。
彼は父の借財をすべて肩代わりして、たった一つの条件を口にした。
「娘さんを、僕にください」と。
初対面のはずのわたしを見つめる彼の瞳は、長いあいだ焦がれ続けた何かを、ようやく見つけたような――そんな、痛いくらいの色をしていた。
「これからは、僕が君を守るよ。……もう、どこにも行かせない」
その言葉に嘘がないことは、嫁いでからの日々が、証明してくれた。
* * *
セオドール様は、わたしの好きなものを、何もかも知っていた。
朝は、蜂蜜をひと匙落とした紅茶。
甘いお菓子より、少し塩気のある焼き菓子。
雨の匂いと、古い本の頁をめくる音が好きなこと。
わたしが口にするより先に、彼はそれを、そっと差し出してくれるのだ。
嫁いで初めての朝のことだった。
窓辺で、わたしがふと外の小雨を眺めていると。
いつのまにか隣に来ていた彼が、わたしの肩に、あたたかな膝掛けを掛けてくれた。
「雨の日は、冷える。……君は、昔から寒がりだからね」
昔から、だなんて。
わたしたちは、まだ出会って幾日も経っていないのに。
「どうして、わたしのことを、そんなに分かってくださるんですか」
不思議に思って尋ねると、彼は幸せそうに、目を細めた。
「だって、僕は君のことなら、なんでも知っているからね」
「まだ、出会ったばかりなのに?」
「そうだね。……そう、だったね」
その一瞬、彼の笑みに、薄い影がよぎったことに。
わたしは、気づかないふりをした。
* * *
「君のすべてを愛しているよ、クラリス」
セオドール様は、一日に何度も、その言葉をくれる。
食事のときも、庭を歩くときも、眠りにつく前も。
こんなにも愛されて、いいのだろうか。
没落した家から来た、身一つのわたしなんかが。
そう思うたび、わたしは幸せで、そして少しだけ、こわくなる。
それでもわたしは、この幸せに、少しずつ慣れていった。
朝、目を覚ませば、隣で彼が、わたしの寝顔を見つめている。
「おはよう、僕の愛しい人」
その声で一日が始まることが、たまらなく、幸せで。
わたしが何気なく「新しい刺繍糸が欲しい」と呟けば、翌朝には、色とりどりの糸が揃えられている。
夜、少し眠れずにいると、彼はそれを察して、わたしの好きな古い物語を、低い声で読んでくれる。
欲しいと思うより先に。
寂しいと感じるより先に。
彼の手は、いつだって、そこにあった。
わたしの心の中を、ぜんぶ知り尽くしているみたいに。
――ただ一つ。
わたしには、どうしても分からないことが、あった。
セオドール様の語る『わたしたちの思い出』が、わたしの記憶と、まるで噛み合わないのだ。
「覚えているかい。十年前の、収穫祭の夜」
ある晩、暖炉の前で、彼は懐かしそうに語り始めた。
「君は、青いリボンをつけていた。人混みではぐれそうになって、僕が手を握ったんだ」
「……青い、リボン」
わたしは、戸惑った。
「セオドール様。わたし、その収穫祭には、行っていないんです」
「え?」
「それに……わたし、青い色が、昔から少し苦手で。リボンも、青は、一度も」
彼は、きょとんとした顔で、わたしを見つめた。
それから、困ったように、けれどとても優しく、微笑んだ。
「そうか。……うん、そうだね。きっと、僕の思い違いだ」
「ごめんなさい。せっかくの、思い出なのに」
「いいんだよ。気にしないで」
彼はわたしの髪を撫でて、囁いた。
「正しいのは、いつだって、君のほうだから」
やさしい言葉のはずなのに。
どうしてか、その夜のわたしは、なかなか寝つけなかった。
そういえば、と、ふと思う。
嫁いでから誂えてもらったドレスの中に、青い色の一着も、ないのだ。
侍女に何気なく尋ねてみると、彼女は少し、言いにくそうに答えた。
「旦那様が、仰ったのです。……この屋敷には、青いものを、決して入れるなと」
どうして、と訊いても。
侍女は、ただ困ったように、微笑むだけだった。
* * *
思い出のズレは、それきりでは、なかった。
彼は時々、わたしの知らない『わたし』の話をする。
「ほら、あの海辺で、君が貝殻を集めていたときのこと。憶えているだろう」
そう言って目を細める彼に、わたしは、曖昧に頷くしかない。
だってわたしは、海を、見たことすら、ないのだから。
けれど彼の思い出の中の『わたし』は、確かに、そこで笑っているらしい。
わたしの知らない、わたしが。
彼の記憶の中にだけ、幸せそうに、生きている。
そのどれもを、彼はあんまり幸せそうに語るから。
わたしはいつも、こう思うことにした。
きっと、わたしの記憶違い。
きっと、わたしがうっかり、忘れているだけ。
そう思えば、胸のざわめきは、なんとか収まってくれたから。
――そんなある日、屋敷を、ひとりの老紳士が訪ねてきた。
セオドール様の、亡き父君の友人だという方だった。
その方は、わたしを見るなり、ひどく驚いた顔をして、しばらく言葉を失っていた。
「……いや。よく似た方が、いるものだ」
彼は取り繕うように笑って、それきり、口をつぐんだ。
帰り際、その老紳士は、わたしにだけ聞こえる声で、こう言った。
「奥様。あの子は――セオドールは、昔は、あんなに完璧な男ではありませんでしたよ」
「完璧では、なかった……?」
「ええ。よく笑い、よく泣く、不器用な子でした。……それが、いつからだろうな」
老紳士は、寂しそうに、目を細めた。
「まるで、大事なものを一つ、どこかへ置き忘れてきたみたいに。何もかもを分かった顔を、するようになった」
その言葉の意味を、わたしは、うまく飲み込めなかった。
――その日、わたしは、屋敷の西の棟に、初めて足を踏み入れた。
長く使われていない、埃の匂いのする廊下。
足を踏み入れた瞬間、空気が、ひやりと変わった気がした。
まるで、時間が、ここだけ止まっているみたいに。
その突き当たりに、ひとつだけ、固く鍵の掛かった扉があった。
「奥様。そちらは……」
案内していた老侍女が、さっと顔色を変えた。
「そのお部屋にだけは、どうか、お近づきになりませんよう」
「どうして?」
「……旦那様の、仰せですので」
彼女は、それ以上、何も語らなかった。
けれど、扉から目を逸らす前に。
わたしは、廊下の壁に掛けられた、一枚の古い肖像画に、気づいてしまった。
そこに描かれていたのは。
――わたしだった。
いいえ。
わたしによく似た、けれど、わたしではない、誰か。
亜麻色の髪。
榛色の瞳。
そっくりの、面差し。
けれど、その女性は。
わたしが一度も身につけたことのない、鮮やかな青いドレスを、纏っていた。
「この方は……?」
わたしが尋ねると、老侍女は、泣きそうな顔で、目を伏せた。
「どうか。……どうか、旦那様には、ここへ来たことを、仰らないでくださいまし」
その夜も、わたしは、なかなか眠れなかった。
あの肖像画の女性は、誰なのだろう。
どうして、わたしにあんなに、似ているのだろう。
考えれば考えるほど、胸の奥が、冷たくなっていく。
――もしかしたら。
セオドール様が「ずっと探していた」と言った"君"は。
本当は、わたしでは、ないのかもしれない。
そこまで考えて、わたしは慌てて、首を振った。
いけない。
こんなに愛していただいているのに、疑うだなんて。
きっと、遠い親戚か、誰かだ。
そう思うことにして、わたしは、目を閉じた。
けれど瞼の裏に浮かぶのは、あの青いドレスの女性の、どこか寂しそうな微笑みばかりだった。
* * *
その夜。
わたしは、眠るセオドール様の寝顔を、じっと見つめていた。
穏やかで、完璧な、わたしの旦那様。
その唇が、ふいに、小さく動いた。
「……エレナ」
聞いたことのない、名前だった。
「エレナ。……行かないで。おいて、いかないで」
うなされる彼の目尻から、つう、と涙が伝う。
「僕が、悪かった。あの日、目を、離した僕が……」
苦しげに歪む、その端整な横顔。
いつも完璧で、隙のない彼が。
夢の中でだけは、幼い子どものように、泣いていた。
「もう一度……もう一度だけ、やり直せるのなら……」
わたしは、たまらなくなって、その涙を、そっと拭った。
すると彼は、ゆっくりと目を開けて――わたしを見た瞬間、崩れるように、安堵の息を吐いた。
「……クラリス」
「はい。ここにいます、旦那様」
「ああ。……そうだ。君は、クラリスだ」
彼は、自分に言い聞かせるように、繰り返した。
そして、確かめるように、わたしの頬に、両手で触れた。
わたしが、たしかにここにいることを。
あたたかくて、生きていることを。
「……よかった。君は、ここにいる」
その声が、あんまり必死だったから。
わたしは、その手に、そっと自分の手を重ねた。
わたしは、思い切って、尋ねてみた。
「セオドール様。……エレナ様、というのは、どなたですか」
彼の体が、静かに、強張った。
長い、長い沈黙のあと。
彼は、壊れ物みたいな声で、笑った。
「……知らない名前だな。僕の記憶には、いないよ」
「でも、今、たしかに」
「クラリス」
彼は身を起こして、わたしを、そっと抱き寄せた。
「僕の思い出には、君しかいないんだ。昔も、今も、これから先も、ずっと」
その腕が、微かに、震えていた。
「もし、僕の思い出と、君の思い出が食い違うのなら。……それは、僕が、そう望んだからだよ」
「望んだ……?」
「うん。君との思い出だけが、僕のすべてでいい。……それ以外は、もう、いらないと思ったんだ」
「でも、そんなの、寂しくありませんか」
思わず、わたしは訊いていた。
「あなたの思い出が、ぜんぶ、わたしとのものだけだなんて」
セオドール様は、少しだけ、目を見張って。
それから、泣き笑いのような、表情になった。
「寂しくなんて、ないよ。……むしろ、これでよかったんだ」
「よかった……?」
「うん。おかげで僕は、何にも迷わずに、君だけを、愛せる」
彼の言葉の意味は、やっぱり、わたしには分からなかった。
でも、彼があんまり切なそうに、わたしを抱きしめるから。
わたしは、それ以上、何も訊けなくなってしまった。
――ただ、その広い背中を。
彼が少しでも、安らげるように、抱きしめ返すことしか、できなかった。
* * *
わたしは、あの肖像画のことも、エレナという名前のことも、二度と口にしなかった。
きっと、訊いてはいけないのだと、分かっていたから。
セオドール様は、相変わらず、わたしを完璧に、愛してくれた。
いいえ。
日を追うごとに、その愛は、深く、優しくなっていくようだった。
うなされる夜も、少しずつ、減っていった。
その代わり、彼はよく、わたしの名前を呼ぶようになった。
眠る前に、目覚めた朝に、庭で、食卓で。
「クラリス」「クラリス」と。
まるで、その名を呼ぶたびに、大切な何かを、自分に刻みつけるように。
「はい、旦那様。ここにいますよ」
わたしが応えると、彼はいつも、ほっとしたように、微笑むのだった。
季節が、めぐった。
庭の薔薇が咲いて、散って、また蕾をつける頃には。
セオドール様の横顔から、あの張り詰めたものが、少しずつ、消えていった。
彼は、前よりもよく、笑うようになった。
わたしの淹れた紅茶を「美味しい」と言って、二杯もおかわりするような。
そんな、ささやかで、あたたかい笑い方を。
「君といると」
ある午後、彼はぽつりと言った。
「忘れたはずの何かが、もう、痛まなくなるんだ」
どういう意味ですか、と訊いても、彼は、ただ幸せそうに笑うだけ。
その笑顔が、出会った頃よりずっと、穏やかになっていることに。
わたしは、気づいていた。
ある晩のこと。
わたしは、ずっと胸にあったことを、そっと口にした。
「わたし、いまだに、分からないんです。あなたに、こんなに愛される理由が」
没落した家から来た、なんの取り柄もない、わたし。
彼の語る思い出の中の『わたし』にすら、わたしは、なれていないのに。
セオドール様は、少しだけ驚いた顔をして。
それから、この世でいちばん優しい声で、言った。
「理由なんて、要らないよ」
彼の手が、わたしの頬を包む。
「君がクラリスで、こうして、僕のそばにいてくれる。僕には、それだけでいいんだ」
「旦那様……」
「僕はね、クラリス。ずっと昔に、大切なものを、この手から失くしたことがあるんだ」
その青灰の瞳が、ほんの一瞬だけ遠くを見て、すぐに、わたしへと戻ってきた。
「だから、決めたんだよ。今度こそ、目の前にいる君だけを、まっすぐに愛そうって。……余計なものは、全部、忘れてでも」
わたしには、その言葉の、本当の重さは、分からなかった。
彼が、何を忘れ、何を壊して、今、わたしだけを見ているのか。
――わたしは、生涯、知らないままだった。
でも、それでよかったのだと思う。
だってわたしは、他の誰でもない、"わたし自身"として。
この人に、誰よりも深く、愛されているのだから。
「愛しています、セオドール様」
わたしがそう言うと、彼は、泣きそうな顔で、けれど心から幸せそうに、笑った。
その笑顔があんまり綺麗で、あたたかくて。
わたしは今も、こわいくらいに、幸せなのだ。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。蜜月 憂です。
今作は、これまでで一番、切なさに寄せてみました。
セオドールが何を忘れ、何を壊してクラリスだけを見つめているのか――彼女はそれを知らないまま、"彼女自身として"誰よりも愛されて、幸せに笑っています。どうか、そのままで。
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