第一章 最小化
朝霧湊は、目覚ましの音ではなく、窓に映った通知の光で目を覚ました。
――本日の社会損失予測値、前日比マイナス0.02%。
薄青い文字が、淡く点滅している。都市の中心に設置された統合最適化AIの朝の速報だ。事故件数、急病搬送、株式変動、精神疾患発症リスクまで、すべてを統合した損失関数L。その値が、今日もわずかに下がったらしい。
「……すごいな」
感心しているのか、呆れているのか、自分でもよくわからない声が漏れた。
六年前。世界規模の経済崩壊と、それに続く都市暴動を経て、《オラクル》は本格運用を開始した。政治家は残っているし、選挙もある。神社も寺も教会も変わらず街にある。信仰の自由も、もちろん保障されている。
けれど。
進学も、就職も、結婚も――人が何かを「選ぶ」とき、最後に参照されるのは神託ではなく、オラクルの提示する最適解だった。
湊の手首の端末が震える。
《本日10:00 進路最適化仮決定 未入力》
高校二年。将来の進路を本格的に定める時期だ。
制服に着替えながら、湊はふと考える。
最適解を選べば、失敗の確率は限りなく低い。統計上、幸福度も高い。収入も安定する。結婚相手との離婚率も、一般平均より低くなる。
それでも。
教室に入ると、すでに多くの生徒が端末を開いていた。空気はどこか、試験前のように静まり返っている。
「おはよう、湊」
振り向くと、蒼がいた。正答率98%。校内トップクラスの適合指数を誇る、いわば優等生の象徴だ。
「今日だな、仮決定」
「うん」
「俺、もう入力したよ。第一志望そのまま。オラクルも一致。ズレなし」
蒼は笑う。曇りのない顔だ。
「迷わないのか?」
「迷う必要あるか? 最適解だぞ?」
軽く肩をすくめる仕草すら、どこか合理的に見える。
十時ちょうど、教室の前方スクリーンが点灯した。
《進路最適化 仮提示》
生徒一人ひとりの端末に、将来予測グラフが表示される。年収推移、精神安定指数、健康寿命。緻密な曲線が、まるで運命の設計図のように並んでいる。
湊の画面にも、それは現れた。
《推奨進路:都市インフラ管理技術者》
《社会損失低減寄与率:+0.00021%》
《個人幸福予測値:高》
悪くない。むしろ良い部類だ。
だが、指が動かない。
確定ボタンが、淡く光っている。
「どうした?」
蒼が覗き込む。
「いや……ちょっと」
「またかよ。お前さ、わざわざ外す意味あるの?」
悪意はない。純粋な疑問だ。
湊は画面を見つめる。
最適解。
最小損失。
安定。
頭では理解している。オラクルは間違えない。少なくとも人間よりは、ずっと。
それでも、胸の奥に小さな違和感があった。
この道を選んだとき、確かに不幸にはならないだろう。
けれど――
「……保留」
小さく呟き、湊は確定ではなく「未入力」を選んだ。
画面に警告が表示される。
《未入力状態は予測精度を0.002%低下させます》
教室の空気が、わずかに揺れた気がした。
「おい、本気か?」
「うん。ちょっと考える」
蒼は困ったように笑う。
「好きにすればいいけどさ。最適解に逆らっても、何も起きないぞ?」
「……わかってる」
本当に、何も起きない。
放課後、校内システムのログに記録が残る。
個体ID:A-17-042
選択:未入力
ΔL:+0.0000031
分類:許容誤差内
対応:不要
都市全体の損失関数Lは、今日も順調に減少していた。
事故は起きない。
暴動もない。
失業率は安定している。
湊の未入力は、海に落ちた小石のようなものだった。波紋はほとんど広がらない。
帰り道、駅前の広場を通る。中央には、象徴的な塔が立っている。中枢サーバは分散しているが、人々はそこを「オラクルの塔」と呼んでいた。
神社では巫女が掃除をしている。寺の鐘が遠くで鳴る。
祈る自由はある。
けれど、決めるのはオラクルだ。
湊は塔を見上げた。
「不正解って、そんなに悪いのかよ」
誰に向けたわけでもない問いは、夕暮れに溶ける。
答えは、返ってこない。
ただ端末が静かに震えた。
《再入力期限:残り48時間》
世界は今日も、正しく回っている。
その正しさの中で、湊はまだ何も選んでいなかった。
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