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 セレナは伯爵家当主だった夫を一年前に亡くし、その喪失感からずっと抜け出せないでいる。


 約十二年前、子爵令嬢だったセレナは家族づきあいのあったアヴェストロ伯爵家のオディロンと政略結婚をした。二歳年上のオディロンは伯爵になりたての二十歳だった。

 彼は穏やかで思いやりがあり、領民からも慕われており、セレナも人としてとても尊敬していた。結婚後、子どもには恵まれなかったものの、オディロンと過ごす日々はとても穏やかで、平和で、幸せだった。政略結婚をした仲ではあるものの、お互いまじめな性分が良い方向に向いて強い信頼関係で結ばれた、とても理想的な関係だったのだ。

 恋をした期間はなかったけれど、そこに確かに愛はあったと言える。


 そんな人生のパートナーを喪ったセレナは、伯爵家当主がオディロンの弟になったのを見届けて、自分の意志で王城の侍女になることを決めた。

 伯爵家にやってきた義弟夫婦は、オディロンを亡くして心身が弱っていたセレナに親切に接し、献身的に支えてくれた。オディロンの死から半年ほど経って、セレナが住み込みの王城勤めをしようと思っていることを伝えた際も、真剣に引き止め、ずっと屋敷にいていいと言ってくれたほどだ。

 けれど、セレナ自身がそれを断ったのだ。

 オディロンとの思い出が否応なく思い出される伯爵家にいるよりも、物理的に離れてしまった方が心の負担は軽くなると考えたからだ。

 

 幸いなことに、王城勤めについてはとんとん拍子に話が進んだ。

 通常はいくつもの審査、面接を経て決められる王城の侍女採用は、オディロンの幼馴染である王妃の口添えのおかげで半月も経たずに決まったのだ。

 王城勤めの侍女は一般的な女性が働いてもらう給金よりも高い給金がもらえるということもあり、女性の働き口として憧れの職業だ。しかし、王城という巨大なシステムを維持する裏方として規律と最上級の礼儀を重んじるため、勤め続けることは並大抵のことではない。

 セレナは生家の子爵家で培った淑女教育や、伯爵夫人としての経験、なにより真面目な性分が相まって厳しい規律の中での王城勤めも、問題なくこなしていけていた。

 目の前の仕事に精一杯向き合い、何も考えられなくなるくらい忙しくしていたい。それが本音だった。

 実際、目の回るような忙しさであったけれど、夜ベッドに入れば気絶するように眠りにつけることは、今のセレナにとってはとてもありがたかった。

 少しでも気が緩むと、たちまちセレナの心はオディロンの死に苛まれてしまうから……。


 王城勤めを始めてからちょうど一カ月が経った頃、セレナは侍女頭エリーゼに呼び出された。

 彼女は王城で二十年以上仕えていて国王や王妃からの信頼も厚いという噂だ。その見た目からおそらく年齢は四十代後半から五十代前半程度。丸ふちの眼鏡をかけて前髪から後ろ髪までをきっちり遊び毛一本もなくひとまとめにしている、いかにもな姿だ。悪魔のように恐ろしいと例えられる彼女は、侍女たちから遠巻きにされている存在だ。


 しかし、セレナはこの一カ月エリーゼが他の侍女を指導している様子を遠巻きに見て、その指摘が間違っていないということを理解していた。理不尽に注意することなど一度もなく、何ら間違ったことは言っていないのだ。ただ、言葉を飾らず、無表情なままはっきりした物言いをするため、内容以上に恐怖を与えてしまうようだ。それがわかってしまえば、なんということはない。まじめに粛々と仕事をこなせばエリーゼから叱責されることないということだ。


 現に、侍女見習いであった期間を含め、セレナは今までエリーゼに小言や叱責を受けたことがなかった。新人ができることなど限られてはいるが、だからこそ与えられた仕事ひとつひとつを丁寧に、且つ完ぺきにこなしてきた。彼女からの視線は何度も感じていたが、エリーゼが一度も小言を言ってきたことがないということは、つまりセレナの推測がほぼ当たっているということなのだろう。

 そんなエリーゼからの呼び出しに、セレナは少なからず緊張した面持ちで彼女と相対した。

 

「仕事中に呼び出してしまって悪いわね」

「かまいません」


 セレナは普段通りの変わらぬ美しい立ち姿のまま端的に答える。視線はエリーゼの視線から意図的に少し下へずらしている。目上の人の目を直視することは不敬とされるからだ。

 セレナは自分に向けられている視線を感じながら、両手をへその上で重ねる基本の姿勢でじっと侍女頭の言葉を待った。


「あなたには、明日から特別な仕事をお願いしたいと思っています」

「……はい。なんなりと」


 大きくもなければ小さくもない声。しかし一言一句は洗練された美しい発音で相手の鼓膜を心地よく揺るがす。

 親の方針で幼少期より王族にも劣らぬ厳しい淑女教育を受けてきたセレナは休憩の時間でさえも背筋をピンと伸ばし、淑女の見本のような所作で過ごしている。豪華なドレスを着て歩いていようものなら王族と見間違うほどだろう。

 質素な装いをしていても気品漂う佇まいによって同僚からは一目置かれる存在となっていた。

 侍女頭であるエリーゼもセレナを特別視している一人である。


「西棟の第五王子殿下付きとしてお勤めをお願いしたいのです」

「第五王子殿下……ロラン殿下、ですね。承知いたしました」

「ええ、そう……なのだけど――」


 エリーゼらしからぬ歯切れの悪い言葉に、セレナははたと目を瞬かせ続く言葉をじっと待つ。

 第五王子のことでセレナが知っている情報といえば、病弱で線が細く、滅多に人前に姿を現すことのない王子だということ。もう十八歳になるというのに婚約者はおらず、社交界にも顔を見せず自室に引きこもっていると聞いたことがある。


 実際セレナは過去に出席した王城でのお茶会や夜会で第五王子の姿を見かけたことは一度もなかった。

 容姿の噂は誇張してあるのか幽霊のようであるとか、女と見間違えるほどの華奢な体だとか、そうかと思えば野獣のように恐ろしい姿だというものもあった。

 過去に聞いた噂を思い浮かべ、エリーゼの様子と『特別な仕事』と言っていたことも鑑みれば、第五王子には何かしらの「難」があると予想してしまうのは自然なことだろう。


 適切な言葉を探しているのか、軽く握った手を口元に添え思案していたエリーゼの視線がふいにセレナへ戻される。

 これから話すことは他言無用だと念押しした上で、エリーゼは重たい口を開いた。


「もしかすると噂程度には耳にしているかもしれませんが、殿下は少々可哀そうなご病気を患っていらっしゃいます」

(可哀そうな病気……?)


 セレナの不思議そうな顔を見たエリーゼは、セレナが何も知らないのだと察し姿勢を正し静かに告げる。


「殿下は十歳の頃から何を口にされても味がわからなくなりました。それと同時に香りも一切感じなくなり、以来お食事をまともに口にされたことはありません。お医者様より処方される栄養剤が殿下の命をつないでいると言っても過言ではない状態です」

(味覚障害と嗅覚障害ということかしら……?)


 どちらも同時に抱えてしまった第五王子のことを思い、セレナは表情を曇らせた。

 ある日突然、しかも多感な時期にそれまで感じられた感覚を失ってしまう絶望感を想像すると、心臓の奥が痛みに悲鳴を上げそうだ。人間の体は栄養剤だけで保てるのだろうか。いやそんなわけはない。それは食の知識など一般レベルしかないセレナでもわかる。

 王城に仕える使用人は国の中でもトップクラスの知識を終結したプロフェッショナルな集団だ。そんな使用人たちが食事をとらない王子に進言しないわけがないのだ。けれどそうせざるを得ない状態にあるのだろう。

 つまりは、王子自身が激しく拒絶をしているということだ。


「…………殿下がそのようなことになっているとは存じ上げず」


 言葉を探してようやく返した言葉に、エリーゼは神妙な面持ちで頷く。


「ええ、そうでしょうとも。これは極秘事項にあたることで、本来なら『外』の人間は知り得ないものです。ただ、人の口に戸は立てられませんからね。知っている者も少なくはないのです」


 王城で仕える者も入れ替わりがある。王家とかかわる外部の者だって当然いる。そうなると秘密にしていることであっても漏れてしまうことがあるのだろう。


「ロラン殿下の侍女として働いてもらうには、殿下の事情を把握している必要があるのでセレナさんにはお伝えしましたが、くれぐれも口外はしないようにしてくださいね」

「承知しました」


セレナの淀みない返事に、小さくうなずいたエリーゼは浅く息を吐くと言葉を続けた。


「殿下は日中のほとんどを自室でお過ごしでいらっしゃいます。ただ、その接し方が少々難儀なのです。今まで何人の侍女が辞めたことか……。それでも王子のお傍に誰も置かないわけにはいかないのです」


 どんなに性格に難があったとしても王位継承権を持つ尊い存在には身の回りの世話をする使用人がつく。それは防犯の意味も兼ねているからだ。王家に仕える使用人は国にとっての宝を守る盾にもなる重要な存在だ。

 貴族社会で生きてきたセレナはエリーゼの言葉の意味を理解し、相槌を打った。


「私もかつてはロラン殿下の側付きとしてお仕えしていたのですが、王妃殿下の側付き侍女が結婚を機に辞めてからは、私が王妃殿下のお世話役を担うことになり、ロラン殿下の側付きは別の侍女にお願いするようになったのです」


 エリーゼは自分がロランに仕えていたときの様子もセレナに伝えた。

 長年王城で仕えしている経験をもってしても第五王子相手では全く経験が役に立たなかったと悲し気な表情で話す。幼い頃の無邪気な姿を知っているが故に、今の様子を見るとつらいのだと本音を吐露した。


「欲を言えば殿下が今の状態から少しでも良い方向へ向かうように力を尽くしてほしいのですが、無理にその心をこじ開こうとするのは厳禁です。過去にそれで暴力を振るわれた侍女がいるので、そうなるくらいなら、つかず離れずの距離感で最低限の側付きとしてのお役目を担ってほしいと思っています。セレナさんなら……と思っているのですが、務めていただけないかしら」


 エリーゼの声色からは気遣いが窺えた。他の侍女やメイドたちがエリーゼのことを何と言おうとも、セレナはとても良い上司を持てたことを内心とても嬉しく思い、静かにひとつ呼吸する。


「誠心誠意お仕えいたします」


 いつも通りの凛とした澄んだ声に、エリーゼがわずかに肩の力を抜いた。


「……そう。よかったわ。正直、あなたには侍女として何も言うことはないのでとても期待をしています。本当は他の仕事をしてもらいたい気持ちがあるのだけれど、抜けた穴を埋めなくてはならなくて……。他に適任がいれば交代も検討するので、それまではどうかお願いします」

「はい、謹んでお受けいたします」


 セレナは揃えた手をへそ上に固定したまま瞼を閉じてお辞儀をした。


「しばらくは慣れないことで大変かとは思いますが、頼みますよ」


 セレナはその言葉を聞いて心なしか安堵した。忙しければ忙しいほどセレナにはありがたいからだ。余計なことを考えずに済む。それが今のセレナには一番必要なことなのだ。

 夫を亡くして一年。どうしたって塞がることのなかった心の穴は今もぽっかり開いたままだ。

 しかし、やるべき仕事を前にすれば、セレナの真面目な性分のおかげで鬱々な気持ちは鳴りを潜めた。雑な布をかぶせただけの心には、忙しさはありがたい。

 むしろ忙しくしなければまた(・・)自分は壊れてしまう。


 セレナにはそんな確信めいた予感があった。

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