②鳥というもの
てんやわんや。
「ここが、資料室」
白く塗られた金属製の重いドアを開けながら、後ろのイスカにそう話しかける。
今はあまり使われていない旧棟の端っこ、しかも一番端の部屋。
他の部屋とは少し雰囲気の違うそのドアを前にして、イスカは少し緊張しているようだった。
「大丈夫、危ない物はないよ」
『そ……そんな心配は、してないけど』
そう言いながら俺と一緒に部屋に入ったイスカは、一歩進んだ所で呆気にとられたように立ち止まった。
『…何?これ』
「本だよ。ええと…知らない?」
『知らない、と思う、けど……』
イスカは言葉半ば呆然としたように、目の前の本棚にふらふらと近づいていった。
部屋自体のサイズは他の部屋と変わらず、普通の会議室くらいだ。
そこに半ば無理矢理、技術書やら図鑑やら娯楽小説やらを詰め込んでいるので、所狭しと本棚が立ち並び、その隙間は人が一人通れるほどの狭さになってしまっている。
その隙間を一生懸命縫って、本というか本棚そのものを楽しそうにイスカは眺めていた。
(とりあえず、面白がってはくれてるみたいだけど)
文字は当然読めないだろうけど、絵なら分かるだろう。
ここの職員が適当に持ち込んできた、古い漫画雑誌や単行本でも見せようか。
(でも、女の子だもんな……?翼は生えてるけど…)
この職場はほとんど軍施設のようなもので、当然というか、男女比は男に偏っている。
書籍はほとんど電子で読める中、女の子向けのやたらに高価な紙本を買う奴なんかいない。
よって寄贈されることもなく、この場所に若い女の子の気を引く本なんかないに等しいけど、どうしたものか。
色々と考え込んでいる俺をよそに、とりあえずという風に一冊、いかにも難しくてよく分からなさそうな本を手に取ったイスカの隣から覗き込む。
「書いてある内容、分かるの?」
『わからない』
そう言いながら、ペラペラとページをめくっている。
「興味はあるんだ」
『うん……なんか、面白い』
イスカはとても楽しそうで、少し意外だ。
(なんか面白い、か…)
今まであちこちを巡ってきたけど、食堂や、病院施設を見せた時の反応とは大違いだ。彼女の精神構造なんか分かるわけがないけど、「本」が興味を引くものであるのは確からしい。
(文字は無理でも、これなら…)
部屋の右奥には、ひとつだけ背の低い本棚がある。
そちらに向かえば、よくナナちゃんたちに読み聞かせしてあげていた、古びた絵本たちが並んでいた。
その中から一冊、ナナちゃんのお気に入りを抜き取り、まだ無心にページをめくっているイスカに見せた。
「これなら絵があるから、もっと面白いんじゃないかな」
『絵?』
この部屋のドアから入ったすぐそばには、申し訳程度に一人用の机が通路を塞がないギリギリの場所に、一つだけ置かれている。
ボロボロになった絵本をそこに広げれば、すぐ後ろからイスカが覗き込んで来て、窮屈そうに折り畳まれた翼が頭を掠めた。
『…これ、鳥?翼がある』
「うん、鳥だよ。白鳥って言うんだ」
絵本を前にしたイスカは、本当に子供みたいだった。真っ直ぐにしなやかな指がさしたのは、絵本の表紙に載った、青い空を飛んでいる白い鳥のイラスト。
「この本は、白鳥の旅、っていう名前の本なんだ」
『ふーん……』
俺の説明を聞きながら、イスカはどんどんページをめくっていく。
色鉛筆と水彩を使って、淡いタッチで描かれた本は、何百年も昔の物語を下敷きにしたものらしい。
ページをめくれば、次々に現れるのは、文字がなくても絵で十分伝わってくる鮮やかな物語だ。
薄汚れた灰色の鳥の雛が、白く美しい姿の母親に疎まれるシーン。
さらに他の鳥たちからまでいじめられ、一羽、泣きながら湖を逃げ出すシーン。
文字は読めなくても、一生懸命な眼差しでその絵をひとつひとつ、イスカは見つめている。
(この本で、合ってたかな…)
全く関係ないものを見せられるよりは、彼女の記憶を刺激できそうかと思って選んだんだけど。
実際どうなのか、彼女は全く言葉を発しないまま、いつしか静かにゆっくりとページをめくっていた。
悲しい旅を一羽続ける灰色の雛は、いつしか母よりも一回り、二回りも大きな白い鳥へと変わっていく。
そして自分が最早自分の力だけで飛ぶことができることに気づいた。
彼女は真剣な眼差しで指を繰り、そして最後のページに差し掛かる。
自分の本当の姿を見つけた白鳥は、その大きな翼で空を超え、宇宙にまで飛び立つ。
そして新たな惑星と、そこにいるかもしれない仲間を探しに行くのだった。
そこで、物語は締め括られている。
(その後仲間が見つかったかどうかは、描いてないけど)
ナナちゃんにこの絵本を読んであげるたび、見つかるといいね、と二人で話していた。
鳥という言葉は、今の世の中でこそ不吉な言葉になってしまったけど。
それでも、絵本の中の鳥なら応援できるから不思議だ。
『……知ってる、気がする』
「本当?」
そんなことを考え込んでいたら、隣のイスカがぽつりとそんなことを言う。
隣を見れば、その蒼い瞳と視線がかち合った。
赤い羽、髪、燃えるように鮮やかな睫毛に包まれている、その瞳だけが深い海のように青い。
(なんだか綺麗すぎて、作り物みたいだよな)
見た目としては間違いなくそうだ。
けれどその姿にはどう考えても見合わない、幼いような真っ直ぐな視線がこちらを見つめる。
『もっと見たい』
「え?」
『鳥の絵、とか……そういうの、もっとないの?』
「ええと……そういうのって?」
『なんて言うのか分からないけど……』
具体的な意味が掴めなくて聞き返せば、彼女は少しむくれたように目を逸らしてしまった。
その翼が少し苛立っているように揺れる。小さな子どもが地団駄を踏むのを我慢しているような感じだ。
(前向きに、思い出そうとしてるんだよな)
その努力は応援したいと色んな意味で思う。
「えーと、多分イスカが言いたいのは、動物……というか…」
『動物?』
「うん…ちょっと待って」
実はひとつ、とても見やすい資料を知っている。
イスカに言葉を返しながら、手元の端末で、朔弥部長に確認を取る。
すぐに『許可します』と、簡潔な返信が返ってきた。
(助かるなあ)
この部屋で他の絵本を探すのもいいけど、どうせならもっと手っ取り早いものがある。
『何?』
「……多分、君が見たいものを見せてあげるから。来て」
イスカはまだ名残惜しそうに、部屋の奥を眺めている。
(今度、また連れてこよう)
そう思いながら、ドアをくぐった。
***
『もっとアレ、見たかったのに』
「本ならまた今度、絶対見せてあげるから。今はこっち」
資料室は棟の端、目的地はスタジオの近くにあるので、結果として結構歩かせてしまった。
本格的に拗ね始めた子供みたいになっているイスカを宥めながら、部屋の前までようやく来た。
「ここが、シュミレーター室」
『シュミ……何?』
「見れば分かるよ」
大きな自動ドアが目の前にあって、その奥は薄暗い。
そのすぐそばに備え付けられた、カードリーダーにカードを翳せば自動ドアが音もなく開く。
中にはもうひとつ黒いドアがある。
そこを開けて部屋の様子を見せれば、直前まで顰めっ面だったイスカの顔が驚きに変わった。
『すごい、光ってる…!』
「それだけじゃないよ」
黒いドアの奥には、デクマのコックピットを模した機器が所狭しと詰められている。
更に薄暗かった座席の前で、メインカメラを模した黒いパネルに白く光の文字が走り、その側のレバーやらツマミやらもスタンバイ状態に移行して、様々な色に光り出していた。
見慣れた光景だけど、俺もいつ見ても美しいと思う。
この光景を初めて見たイスカが見惚れているのを見て、少し嬉しくなる。
そのままイスカをコックピット部分に招き入れ、二重になっている内側のドアを閉めた。
元々コックピットは整備を想定して、座席の後ろのスペースも合わせて三人くらいがやっと入れる広さだ。翼を持つ彼女と二人だと結構狭いけど、仕方がない。
コックピットの中央に配置された機器を操作すれば、目の前のパネルが薄青く変色して操作メニューを映し出す。
淡々とした入力操作を、イスカは興味深々で見つめていた。
『何?これ』
「ここに、今から君が知ってるかもしれないものを映すよ」
『……どういうこと?』
不思議そうに、彼女は俺の方を見る。
それに応える代わりに壁の端末を操作すれば、パネルには俺が嫌と言うほど見た生き物の姿が映し出された。
「これが、ええと……宇宙生物」
『うちゅう、せいぶつ』
「もしかしたら……君の、仲間かもしれない」
(本当は、宇宙敵性生物なんだけど…)
宇宙生物とも呼ばれているから嘘はついていない。
それがいいことなのかは分からないけど、少なくとも今彼女の前でこの生物たちを「敵」と説明するのは、違う気がして。
(彼女にとっては、敵じゃないしな……)
多分、だけど。
『…………』
イスカは、何も言わずに画面を真剣に見つめている。
今映し出されているのは『熊型』だ。
絶滅した動物の熊に似て、ずんぐりとした体、8本の脚。
(まあ、熊に脚は8本もないはずだけど……)
「どう……?何か、思い出せそう?」
『…………わからない…』
目の前の熊型の映像はしっかりと動いている。
偵察機を出した時のもので、古い映像でモノクロだけど輪郭はしっかり捉えていた。
(止まったままの絵より、より刺激になるかと思ったんだけど)
イスカは神妙な顔で、ただそれを見つめている。
(じゃあ、次だ……)
「これは?俺たちは、山羊型って呼んでるんだけど」
またモノクロで画面に映し出されたのは、山羊のような角を持つ巨大な怪物だ。
やはり昔は実在した山羊に頭部が似ているからそう呼ばれているけれど、首から下は全然山羊じゃなくて、肉食獣のような大きな爪のある、毛むくじゃらの胴体に、やたらと長い尻尾を持っている。
映像で見ても、真っ暗な宇宙に浮かびながら、その強靭な尾を素早く動かしている様は恐怖でしかない。
(そういえばこの種は、胴体部分が人間に似たやつもいるんだよな……)
比較的小型だ。もちろん、イスカのようなサイズではないけど。
『…………』
イスカはやはり、黙ったまま映像を見つめている。驚いた様子もないし、何か心を動かされたような様子もない。
仕方がないので、どんどん映像を進めていく。
「ええと、次は、細蟹型」
(ちょっと気持ち悪いけど)
彼女には、美醜の感覚はあるのだろうか。そんなことを考えながら、映像を切り替える。
今度はカラーだ。
(何もこれをカラーで撮らなくてもいいのに……)
細蟹型は、熊型に次いで知能が低い。だから多少余裕を持って対処できるのだけど、何より見た目が悪い。
(ササガニって、蜘蛛のことなんだよな)
熊型と区別しづらいから略してサニ型と呼ばれているけど、見た目としてはもう思い切り黒い蜘蛛だ。
熊型と同じ数の8本の脚は、それぞれ胴体から独立して生えている。足の繋がる丸い胴体にはびっしりと目がついていて、それが一斉にこちらを向いてくるのがいつ見ても不気味だ。体全体は真っ黒で、背景の宇宙に溶け込んでいて、シールドの近くにいないと視認しにくいし。
しかも、それぞれの脚には強力な酸の発射口を持っていて、それがデクマに命中すると重大な故障になって、命を落とすこともある。
(まあ、今はデクマにコーティングがされてるからそこまで大事になることは少ないんだけど……)
隣を見れば、イスカはやっぱり静かに映像を見つめている。
真剣な眼差し。けれど、ピンときている様子はない。
『……他には、ないの?』
「まだ色々あるけど……」
一度だけ確認されたものなど、挙げればキリがない。
けど確実に、もう一種類見せなくてはいけない奴がいるのは確かだ。
「……これは、どう?」
スクリーンに、荒れたモノクロの映像が映し出される。
瓦礫の山と化しているスタジオ。粉々に割れて、白黒では分からないけど、きっと警戒色の赤に染まった残骸だけが残ったグリーンシールド。
鉄屑のように転がされた、多分壊れたデクマだったものの間を縫って、悠々と進んでいく巨体。
『……これは、何型?』
真剣な顔で、囁くように訊かれる。
「これが、鳥型」
俺たちの敵だよ、という言葉だけは、ぐっと呑み込んだ。
その巨体は銀色の翼を広げ、その鉤爪でまだあまり損傷のないデクマを掴む。そしてその凶悪な嘴を、デクマの中心に何度も、鉄の塊になるまで打ち付け続けた。
何度見ても、恐ろしく惨い光景。
『何でこんなに嫌われてるの……?』
画面を見つめたまま、彼女はそう呟いた。
ぽつり、こぼれたような一言に耳を疑う。
「きら、嫌われてるって……?」
思わずイスカの方を見る。
そんなレベルじゃない、相手は明らかにこちらを獲物として見ている。
感情も何もない、命のやり取りだ、これは。
『……この、壊されてるのは、ヒロの…ええと、仲間?』
イスカがこちらを見る。あくまで神妙な様子だった。俺の感情が波立ったことに勘づいたのかもしれない。
「……そうだよ」
『…………じゃあこの鳥は、敵なのね』
その言葉に何と答えればいいのか分からなくて、静かに映像が途切れた後、変な沈黙がその場を満たす。
「……何か、思い出せたことは──」
とりあえず何か言葉を繋げなきゃと思って、無理矢理吐き出した音は、乱暴にドアを開ける音で掻き消された。
「……何やってるんですか、ヒロ先輩」
怒気を孕んだ声、振り返れば歪な光に照らされたその顔は確かに、怒っていた。
イスカが半ば無意識だろうか、俺の背後に身を隠すように動くのを感じる。
「……竜くん」
「……ちょっと、話聞いてもいいですか、先輩」
***
その声の響きには、前に会った時までの温かさは、微塵もない。
どうして、と思いながらも、今まで起きたことを冷静に反芻する自分がいる。
(……そうだよな)
彼女を載せたあのポッドを俺が回収しに行かなければ。
あの爆発の瞬間、彼があの場所にいなければ。
何より、俺がもう少し上手く立ち回れていれば。
(綾くんは…………)
「ヒロ先輩……後ろのソレが、鳥人型ですか」
「…………そうだよ」
見た目からあまりにも明らかで、誤魔化すことはできない。素直に言うしかない。
彼の言葉がイスカには分からないことにあらゆる意味でほんの少しだけ安堵しながら、この場を切り抜ける方法を考える。
「なんでそんな危険なものが、野放しになってるんですか?」
「……上が、問題ないって判断したんだ。脱走の対策も取られてる……」
「そんなわけ、ないでしょう!」
怒鳴り声が飛んだ。
恫喝するためのものじゃなくて、悲しみを爆発させたような。
後ろで雰囲気を察したイスカが身を竦ませる。きっと、怯えている。
(万が一、イスカが暴れたりしたら……)
何が起きるかなんて分からないし、場合によっては竜くんの身まで危なくなる。
(なんとか、切り抜けないと……!)
そう思っても焦るばかりで、適切な言葉なんか浮かんでこない。
適切な言葉なんかないと分かってしまっていた。
(それでも、なんとか……)
「竜。お前、何やってんの?」
不意に、淡々とした声が、竜くんの背後から聞こえた。
同時に骨ばった大きな手が彼の肩を掴み、無理矢理後ろに引き摺る。
そして代わりに顔を出したのは。
(楊先輩……!)
「おいヒロ、お前何黙ってやられてんだよ」
「えっ、は……」
一瞬言葉を失う。けどその揶揄うような調子が竜くんを落ち着かせるためのものだと察して、口をつぐんだ。
「竜、お前も。廊下に響き渡っててすっ飛んできたわ、俺」
楊先輩が顔を向けたその先から、声は聞こえない。
きっと俯いて、何も言わない竜くんがそこにいるのだと感じた。
「戻れ、今は」
「でも……」
「ハイ、お迎え〜」
自動ドアの開く音がして、ドアの外からもう一人の呆れたような声がする。多分妃さんだ。
楊先輩の優しく、でも有無を言わせない声に従ったのだろうか、妃さんに引きずられていったのだろうか、そのまま二組の足音が去っていく。
「……びっくりさせんなよ、マジでさ」
自動ドアが閉まってようやく、楊先輩は神妙な顔でため息をつき、こちらに向き直ったのだった。