プロローグ
その部屋は、墓所のように静かだった。
窓辺のアンティーク調の椅子に座る人影が、ゆったりとした動作で振り向く様子をセレナは息を呑んで見つめていた。
窓から入り込むゆるやかな風に、絹糸のようにやわらかな髪がなびいている。まるで夢の中に引きずり込まれたように、やけにスローモーション見えるのは、きっと目の前に見えているものが現実離れした美しさだからだろう。光をまとったアクアマリンのような澄んだ水色の瞳と目が合っても、人ごとのように見つめていられた。光に透けるプラチナブロンドの髪と真珠のように白い肌の美しさは、おとぎ話に登場する王子のイメージそのものだ。
精巧な人形のようにも見えるその人が、自分が仕えるべき『抜け殻の王子』――ロラン殿下だと理解したセレナは、自分を奮い立たせるように腹の底に力を入れる。足音を立てず歩み寄り、彼の三歩手前で足を止めると基本の姿勢で頭を下げた。
「お初にお目にかかります。本日より第五王子殿下の身の回りのお世話を仰せつかりました、セレナと申します」
ゆっくりと顔を上げると、ロランの瞳はすでにセレナから見えない方向へと向けられていた。
その視線を辿るように、セレナはレースカーテンの向こうに透ける、色とりどりの花を見やる。
庭師が整えているのだろう。とても美しい様は、庭師の植物への愛情を表しているようだった。
風に乗って部屋を満たすバニラのような香りはなんという花の香りだろうか。
セレナは伯爵夫人としていろいろな知識を蓄えてきた。その中には草花の知識も含まれている。知っている花と香りの情報を呼び起こし、目の前の花に目を凝らしてみた。
――その瞬間だった。
ガタッ、と椅子が倒れる乱暴な音が響き、次の瞬間、セレナの手首は万力のような力で掴まれていた。
「え……っ、でん、か?」
セレナは思わず目の前のロランを凝視する。
つい先ほどまで世界の何も映さず生気のなかった瞳が、今は熱を帯び、飢えた獣のような狂気を宿してセレナを射抜いていたからだ。
逃げなければ――。
本能が警鐘を鳴らすが、十八歳のロランの力は、女のセレナでは到底抗えないほどに強かった。
「……ぃ、痛い……!」
ロランはセレナの腕をさらに強引に引き寄せると、そのままセレナの首筋に顔を埋めた。熱い吐息が肌にかかる。ロランは肺が悲鳴を上げるのではないかというほど深く、何度も何度もセレナの匂いを吸い込んだ。
その異様な行動に、セレナの全身の毛が逆立つ。
(これは――何……? 私は何をされているの……?)
王族という尊い存在を相手に、抵抗もできないまま身を固くし、セレナはロランのなすがままになっていた。
一瞬垣間見たロランの熱のこもった視線が脳裏に蘇る。まるで、セレナを渇望するような熱い視線。
しかし、セレナにはそれが求愛からくるものには感じられなかった。
(あれは、別の……もっと、根源的な――――そう、『捕食』の合図だ)
震えるセレナの腰を引き寄せ、ロランが熱に浮かされたような掠れた声で囁いた。
「こんなことがあっていいのかっ! お前は……お前はなんだ!? どうしてお前からこんな香りがする!?」
「香り……?」
怪訝な顔で問い返したセレナだったが、途端、彼女の視界は彼のプラチナブロンドの髪に覆われ、理性ごと溶かすような暴力的な口付けに塞がれるのだった。




