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『君のすべてを愛しているよ』と微笑む完璧な旦那様との、幸せな結婚生活。ただ一つ——わたしたちの『思い出』だけが、どうしても噛み合わないのです

作者: 蜜月 憂
掲載日:2026/07/08

「ずっと、君を探していたんだ」


初めて会ったその日、セオドール様はそう言って、わたしの手を取った。


没落した男爵家の、なんの取り柄もないわたしを。


国でも指折りと名高い若き伯爵が、まるで宝物を見つけたみたいに、大切そうに。


モロー男爵家は、父の代で傾いた。


借財に追われ、わたしはいっそ、どこか遠くへ身売りされるのだと、覚悟すらしていた。


そんなとき、物語のように現れたのが、セオドール様だった。


彼は父の借財をすべて肩代わりして、たった一つの条件を口にした。


「娘さんを、僕にください」と。


初対面のはずのわたしを見つめる彼の瞳は、長いあいだ焦がれ続けた何かを、ようやく見つけたような――そんな、痛いくらいの色をしていた。


「これからは、僕が君を守るよ。……もう、どこにも行かせない」


その言葉に嘘がないことは、嫁いでからの日々が、証明してくれた。


* * *


セオドール様は、わたしの好きなものを、何もかも知っていた。


朝は、蜂蜜をひと匙落とした紅茶。


甘いお菓子より、少し塩気のある焼き菓子。


雨の匂いと、古い本の頁をめくる音が好きなこと。


わたしが口にするより先に、彼はそれを、そっと差し出してくれるのだ。


嫁いで初めての朝のことだった。


窓辺で、わたしがふと外の小雨を眺めていると。


いつのまにか隣に来ていた彼が、わたしの肩に、あたたかな膝掛けを掛けてくれた。


「雨の日は、冷える。……君は、昔から寒がりだからね」


昔から、だなんて。


わたしたちは、まだ出会って幾日も経っていないのに。


「どうして、わたしのことを、そんなに分かってくださるんですか」


不思議に思って尋ねると、彼は幸せそうに、目を細めた。


「だって、僕は君のことなら、なんでも知っているからね」


「まだ、出会ったばかりなのに?」


「そうだね。……そう、だったね」


その一瞬、彼の笑みに、薄い影がよぎったことに。


わたしは、気づかないふりをした。


* * *


「君のすべてを愛しているよ、クラリス」


セオドール様は、一日に何度も、その言葉をくれる。


食事のときも、庭を歩くときも、眠りにつく前も。


こんなにも愛されて、いいのだろうか。


没落した家から来た、身一つのわたしなんかが。


そう思うたび、わたしは幸せで、そして少しだけ、こわくなる。


それでもわたしは、この幸せに、少しずつ慣れていった。


朝、目を覚ませば、隣で彼が、わたしの寝顔を見つめている。


「おはよう、僕の愛しい人」


その声で一日が始まることが、たまらなく、幸せで。


わたしが何気なく「新しい刺繍糸が欲しい」と呟けば、翌朝には、色とりどりの糸が揃えられている。


夜、少し眠れずにいると、彼はそれを察して、わたしの好きな古い物語を、低い声で読んでくれる。


欲しいと思うより先に。


寂しいと感じるより先に。


彼の手は、いつだって、そこにあった。


わたしの心の中を、ぜんぶ知り尽くしているみたいに。


――ただ一つ。


わたしには、どうしても分からないことが、あった。


セオドール様の語る『わたしたちの思い出』が、わたしの記憶と、まるで噛み合わないのだ。


「覚えているかい。十年前の、収穫祭の夜」


ある晩、暖炉の前で、彼は懐かしそうに語り始めた。


「君は、青いリボンをつけていた。人混みではぐれそうになって、僕が手を握ったんだ」


「……青い、リボン」


わたしは、戸惑った。


「セオドール様。わたし、その収穫祭には、行っていないんです」


「え?」


「それに……わたし、青い色が、昔から少し苦手で。リボンも、青は、一度も」


彼は、きょとんとした顔で、わたしを見つめた。


それから、困ったように、けれどとても優しく、微笑んだ。


「そうか。……うん、そうだね。きっと、僕の思い違いだ」


「ごめんなさい。せっかくの、思い出なのに」


「いいんだよ。気にしないで」


彼はわたしの髪を撫でて、囁いた。


「正しいのは、いつだって、君のほうだから」


やさしい言葉のはずなのに。


どうしてか、その夜のわたしは、なかなか寝つけなかった。


そういえば、と、ふと思う。


嫁いでから誂えてもらったドレスの中に、青い色の一着も、ないのだ。


侍女に何気なく尋ねてみると、彼女は少し、言いにくそうに答えた。


「旦那様が、仰ったのです。……この屋敷には、青いものを、決して入れるなと」


どうして、と訊いても。


侍女は、ただ困ったように、微笑むだけだった。


* * *


思い出のズレは、それきりでは、なかった。


彼は時々、わたしの知らない『わたし』の話をする。


「ほら、あの海辺で、君が貝殻を集めていたときのこと。憶えているだろう」


そう言って目を細める彼に、わたしは、曖昧に頷くしかない。


だってわたしは、海を、見たことすら、ないのだから。


けれど彼の思い出の中の『わたし』は、確かに、そこで笑っているらしい。


わたしの知らない、わたしが。


彼の記憶の中にだけ、幸せそうに、生きている。


そのどれもを、彼はあんまり幸せそうに語るから。


わたしはいつも、こう思うことにした。


きっと、わたしの記憶違い。


きっと、わたしがうっかり、忘れているだけ。


そう思えば、胸のざわめきは、なんとか収まってくれたから。


――そんなある日、屋敷を、ひとりの老紳士が訪ねてきた。


セオドール様の、亡き父君の友人だという方だった。


その方は、わたしを見るなり、ひどく驚いた顔をして、しばらく言葉を失っていた。


「……いや。よく似た方が、いるものだ」


彼は取り繕うように笑って、それきり、口をつぐんだ。


帰り際、その老紳士は、わたしにだけ聞こえる声で、こう言った。


「奥様。あの子は――セオドールは、昔は、あんなに完璧な男ではありませんでしたよ」


「完璧では、なかった……?」


「ええ。よく笑い、よく泣く、不器用な子でした。……それが、いつからだろうな」


老紳士は、寂しそうに、目を細めた。


「まるで、大事なものを一つ、どこかへ置き忘れてきたみたいに。何もかもを分かった顔を、するようになった」


その言葉の意味を、わたしは、うまく飲み込めなかった。


――その日、わたしは、屋敷の西の棟に、初めて足を踏み入れた。


長く使われていない、埃の匂いのする廊下。


足を踏み入れた瞬間、空気が、ひやりと変わった気がした。


まるで、時間が、ここだけ止まっているみたいに。


その突き当たりに、ひとつだけ、固く鍵の掛かった扉があった。


「奥様。そちらは……」


案内していた老侍女が、さっと顔色を変えた。


「そのお部屋にだけは、どうか、お近づきになりませんよう」


「どうして?」


「……旦那様の、仰せですので」


彼女は、それ以上、何も語らなかった。


けれど、扉から目を逸らす前に。


わたしは、廊下の壁に掛けられた、一枚の古い肖像画に、気づいてしまった。


そこに描かれていたのは。


――わたしだった。


いいえ。


わたしによく似た、けれど、わたしではない、誰か。


亜麻色の髪。


榛色の瞳。


そっくりの、面差し。


けれど、その女性は。


わたしが一度も身につけたことのない、鮮やかな青いドレスを、纏っていた。


「この方は……?」


わたしが尋ねると、老侍女は、泣きそうな顔で、目を伏せた。


「どうか。……どうか、旦那様には、ここへ来たことを、仰らないでくださいまし」


その夜も、わたしは、なかなか眠れなかった。


あの肖像画の女性は、誰なのだろう。


どうして、わたしにあんなに、似ているのだろう。


考えれば考えるほど、胸の奥が、冷たくなっていく。


――もしかしたら。


セオドール様が「ずっと探していた」と言った"君"は。


本当は、わたしでは、ないのかもしれない。


そこまで考えて、わたしは慌てて、首を振った。


いけない。


こんなに愛していただいているのに、疑うだなんて。


きっと、遠い親戚か、誰かだ。


そう思うことにして、わたしは、目を閉じた。


けれど瞼の裏に浮かぶのは、あの青いドレスの女性の、どこか寂しそうな微笑みばかりだった。


* * *


その夜。


わたしは、眠るセオドール様の寝顔を、じっと見つめていた。


穏やかで、完璧な、わたしの旦那様。


その唇が、ふいに、小さく動いた。


「……エレナ」


聞いたことのない、名前だった。


「エレナ。……行かないで。おいて、いかないで」


うなされる彼の目尻から、つう、と涙が伝う。


「僕が、悪かった。あの日、目を、離した僕が……」


苦しげに歪む、その端整な横顔。


いつも完璧で、隙のない彼が。


夢の中でだけは、幼い子どものように、泣いていた。


「もう一度……もう一度だけ、やり直せるのなら……」


わたしは、たまらなくなって、その涙を、そっと拭った。


すると彼は、ゆっくりと目を開けて――わたしを見た瞬間、崩れるように、安堵の息を吐いた。


「……クラリス」


「はい。ここにいます、旦那様」


「ああ。……そうだ。君は、クラリスだ」


彼は、自分に言い聞かせるように、繰り返した。


そして、確かめるように、わたしの頬に、両手で触れた。


わたしが、たしかにここにいることを。


あたたかくて、生きていることを。


「……よかった。君は、ここにいる」


その声が、あんまり必死だったから。


わたしは、その手に、そっと自分の手を重ねた。


わたしは、思い切って、尋ねてみた。


「セオドール様。……エレナ様、というのは、どなたですか」


彼の体が、静かに、強張った。


長い、長い沈黙のあと。


彼は、壊れ物みたいな声で、笑った。


「……知らない名前だな。僕の記憶には、いないよ」


「でも、今、たしかに」


「クラリス」


彼は身を起こして、わたしを、そっと抱き寄せた。


「僕の思い出には、君しかいないんだ。昔も、今も、これから先も、ずっと」


その腕が、微かに、震えていた。


「もし、僕の思い出と、君の思い出が食い違うのなら。……それは、僕が、そう望んだからだよ」


「望んだ……?」


「うん。君との思い出だけが、僕のすべてでいい。……それ以外は、もう、いらないと思ったんだ」


「でも、そんなの、寂しくありませんか」


思わず、わたしは訊いていた。


「あなたの思い出が、ぜんぶ、わたしとのものだけだなんて」


セオドール様は、少しだけ、目を見張って。


それから、泣き笑いのような、表情になった。


「寂しくなんて、ないよ。……むしろ、これでよかったんだ」


「よかった……?」


「うん。おかげで僕は、何にも迷わずに、君だけを、愛せる」


彼の言葉の意味は、やっぱり、わたしには分からなかった。


でも、彼があんまり切なそうに、わたしを抱きしめるから。


わたしは、それ以上、何も訊けなくなってしまった。


――ただ、その広い背中を。


彼が少しでも、安らげるように、抱きしめ返すことしか、できなかった。


* * *


わたしは、あの肖像画のことも、エレナという名前のことも、二度と口にしなかった。


きっと、訊いてはいけないのだと、分かっていたから。


セオドール様は、相変わらず、わたしを完璧に、愛してくれた。


いいえ。


日を追うごとに、その愛は、深く、優しくなっていくようだった。


うなされる夜も、少しずつ、減っていった。


その代わり、彼はよく、わたしの名前を呼ぶようになった。


眠る前に、目覚めた朝に、庭で、食卓で。


「クラリス」「クラリス」と。


まるで、その名を呼ぶたびに、大切な何かを、自分に刻みつけるように。


「はい、旦那様。ここにいますよ」


わたしが応えると、彼はいつも、ほっとしたように、微笑むのだった。


季節が、めぐった。


庭の薔薇が咲いて、散って、また蕾をつける頃には。


セオドール様の横顔から、あの張り詰めたものが、少しずつ、消えていった。


彼は、前よりもよく、笑うようになった。


わたしの淹れた紅茶を「美味しい」と言って、二杯もおかわりするような。


そんな、ささやかで、あたたかい笑い方を。


「君といると」


ある午後、彼はぽつりと言った。


「忘れたはずの何かが、もう、痛まなくなるんだ」


どういう意味ですか、と訊いても、彼は、ただ幸せそうに笑うだけ。


その笑顔が、出会った頃よりずっと、穏やかになっていることに。


わたしは、気づいていた。


ある晩のこと。


わたしは、ずっと胸にあったことを、そっと口にした。


「わたし、いまだに、分からないんです。あなたに、こんなに愛される理由が」


没落した家から来た、なんの取り柄もない、わたし。


彼の語る思い出の中の『わたし』にすら、わたしは、なれていないのに。


セオドール様は、少しだけ驚いた顔をして。


それから、この世でいちばん優しい声で、言った。


「理由なんて、要らないよ」


彼の手が、わたしの頬を包む。


「君がクラリスで、こうして、僕のそばにいてくれる。僕には、それだけでいいんだ」


「旦那様……」


「僕はね、クラリス。ずっと昔に、大切なものを、この手から失くしたことがあるんだ」


その青灰の瞳が、ほんの一瞬だけ遠くを見て、すぐに、わたしへと戻ってきた。


「だから、決めたんだよ。今度こそ、目の前にいる君だけを、まっすぐに愛そうって。……余計なものは、全部、忘れてでも」


わたしには、その言葉の、本当の重さは、分からなかった。


彼が、何を忘れ、何を壊して、今、わたしだけを見ているのか。


――わたしは、生涯、知らないままだった。


でも、それでよかったのだと思う。


だってわたしは、他の誰でもない、"わたし自身"として。


この人に、誰よりも深く、愛されているのだから。


「愛しています、セオドール様」


わたしがそう言うと、彼は、泣きそうな顔で、けれど心から幸せそうに、笑った。


その笑顔があんまり綺麗で、あたたかくて。


わたしは今も、こわいくらいに、幸せなのだ。


最後までお読みくださり、ありがとうございました。蜜月 憂です。

今作は、これまでで一番、切なさに寄せてみました。

セオドールが何を忘れ、何を壊してクラリスだけを見つめているのか――彼女はそれを知らないまま、"彼女自身として"誰よりも愛されて、幸せに笑っています。どうか、そのままで。

「ゾクッとして、キュンとして、少し泣ける」を楽しんでいただけたなら、★やブックマーク、ご感想をいただけると、次を書く力になります。

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