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土に還る決意


午前八時十五分。品川駅発の山手線。


車内には濃密な無音が漂っていた。

咳払いひとつも気まずい空気のなか、蒼井陽翔あおい はるとは身動きの取れないままドア際に立っていた。


押し付けられた鞄、汗ばむ他人の体温、機械的に揺れるつり革。

そのすべてが、彼の存在を透明にしていくようだった。


スーツの群れが詰め込まれた車内で、陽翔はるとは押し込められるようにドア際に立っている。

耳には誰かのイヤホンの音漏れ、目の前では無表情な男がスマホを連打している。

わずかに開いた窓から、線路沿いの空が覗いた。

濁った白色。


咳払い、ため息、沈黙。


この場所に、色はない。




何も考えず、ただ行って帰って寝て。

そんな、色の無い毎日。


ある朝、どうしても体が動かなかった。

出社しようとした足が、駅の階段で止まったのだ。


「ああ、もう限界だ」


陽翔はるとは、その日のうちに会社に電話し、翌週には退職届を出していた。

驚く者も、慰める者もいない。


そして、ひとりになった。




テレビもつけず、カーテンも開けずに何日も過ごしていたある日。

陽翔はるとは部屋の隅に置いてあった段ボールの中から、ふと一冊の冊子を見つけた。


《空き家バンク 全国一覧》


生前、母が地元で農業体験イベントに参加した際に貰ってきたらしい。

何気なくページをめくると、「日向野町ひなたのちょう」の文字が目に入った。


幼い頃、父と一度だけ訪れた記憶のある山あいの町。

不思議とその名前に惹かれて、無意識にブラウザを開いていた。


そこに写っていたのは、瓦屋根と木造の古びた一軒家。

縁側と、少しだけ広い庭。そして、手入れされていない小さな畑。


その景色に、心が静かに揺れた。


気がつくと、内見希望のメールを送り、翌週には現地を訪れ、即決で購入を決めた。


価格は驚くほど安く、必要最低限のリフォームと簡単な生活道具の手配だけで済んだ。

木造平屋+二階建てで、延床面積は約60坪。

水回り(風呂・台所・トイレ)はすべてリフォーム済みで、ただ生きていくだけだったら、何の不便もないだろう。


こうして陽翔はるとの色の無い東京生活は、終わりを迎えた。


------------------------


日向野駅に降り立ったのは、五月の終わりの午後。

小さな無人駅。風に揺れる草の匂いと、遠くから聞こえるカッコウの声が出迎えてくれた。


駅前には商店もなく、アスファルトがところどころ割れて、草が顔を覗かせている。

道はゆるやかに曲がり、電柱の上では鳥が一羽さえずっていた。


空はどこまでも高く、静けさが心の隙間に染み込んでいくようだ。

バスの時間までしばらくあったので、陽翔はスーツケースを引きながらベンチに腰かけた。


風が吹き抜ける。

暑くも寒くもない、ちょうどいい風。

こんなにも空が広かっただろうか。

東京で見ていた空とは、まるで違う色に見えた。


バスに揺られて三十分。山に囲まれた谷あいの集落の一角に、その家はあった。


木の門をくぐり、石畳を踏みしめると、足元からわずかに軋む音が伝わってくる。

玄関の戸を引くと、乾いた木の匂いと、奥から差し込む柔らかな光が迎えてくれた。


一歩足を踏み入れたその空間には、時間の流れがゆっくりと漂っていた。

新しい畳の匂い、木材のきしむ音。懐かしさと新しさが混ざり合った空間がそこにはあったのだ。


広い居間、静かな二階、陽の差す縁側。そして、庭の奥にある大きな畑。


「ここで、生きていけるだろうか」


田舎での生活に不安はあったが、不思議と心は軽くなっていた。


------------------------


その夜、陽翔は久しぶりに夢を見た。

それは、幼い頃の父との記憶。


――陽翔、これが“腐葉土”ってやつだ。鼻、近づけてごらん。

――なんか、くさい……けど、あったかい?

――そう、それが“土の息吹”だ。

――パパ、ほんとに神様なの?

――うん、パパは大地の神様なんだ。だから、土の声が聞こえるのさ。

――ほんとに?

――……ほんとのほんと。はるとにも、いつかわかる。


夢の中の父は笑っていた。

手の温もり、声の抑揚、あの日の空気さえも感じられる。


目覚めの直前、父がもう一度口を開いた。


――大丈夫だよ、はると。土は、お前の味方だ。






目を覚ますと、朝の光が障子越しに差し込んでいた。

鳥の声と、薪の匂い。風が、畳を撫でる音がする。


「……やってみようかな」


思わず口をついて出た言葉だった。


---


その日、陽翔は町のホームセンターまで足を運び、スコップと鍬、軍手、そしてビニールポットに入ったトマトとバジルの苗を買った。

野菜づくりの知識はなかったが、何となくトマトならできそうな気がしたのだ。


昔、父と一緒に育てたような、そんな記憶がぼんやりと残っていた。


家に帰ると、早速庭に出る。

雑草だらけの土。硬くなった地面。


触るのは何年ぶりだろう。

陽翔は、ぎこちなくスコップを握り、土に刃を入れた。


ザクッ。


思った以上に力がいる。だが、その手応えはどこか心地よかった。


汗が滲み、額に土がつく。

息を整えながら、彼はゆっくりと耕し続けた。


子どもの頃、庭で泥だらけになりながら父と並んでいた風景が、脳裏によみがえる。


『土をいじるのはな、命と話すことなんだよ』


そう言って、父はスコップの持ち方から、苗の植え方まで丁寧に教えてくれたのだ。


一角を耕し終えたところで、トマトの苗を植えた。根をほぐし、やさしく土をかぶせる。

最後に水をたっぷりと注いで、陽翔は小さく息を吐いた。


「……これで、いいのかな」


風が吹いた。

植えたばかりの苗の葉が、そよそよと優しく揺れる。

その動きは、まるで頷くようにも、微笑むようにも見えた。

陽翔は、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。


それは風のせいかもしれない。けれど、ほんの一瞬、彼には苗が「ありがとう」と言ったように感じのだ。


心の奥に、微かに温かな灯がともる。

陽翔は、手についた土をそっと撫でた。


「やっぱり、土って……あったかいな」


自分でも驚くほど穏やかな声が、風の中に溶けていった。




読んでくださりありがとうございます!

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