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周回軌道

掲載日:2026/04/04

宇宙港の待合ロビーは、昔の地方空港と同じ匂いがした。消毒液と、揚げ物と、どこかの店が挽いた安い豆のコーヒー。違うのは、窓の向こうに滑走路ではなく、白い筒状の打ち上げ機が縦に並んでいることだけだ。


「格安って、こういう感じなんだ」


 隣の席の少女が、紙コップを指で転がしながら言った。制服ではないが、肩にかかった髪の長さと、妙に落ち着かない視線が、高校生だと告げていた。手首には学校で配られる健康端末のバンドが残っている。切って捨てればいいのに、あえて残しているところに、家出の“途中”という生々しさがあった。


「宇宙旅行も、今はLCCみたいなもんだ。座席も狭いし、荷物も制限が厳しい」


 島田は笑う練習をしてから、そう返した。四十代のサラリーマン特有の、笑うと目尻より先に疲れが出る顔だった。スーツではない。社会が宇宙に慣れてから、出張服は機能素材に置き換わった。けれど島田の服だけは、いつの時代にもどこか“勤め人”の角が残っている。


「おじさん、出張ですか?」


「……旅行だよ。地球一周ツアー。ほら、これ」


 島田がスマートチケットを見せると、少女は鼻で笑った。


「旅行のふり、ってやつ?」


 図星だった。島田は視線を外し、ロビーの案内板に映る広告を見る。『週末で地球を一周。あなたの人生も、軽く一周しませんか。』最近のコピーは、妙に人生に絡めたがる。


「君は?」


「家出中。家にいると、息できないから」


 彼女はさらりと言い、言った直後に自分の軽さに腹を立てたみたいに口を結んだ。島田はその反応が、むしろ本当らしくて、追及しないことにした。

 搭乗の呼び出しがかかり、二人は列に並んだ。検査ゲートの係員は笑顔で、靴底から頭頂までをスキャンしながら、コンビニの店員のような声で言う。


「本便は低軌道周回です。重力環境は途中で一時的にゼロになります。酔い止めは自販機で買えます。帰還手続きは到着後、係員の指示に従ってください」


 “帰還”。その単語が、妙に硬く聞こえた。

 打ち上げの振動は、評判通りだった。地上のジェットコースターが、遊びとして人間を揺さぶるのに対し、こちらは宇宙が事務として人間を揺さぶる。骨の奥で鳴る低い音。胸の内側に押し込まれる空気。少女が唇を噛んで耐えているのを横目で見て、島田は思った。子どもは、怖いときほど平気なふりをする。

 それでも、エンジン音が遠のき、身体がふっと軽くなった瞬間、少女は声を漏らした。


「……わ、ほんとに……」


 島田も同じだった。宇宙が一般化したといっても、実際に無重力になる瞬間が“日常”になるわけではない。彼は、ベルトの緩みを指で確かめながら、窓に顔を近づけた。

 地球は、丸かった。写真や映像で散々見たはずの丸さが、目の前にあるだけで別物になる。夜側では都市の光が神経の網のように走り、昼側では雲が白い傷跡のように流れていた。薄い青い膜が縁を縁取っている。大気だ、と頭では分かっていても、目は「膜」としか捉えられない薄さだった。


「これ、ヤバいね」


 少女が、語彙の少なさを恥じる余裕もなく言った。


「ヤバいな。……昔、宇宙飛行士の言葉だと“概観効果”とか言ってた。今じゃ修学旅行で体験する」


「修学旅行、宇宙行ける学校なんて、結局、都会だけですよ」


 少女の声が、急に刺々しくなった。地球が丸いことと、自分の生活が窮屈なことは、同じ景色の中に同居できるらしい。


「おじさんは、なんで来たの?」


 島田は少し黙った。薄い青の膜を見ていると、嘘が粗雑になる。


「……リストラだ。年末に紙一枚で終わった。今どき珍しくもないが、いざ自分の番になると、案外、立っていられない」


「だから宇宙?」


「地上にいると、全部、目に入るんだよ。通勤路も、駅の広告も、家族の顔も。自分が“外れた”ってことを、何度でも確認させられる」


 少女は、窓の外を見たまま言った。


「わかる。だから私も家出した」


「理由は、進路か?」


「進路っていうか……割り当て。うちの県、宇宙産業の人手不足で、適性検査の結果でほぼ決まるんです。地上の大学に行きたいって言ったら、“もったいない”って。もったいないって何。私の人生、誰の在庫ですか」


 宇宙が一般化した世界の価値観は、夢を叶えるというより、労働を配分する仕組みに似てきている。軌道上のホテルも、月面の観光施設も、結局は誰かの保守で成り立つ。かつて“フロンティア”と呼ばれた場所は、今では“職場”になった。


 島田は苦笑した。


「君、口が立つな」


「家にいると、言葉が増えるんです。言い返さないと、飲み込まれるから」


 少女は一度だけ島田を見た。目が乾いているのに、どこか涙の跡がある。泣き終わった顔ではなく、泣く順番を後回しにしている顔だった。

 周回は静かに進んだ。機内放送が、淡々と次の見どころを告げる。


「右手にオーロラ帯が見えます。気象庁のライブ配信と同期しています」


 “ライブ配信と同期”。宇宙の景色すら、地上の情報サービスの一部として扱われる。少女はそれが気に入らないのか、放送が流れるたびに眉をひそめた。


「ねえ、おじさん」


「何だ」


「このツアー、ほんとに“地球一周”なんですよね」


「そう書いてある」


 島田がチケットの表示を見せると、少女は画面の端を指で叩いた。


「ここ。小さい字」


 島田は目を凝らした。文字は確かに小さかった。小さすぎて、読まれないことを前提にしている小ささだ。


『本便は地球周回軌道を一周します。帰還の可否は、到着後の手続きにより決定されます。詳細は契約条項を参照。』


「帰還の可否って、何」


 少女が、妙に落ち着いた声で言った。


「……格安だから、抽選とか? 追加料金とか?」


「ふうん」


 少女は笑った。初めて見せる笑みなのに、温度がなかった。


「おじさん、ほんとにリストラ?」


「……何が言いたい」


「リストラって、“外された”って言うけど、外されただけで終わる人って、今、少ないですよね。再配置、転籍、派遣。人は部品だから」


 その言葉が、胸の奥に刺さった。島田は、自分がまさに“再配置”の対象だということを、年末の紙が届いた瞬間に薄々感じていたのかもしれない。リストラ通知の封筒に、見慣れないロゴが印刷されていたのを思い出す。宇宙開発局と、民間の共同基金。

 そのとき、機内放送の調子が少しだけ変わった。丁寧さは同じなのに、言葉の選び方が“業務”になった。


「乗客の皆さまにご案内いたします。本便は周回を完了しました。これより係員が順次お呼び出しします。呼名された方は、前方ハッチへお越しください。帰還カプセルの割り当て手続きを行います」


 呼名が始まった。番号。名前。番号。名前。

 少女の名前が呼ばれた。

 彼女は、ベルトを外し、手すりを掴んで軽く蹴った。無重力の動きは、慣れている人のそれだった。家出した高校生の、初めての宇宙旅行の動きではない。

 島田の喉が乾いた。


「君……」


 少女は、ハッチの手前で振り返った。


「おじさん、私、家出中って言ったよね。半分だけ本当」


 彼女は、自分の手首のバンドを示した。健康端末の裏に、別のタグが貼ってある。


『軌道労務研修生 ミナ』。


「研修生?」


「軌道の人手不足、知ってるでしょ。格安ツアーって、ただの観光じゃない。人を連れてきて、選別して、必要なところに置く。地上で“外れた”人も、宇宙では“足りない”になる」


 少女は、まるで授業の復習みたいに、淡々と言った。


「私、地上の割り当てが嫌だった。だから、宇宙の割り当てに賭けた。ここなら、誰の娘でも誰の生徒でもなくて、ただの“手”になれるから」


「……そんなために、家を?」


「家にいたら、決められた道の上で窒息する。だったら、自分で窒息する場所を選ぶ」


 言い方が、残酷なほど正確だった。

 呼名は続く。島田の名前は、なかなか呼ばれない。少女の背中が、ハッチの向こうに消える直前、彼女は最後に言った。


「おじさん、“帰還の可否”って書いてあったでしょ。可否って、選ばれるかどうかじゃない。帰る理由があるかどうか。……おじさん、地上に戻って、何するの」


 島田は答えられなかった。家族の顔が浮かぶ。けれど、それは“戻る理由”というより、“戻らなければならない義務”に近かった。戻ると決めた瞬間から、また同じ目に晒される。外れた自分を、何度でも確認させられる。

 そのとき、係員が島田の前に来た。クリップボードではなく、薄い端末を持っている。


「島田様ですね。こちらへどうぞ」


「帰還カプセルは……」


 係員は、笑顔のまま、言葉だけを落とした。


「島田様は本便の“地球一周”完了に伴い、軌道施設への移送対象となっております。契約条項に基づき、まずは任期六か月。地上への帰還手続きは任期後に可能です」


 島田の耳が、じわりと熱くなった。打ち上げの振動よりも、ずっと鈍い衝撃だった。


「……俺は、旅行で——」


「皆さま、同じようにおっしゃいます。格安の理由は明示しておりますので」


 係員の口調は丁寧だ。けれど丁寧さが、断れないという意味であることを、島田はよく知っていた。地上でも、宇宙でも、丁寧な言葉ほど人を縛る。

 窓の外で、地球が回っている。青い膜が薄く光る。あの膜の内側に、戻れないのかもしれない。いや、戻るかどうかを決められるのは、任期の後だ。

 島田は、ふと少女の言葉を思い出した。

——ここなら、ただの“手”になれる。

 自分は、外されたのではなかった。配置換えだ。地上の職場から、軌道の職場へ。リストラという言葉は、本人に“終わった”と思わせるための包装だった。終わってなどいない。終わらせてもらえない。

 ハッチへ向かう通路で、島田はもう一度だけ振り返った。窓の向こうに、地球がある。今の世界では、地球を見ることは特別ではない。週末の体験だ。修学旅行のオプションだ。格安ツアーの売り文句だ。

 それでも島田は、青い膜の薄さに、初めて本気で恐怖を覚えた。

 あれほど薄いものが、自分の“帰る場所”だったのだと。薄すぎて、契約条項の小さな字のように、読まれないまま通り過ぎてしまうほどに。

 通路の奥で、少女——ミナが、手すりに指を絡めて待っていた。家出中の高校生の顔ではない。これから研修に入る労務者の顔だった。彼女は島田を見て、小さく頷いた。


「ね。地球一周って、こういう意味だった」


 島田は息を吐いた。無重力の中では、吐息すらまっすぐに落ちない。


「……俺の人生も、一周しちまったのか」


「一周したなら、次の周に入るだけ。宇宙は、周回でできてるから」


 その言葉が慰めなのか、呪いなのか、島田には判別できなかった。ただ一つ確かなのは、格安ツアーの終点が、地上ではなかったという事実だけだった。

 窓の外で、地球は静かに回り続ける。誰の事情も知らないまま。誰の契約も読まないまま。薄い青の膜をまとったまま。


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