異常な成長
そして、二日目の朝──
朝霧がわずかに残る庭に出ると、ひんやりとした空気と、土の匂いが鼻をくすぐった。
鳥のさえずりと、風に揺れる葉音が静かに響くなか、俺は植えたばかりのトマトの苗に目をやって、思わず足を止めた。
茎が太く、葉が昨日よりも一回り、いや二回りは大きくなっている。
まだ朝露をまとっているその葉先は、生き物のようにピクリと動いた気すらした。
「……こんな短時間で?」
思わず呟いた声は、朝の空に吸い込まれていった。
昨日の作業は鮮明に覚えている。土を掘って、根を整えて、優しく植えた。
それが──たった一晩で?
信じがたい気持ちを抑えながら、しゃがみ込んで苗に手を伸ばした。
触れた瞬間、根元の弾力が指先を押し返してくる。
驚くほど力強い。まるでこの小さな苗が、何か意思を持っているかのようだった。
そんなとき、不意に胸の奥がチリ、と疼いた。
何かが足りない。そんな“気配”が、どこからともなく伝わってくる。
喉の渇きではない。空腹でもない。
だが、確かに体の中から“呼びかけ”のような感覚がある。
──水だ。
根が、水を欲している。
どうしてそんなことが分かるのか、自分でも説明がつかなかった。
けれど、それは“確信”と呼べるほどに、体に染み込んでくる感覚だった。
俺はゆっくりとホースを手に取り、優しく蛇口をひねる。
細く静かに流れる水を、苗の根元に注ぐ。
苗の葉がそよっと揺れた。まるで安堵の息を吐いたようだった。
「……水が、欲しかったんだな」
思わずそう言葉にしたとき、胸の奥が温かくなった。
幼い頃、父が何度も言っていた言葉が浮かぶ。
――自然の声が聞こえるんだよ。だから、よく観察しなさい。
子どもの頃は、冗談だと思っていた。
けれど今、この苗と自分との間に流れる“確かなもの”は、まぎれもなく現実だった。
三日目。
朝、庭に出るたびに苗はどんどん変化していく。
葉はより広く、色は濃く、根元の土はふっくらとして温かい。
風が吹くたび、苗はまるで呼吸するように揺れていた。
四日目。
ついに小さな蕾のような膨らみが枝先にできていた。
花が咲く前兆。けれど、スピードが明らかに速い。
普通ならあと数週間はかかるはず。
「やっぱり、おかしい……」
そう思いながらも、水やりと観察を欠かさず続けた。
そして──五日目の朝。
縁側の障子を開け、外を見た瞬間。
息を飲んだ。
トマトの枝には、艶のある真っ赤な実がいくつも実っていた。
しかも、すでに完熟しているようにすら見える。
「……うそ、だろ」
俺は庭に降り、手を伸ばしてひとつの実を摘んだ。
張りのある皮。ずっしりとした重み。みずみずしさが掌に伝わってくる。
その場で、かじる。
皮がパリッとはじけ、果汁が舌を包み込んだ。
甘い。驚くほど甘い。それでいて酸味もほどよく、香りが濃い。
「……うま……」
言葉が出た。
それはただの感想じゃなかった。自分でも信じられないほど、衝撃的な“美味さ”だった。
こんなトマト、今まで食べたことがない。
だが同時に、湧き上がるのは疑問だった。
これは苗が特別だったのか?
それとも、たまたま何かが重なっただけ?
なら、確かめるしかない。
俺はすぐに町のホームセンターに向かい、家庭菜園でも育てやすく、かつ比較的収穫までが早い野菜を中心に種や苗を選び始めた。
・ほうれん草
・はつか大根
・小松菜
・スイスチャード(カラフルなほうれん草に似た野菜)
・ミニチンゲンサイ
・レタス(リーフ系)
・ネギ(苗)
・そして、もう一度トマトの苗も
品種名、成長サイクル、土の相性などをメモしながら、慎重に選んだ。
買い物袋を両手いっぱいに抱え、家に戻るとすぐに作業を始めた。
庭の奥、まだ手をつけていなかった区画を整地し、4列の畝を丁寧に作る。
土を耕し、石を取り除き、pH測定キットで酸性度を確認。
有機肥料と石灰を均等に混ぜ込み、1日寝かせて馴染ませた。
翌朝。
朝焼けのなか、俺は一つひとつの種と苗を、丁寧に畝に植えていった。
指の感触、土の湿り具合、水を吸う音──すべてが、なぜか心地よかった。
植え付けが終わると、成長の記録用ノートも用意した。
一日ごとの観察を怠らず、何が起こるのかを確かめる。
──一日目。
植え付け完了。水やり。朝と夕に観察。
大きな変化はなかったが、はつか大根と小松菜の土表面にわずかな膨らみ。
まるで、土の下で何かが“伸びよう”としているのが、手に取るように分かった。
──二日目。
発芽を確認。小松菜、スイスチャード、レタス、はつか大根。
ネギの苗も、明らかに背筋を伸ばしたように立ち上がっていた。
──三日目。
驚いた。小松菜、スイスチャード、リーフレタスが、すでに食べ頃サイズ。
はつか大根の頭が、土の表面から覗いている。
葉を摘み、洗ってかじってみた。柔らかく、甘く、青臭さがない。
──四日目。
ほうれん草は力強く広がり、チンゲンサイも立派な株に。
はつか大根を引き抜くと、艶のある白い実がしっかりと育っていた。
シャキッとした食感、心地よい辛味、口に広がる爽やかさ。
──五日目。
ネギは青々と伸び、まるで市場の出荷前のような姿に。
そして──再び植えたトマトも、前回と同様、真っ赤な実をつけていた。
俺は野菜たちをひとつひとつ並べて、しばらく動けなかった。
すべてが、信じられない速度で、しかも完璧に育っている。
味も、市販品とは比べ物にならないほどのクオリティ。
これはもう、“偶然”では説明がつかない。
「……やっぱり、俺には何かあるんだ」
あの日、父が言っていた──「お父さんは神様なんだ」
もちろん、子供に話す戯言だと思っていた。
でも、今。
この異常な成長速度、味の質、植物たちとの感覚的な繋がり──
これは、どう考えても普通じゃない。
本当に、あの人は“人間”じゃなかったのかもしれない。
そして、そんな父の血を継ぐ俺も──何か、普通ではない存在なのかもしれない。
まだ、その正体はわからない。
でも、確実に──何かが、目を覚ました。
そして俺の人生もまた、静かに芽吹き始めている。