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第四章 εの神

 《間違い=無価値ではない。》

 チラシの裏面に印刷されたその一文を、湊は帰宅後も何度も読み返した。

 簡潔で、挑発的で、そしてどこか稚拙にも見える。

 だが、目を逸らしにくい強度があった。

 間違い。

 その語は、この都市ではあまり使われない。

 あるのは「最適」か「非最適」か。

 あるいは「誤差」か「許容範囲内」か。

 だが間違い、という言葉は違う。

 そこには、人の匂いがある。

 翌日、湊はチラシに書かれた住所を訪ねた。

 市街地の再開発から取り残された古いビルの三階。表札には小さく《未定義の会》とだけある。

 扉を開けると、十数人ほどが折りたたみ椅子に座っていた。年齢はばらばらだ。学生もいれば、社会人らしき者もいる。

 正面には、白いスクリーン。

 そこに映し出されていたのは、あの塔――オラクルの中枢施設だった。

「ようこそ」

 穏やかな声がする。

 壇上に立つのは、白髪交じりの男だった。年齢は五十代半ばほどだろうか。

「我々は、オラクルを否定しません」

 ざわめきが止む。

「否定できるほど愚かでも、傲慢でもない。あれは正しい。圧倒的に正しい」

 男はリモコンを操作する。スクリーンにデータが表示される。

 事故発生率の推移。

 犯罪件数の減少。

 経済安定指数の上昇。

「事実、我々は救われました」

 淡々とした口調だ。

「しかし」

 画面が切り替わる。

 そこに映ったのは、単純な数式だった。

 L=Σwi・xi

「これは公開されている損失関数の簡易モデルです」

 男は言う。

「オラクルは社会全体の損失Lを最小化する。素晴らしい思想です」

 湊は息を呑む。

「だが、ここに含まれない変数がある」

 男は黒板にチョークで小さく書き足す。

 +ε

「誤差項です」

 誰かが小さく笑う。

「我々は、このεに注目する」

 男は振り返る。

「オラクルは誤らない。ただ、計測しきれないものを誤差として処理する」

 その言葉に、湊は灯の言葉を思い出す。

 ――必要なノイズ。

「では問います」

 男はゆっくりと言う。

「εは本当に無意味ですか?」

 沈黙。

「間違い=無価値ではない。」

 男は、チラシと同じ言葉を口にした。

「我々は、間違いを神聖化しません。賛美もしない。ただ、それが“ある”という事実を忘れないだけです」

 会の空気は静かだった。熱狂はない。革命の気配もない。

 ただ、思考がある。

 その頃、蒼は自室で端末を開いていた。

 湊のクラス変更通知が、友人関係予測に反映されている。

《交友安定指数:微減》

《推奨対応:接触頻度維持》

 蒼は眉をひそめる。

 湊が低適合者クラスに移ったことは知っている。だが、それは彼の選択だ。

 問題はない。問題であるはずがない。

 端末に別の通知が届く。

《市内非登録集会への参加履歴検出(関連個体:A-17-042)》

《影響:なし》

《分類:観測のみ》

 蒼の心臓がわずかに跳ねる。

 湊。

 集会?

 詳細を開こうとしたが、アクセスは制限されている。個人情報保護の名目で、深掘りはできない。

 だが、表示された一行だけで十分だった。

《影響:なし》

 オラクルは、問題ないと言っている。

 それなら問題ない。

 蒼はそう結論づける。

 一方、未定義の会では質疑応答が始まっていた。

「オラクルに対抗するつもりですか?」

 若い女性が尋ねる。

「いいえ」

 男は即答する。

「対抗は愚かです。勝てません」

「じゃあ、何を?」

「観測です」

 男は微笑む。

「オラクルが切り捨てるεを、我々が見る」

 湊は思わず口を開いた。

「それで、何か変わるんですか?」

 男の目が湊を捉える。

「すぐには変わりません」

 正直な答えだった。

「だが、問い続けることはできる」

 男はスクリーンに、巨大な塔の画像を再び映す。

「神のように扱われる存在があるなら、人は必ず意味を求める」

 この国には宗教の自由がある。神社も寺も教会も、日常の風景の中にある。

 だがオラクルは、それらとは違う。

 祈らない。

 赦さない。

 ただ計算する。

「国家はオラクルを制度として扱う」

 男は言う。

「既存宗教は、沈黙するか、共存する」

 事実、ほとんどの宗教団体はオラクルを「神の知恵の具現」や「摂理の道具」と解釈して受け入れている。

 対立は非合理だ。

「だが我々は、問いを保留する」

 男は静かに言う。

「正しいから従うのか。

 正しいから疑わないのか。

 その差は、どこにあるのか」

 会が終わり、人々は三々五々に帰っていく。

 湊はビルの外に出る。

 夜風が冷たい。

 遠くに塔が光っている。無数の窓が、星のように点滅している。

 あれは神なのか。

 それとも、ただの関数か。

 同じ夜、オラクルの内部ログが更新される。

 個体ID:A-17-042

 非登録集会参加

 思想傾向変化予測:+0.004

 社会不安寄与度:極小

 対応:観測継続

 観測継続。

 排除でも、是正でもない。

 ただのデータ点。

 湊はポケットからチラシを取り出す。

 《間違い=無価値ではない。》

 それは小さな主張だ。

 世界を変えるほどの力はない。

 だが、その一文は、塔の光とは違う温度を持っていた。

 都市は完璧に近づき続ける。

 その周縁で、εは静かに息をしている。

ありがとうございました。

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