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 翌朝、ロランの部屋の前に到着したセレナは、扉前に静かに佇む近衛兵に軽くお辞儀をして、扉を見つめた。

 緊張から無意識に震えだした手を押さえ、静かに深く息を吸う。

 セレナは本来、コミュニケーションがさほど得意ではない。伯爵夫人として最低限の社交はこなしてきたし、使用人たちとも良好な関係を築いてきた。けれど、それはオディロンという有能な夫がいたからこそ成立していたものだ。本来のセレナはとても引っ込み思案で、人見知りなのだ。


 学生の頃も、ほかの令嬢と親しくなるまでに時間がかかったセレナは、一人で行動することも少なくなかった。

 伯爵夫人として何度か王族と挨拶をした経験はあるものの、形式的な挨拶をすれば乗り切れるような場面ばかりだった。侍女として王族の身の回りのお世話をするのとは、わけが違う。

 しかしこれは仕事だ。やらなくてはならない。エリーゼからも期待をされている。その期待に応えたい。

 元来の真面目な性分で己を奮い立たせ、セレナは腹部にぐっと力を込めて目の前の美しい彫刻が施された木製の扉を軽くノックした。

 

「…………」

 

 しかし、たっぷり十秒待っても返事がない。時刻は七時を回っているが、ロランはまだ起きていないのかもしれない。

 エリーゼに聞いた間取りによると、手前の部屋は使用人の控室、その奥にロランが主に過ごす居間があり、さらに奥には書斎、最奥に寝室と浴室があるという。

 手前の控室にロランがいることはないため、ノックは入室の許可を得るものではなく、単に訪問を知らせるという意味合いが強い。

 エリーゼからは、ノックをして入室を拒む声が聞こえなければ入ってもいいとあらかじめ言われていたため、セレナは心の中でさらに五秒カウントして、ドアノブに手をかけた。

 

「失礼いたします」

 

 扉を開けると、調度品が二、三カ所飾られた広い空間が広がる。奥行きは十メートルほど、幅は七メートルほどだろうか。本来であれば、侍女のほかに複数人のメイド、近衛騎士や従僕などが入れ代わり立ち代わり訪れるはずのこの部屋は、ひどく殺風景だ。

 人を寄せ付けないというロランには最低限の使用人しか宛がわれていないというのは、この部屋を見れば一目瞭然だった。おそらく、セレナ以外でロランに近しい使用人は扉の前に立っている近衛兵くらいなのだろう。

 人を寄せ付けないというロランの状況を知るには十分な光景だった。


 控室の端には簡易的なキッチンがあり、軽食や飲み物はここで用意できるようだ。

 部屋の奥にある扉は居間に続く入口だろう。

 セレナは再度大きく深呼吸して控えめにノックした。

 

「失礼いたします」

 

 扉を開けた最初の印象は、花の香りに包まれている部屋だということだった。

 窓辺のレースカーテンがなびいているのが見え、外から流れてきた香りだろうかと視線を窓の向こうへ向けると、色とりどりの花が美しく咲いているのが見えて、目を見張る。

 ロランの側付きになると決まってから、侍女仲間にロランについての情報を教えてもらっていたセレナは、思わず胸がきゅっと痛んだ。

 幼少期のロランは花を愛でるのが好きだったという。

 この西棟に面した庭園に色とりどりの花が咲いているのは、当時から勤めている庭師が変わらず手入れをしているからだと教えてくれた。かつては蝶々や庭師と戯れるロランの姿があり、西棟はとても賑やかだったそうだ。

 きっと王城の者たちはそんなロランの姿に癒されたことだろう。


 セレナは今のロランの状況を思い、胸を痛めた。

 当たり前のように感じていた味覚や嗅覚が、ある日突然失われる絶望感は察するに余りある。

 状況は違うものの、心神喪失で自室に閉じこもっていた経験があるセレナは、無気力になる気持ちが少なからず理解できる。その期間が長くなればなるほど心はどんどん塞ぎこんでしまうものだ。

 エリーゼが言っていたように、その心をこじ開けることは逆効果だと改めて感じた。


 そうして窓辺に佇むロランに挨拶をしたセレナだったが、結果、冒頭のやりとりがあり、わけも分からないままロランに濃厚な口づけをされてしまったのだ。

 胸を押し、腕を押してもびくともせず、抵抗すればするほどセレナを抱き寄せるロランの腕に力がこもった。

 じゅ、じゅじゅ……と卑猥な唾液の音が耳の奥で響き、羞恥と動揺でセレナは内心パニックになる。

 まだ城勤めを始めて一カ月のセレナには、王族相手にどの程度抵抗をして良いかもわからない。

 混乱している間にも、口内はロランによって隅々まで犯され、呼吸がままならなくなっていった。


「は……」

 

 ようやく解放されたのはどれくらい経ってからだっただろうか。

 ロランが熱っぽい吐息とともに唇を離したときには舌に痺れるようなだるさがあった。よほどの長い時間、舌に力が入っていたのだと自覚する。

 うっすらとまぶたを開ければ、セレナとロランの間を透明な糸が引いているのが見え、咄嗟に視線を逸らす。

 初対面のロランから濃厚な口づけをされたセレナは、生理的に溢れた涙をぬぐい、緩められた腕の中から逃げようと体をひねった。しかし、まるで生気を吸われたかのようにセレナは脚がガクガクと震え、立っていることすらままならなくなっていた。

 カクン、と揺らいだセレナの細腰をロランは難なくすくい、セレナの視界は再びロランでいっぱいになる。

 ロランは自分の唇にまとわりつく唾液を味わうように舌をゆっくりと這わせ、恍惚とした表情で宙を見ていた。

 

「甘い……」


 宙を見ていた瞳だけが、セレナを見下ろす。

 目が合ったセレナは心臓を掴まれたように恐怖で身動きができなかった。


「おまえは何だ」

「っ…………?」


 儚くも美しい中性的な容姿からは想像もつかない低い声質に、セレナはゾクリと背筋が凍る。

 質問の意図がわからず、セレナは喉の奥を詰まらせた。

 セレナのお仕着せを見れば侍女だということは一目瞭然のはずだ。

 質問の意図は別にある。

 この短時間の間にセレナが聞いた彼のセリフから導きだされる質問の意図は、『今まで匂いも味もわからなかったのに、なぜおまえからそれらを感じるのか』ということなのだろう。

 しかし、セレナはその答えを持ち合わせていなかった。

 

「あの、殿下……ひとまず放していただけますか……?」

 

 視線を外したまま軽くその胸を押して上体を反らすと、ロランは腰に回す腕にさらに力を込め、さらにはロランの胸を押した手を封じるように掴んだ。


「質問に答えろ。お前は何者だ」

「…………わ、私は本日付で殿下の側付き侍女を仰せつかりましたセレナと……」

「そうではないっ。なぜおまえからこんなっ……――――こんな……」


 激しい運動をしているわけでもないのにロランの息が上がり、セレナの首筋に吸い寄せられるように顔を埋める。

 セレナの肌にロランの荒い息が吹きかけられ、かと思えば思い切り吸う音が聞こえ、思わずこみ上げてくる感情から目をそらすようにセレナは首を横にひねった。


「ずっと……もう一生……感じることはないと思っていたのに……」


 絞り出すような声にロランの困惑がうかがえて、セレナは胸の奥がぐっと縮む。

 なぜかはさっぱりわからないが、自分の存在がロランの障害緩和したのかもしれないと思えば光栄だとは思った。しかし、この状況は看過できない。

 侍女である自分が王族に抱きしめられているのをもし誰かに見られでもしたら大問題だ。

 線が細く華奢に見えたロランだが、セレナを抱きしめる力は正真正銘の男のものだった。

 骨がきしむほどに力強く抱きしめられ、苦しさを感じ始め、セレナはいよいよ焦り始める。


「殿下、お願いです。力をっ……力を緩めてくださいませんか」

「…………」

「い、痛いのです……お願いします、殿下」


 ひと回り年下とはいえ、相手は立派な成人男性だ。

 どんなにロランが細身であったとしても、セレナは力では劣ってしまう。


「私は殿下の側付きなのです。これからもお傍にいます。ですから今は……」

「お前はずっとここにいろ」

「え、えぇもちろんです。それが私の仕事ですので殿下がお嫌でなければお傍におります」

「…………」


 ロランからの返事はなかった。

 けれど、セレナを拘束する腕から少しずつ力が抜けていくのを感じ、セレナは内心ほっとする。

 握りこまれていた手もゆるゆると解放され、血が通い始めたのかじんじんと痺れを感じた。

 ロランを刺激しないようゆっくりと体を離したセレナは、いまだ心臓が飛び出るくらい激しく動揺しているのを何とか押し殺し、平常心を顔に貼り付けた。


「朝食をお持ちいたします。しばらくお待ちくださいませ」


 基本の姿勢で美しくお辞儀をしたセレナは無駄のない動きでいったん退室した。

 その後ろ姿を見つめ、彼女の残り香を肺いっぱいに吸い込むロランの姿があったことを彼女は知らない。




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