体育を怖がっている(1)
四日市優花は、自身の人当たりの良さから、新学期早々に多くの人と親しくなった。そして瞬く間にクラスの中心的人物になっていった。だから今日に至るまでクラスメイトとほとんど関わりをもってこなかった僕でも彼女のことは印象に残っている。そんなクラスの中心的人物であり、新学期早々に学年の男子の心を鷲掴みにした四日市さん。そんな彼女と冴えない自分が、わずかとはいえ接点を持つことになろうとは想像だにしていなかった。
「よっ、恐杉」
「お、おう」
駅で友人━━樋口と待ち合わせをして電車に乗る。
「にしても相変わらず満員電車だぜ。足の置き場もねえ」
「だな」
「おまけに今日は立ち乗りと来てやがる。ついてねえよな」
「いつも席を確保できてるってことの方がついてるんだろ?こんだけ混んでるんだから」
「ま、確かにそーだな。でも立ち乗りって怖いんだよなー、否応なしに身体が頻繁に接触するもんだから、痴漢と間違われないか心配になっちまう」
「確かに」
そう言いながら、僕は昨日の朝の出来事を思い返した。四日市さんが痴漢されていた光景を。あれは第三者から見ても、かなり許しがたい光景だった━━決して冤罪などでは無かったはずだ。
そういえば今日は彼女の姿を見かけていないな。違う車両に乗ったとか、そんなところだろうか。昨日痴漢がいた車両と同じ車両に彼女がのこのこ乗るとは思えないからな。
━━学校に着いてから樋口と別れ、教室に向かう。その途中で、突然心拍数が上昇しだしたのが分かった。昨日四日市さんと交わした突拍子もない約束のことを思い出して、彼女のいる教室に行くのが急に怖くなったのだ。樋口といたときから昨日のことは思い返していたものの、そのときにはまだ幾ばくかの余裕があった。一人じゃないという余裕が。
僕は心拍を落ち着かせるために、昨日の約束を彼女が忘れている可能性を考えた。
『ああ、昨日のアレ?あれはその場のノリというか流れから出たもので、冗談のつもりだったんだけど!』
十分有り得そうだ。それどころか。
『まさかアレを真に受けていたのかしら?だとしたらとんだ思い上がりね!社交経験なさすぎて笑っちゃうわ』
こんな風にバカにされるかもしれない。挙句、僕の思い上がりをクラス中に暴露されたら一溜まりもない。社会的に即死だ。
だから、一番賢明なのは、昨日の出来事を幻だったと思うこと、つまり無かったことにすることだ。もう変に彼女を意識してはいけない。四日市さんにとって僕ははなから赤の他人である。接点なんてない。あると考えること自体がおこがましいのだ。
そう考え、気を引き締め、深呼吸して教室の扉を開ける。四日市さんのことは目で追うことすら許されない。そんなことをすれば下手すりゃストーカーの疑いをかけられかねないのだ。
そう思い、何も考えずただいつもの習性につき従って自分の席につく。こうすることによって、心拍数は徐々に落ち着いてきた。
「こうちゃん、おはんちわ〜」
隣の席の松阪さんにいつものようにのんびり口調で挨拶される。おはよう+こんにちは(わ)、を縮めておはんちわ。こういうからくりになっているらしい。一見よくわからない言い回しだが、一線を超えた陽キャなら皆このように挨拶するのだろうか。僕には知る由もない。
松阪さんと僕は挨拶して、それから授業中に数言交わすだけの仲。まさしくよっ友の典型例である。松阪さんは他人をあだ名で呼ぶことが趣味のようで、だから彼女にあだ名で呼ばれたからといって間違っても彼女と親しくなったと思い込んではならない。そうなれば彼女の友人たちから制裁を受けクラスで孤立は必須。学校生活は間違いなく終わりだ。松阪さんもまたクラスカーストの上位に位置する正真正銘の人気者なのだから。
というわけで挨拶だけ返したあと、僕は何事もなかったかのように読書に耽る。
午前中の授業が終わろうとしていても、やっぱり四日市さんは話しかけてこなかった。昨日の会話で出てきた怖いものを克服する云々のことはやはり彼女の気まぐれから出たものだったのだろう。
「お腹すいたぜ〜」
4限も終わりかけた頃、松阪さんがのんびりした口調で独りごちた。話し掛けられている可能性を憂慮して、念の為適当に相槌をうっておく。
「ま、お昼も近いしね。もう少しの辛抱かと」
ここで異性と話す緊張のあまりよそよそしくなりすぎないようにするのがコツだ。僕はなるべく男の知人と話すイメージで話すように心がけている。
「だな〜。長い半日だったけどやっとお昼が来るな〜、楽しみだぜ〜」
陽キャは思ったことをとことん口に出すんだと実感。
「でも午後は体育か〜。何だかダルいぜ〜」
「そうだね」
陰キャにとっては体育はダルいだけじゃないんだがな、と心のなかでつぶやく。陰キャにとって体育の時間は、とある理由によって他の座学の時間より遥かに苦痛だ。ま、陽キャにはこの種の悩みが解らないだろうが。
「いっそズル休みしたろ〜かな」
病気を偽ることによるズル休みという手は確かに使えないことはないが、ズル休みを続けていればいずれ教師に怪しまれる。よって仮病はその場しのぎにしかなり得ない。
しかし松阪さんがズル休みしようがしまいが勝手だ。僕には関係がない。下手に口出しする方がむしろ責任が生じてしまう。そう思い、僕はあえて何も言わずに再び授業に集中した。
━━思えば、この午前中は高校生活における最後の平和なひとときだったのだ。このときには知る由もなかったが、昼休み、僕は突然窮地に陥ることになる。そしてこれが僕にとっての不幸の始まりだった。
「朗報だわ!」
そう言って四日市さんが僕の机を叩いたのだ。座っていた僕は突然のことに驚かされる。ちなみに隣の席の松阪さんは外出中だった。
それから僕は腕を捕まれ、半ば連行されるようにグイグイ引っ張られ、廊下に呼び出されたのだ。何かよからぬことがあるのではないかと、嫌な予感がする。
「急に呼び出して、迷惑じゃなかった?」
遅いわ。あとから心配になるくらいなら最初から任意同行にしておけ。
「ね、昨日あたしが言ってた怖いものを克服するって話なんだけどさ!」
そう言われて初めて、僕が自ら望んで忘れていたことをようやく思い出した。怖いものを克服するとかいう話、本気だったのか。
「早速その一つを克服できるかもしれないチャンスがあって!」
「え?」
彼女にその理由を尋ねると、
「これからもうすぐ体育があるじゃない?その体育の時間にあたしが二人組を作れれば良いのよ!」
「━━は?」
にわかには事情が飲み込めなかった。だが寝ぼけた頭でその言葉を反芻していると、だんだんと意味がわかってきた。
「まさか君、体育の時間に二人組を作ってーと言われたときに最後まで相手を見つけられずに孤立しちゃう系高校生?」
説明しよう。二人組づくりとは、陰キャの体育を苦痛にする原因ナンバーワンのイベントである。下手すりゃ陰キャの学校生活の悩みナンバーワンでもあるかもしれない。
「あら?ずいぶん具体的に言ってくれるわね」
「二人組どうこうの件に関してはそれなりに思い入れがあってさ」
「ふーん、まぁいいわ。そうなのよ!その二人組づくりのせいで罪なき人間がこれまで何人無意味に傷ついてきたことか━━さすが陰キャの元締めは理解が早くて助かるわ!」
悪かったな、陰キャで。てか陰キャは単独行動が基本だから元締めなんていないんですけどねまあどうでもいいですけど。
「とにかくペアづくりなんてイベントはこの世で一番不要なイベントだと思うわ!」
「確かに」
人類はなぜ結婚とか事あるごとに二人組になろうとするのだろう。その行為の残酷さを一体どれほどの人間が理解しているというのだろうか。そのせいであらゆる物事に優先順位が生まれ、選ばれなかった3人目はいつも生存競争から弾き出され犠牲者となる。人類皆兄弟という名言にあやかって、はなから二人組など作らずに皆仲良くするのじゃダメなのだろうか。
━━しかし皆の憧れでありバリバリ陽キャである四日市さんが、まさかペアづくりで孤立する側だとは。意外だな。少しだけシンパシーを覚えてしまう。ま、雲の上の彼女のことを一瞬でも錯覚してわかった気になったら、後々こっぴどい目にあうのは明らかだが。
「そしてなぜかあたしはこのペアづくりにいつも苦戦するわけよ。宿命かなんかかしらね。実はあたし、中学の頃に孤立してたんだけど、それもあたしが新学期最初の体育のときにペアを作れなかったからなの。折角あたしがその時点まで多くの人と築いてきた人間関係も、あたしが最初の体育の時間に孤立したせいで友達がいない人認定されて見事に崩壊。そして一度固定されてしまったペアは次回以降新たに作るってなっても見事に変わらない。がんじがらめで、付け入る隙がないのよ。あたし、あの時にクラスの人間関係は初動が肝心だってことを嫌ってほど思い知らされたわ!つまりこの新学期最初の体育で失敗すればこの先あたしは必然的に孤立する。高校でもね。過去のこともあるし、今人間関係に困っていないから絶対大丈夫だなんていえない。今だってもうすぐ来る体育の時間は怖いけれど、今日失敗すればあたしにとって体育の時間が確実に紛うことなき恐怖に変わる。そんなの耐えられないの!」
彼女に切なそうな目を向けられ動揺する。
「だから体育の時間が圧倒的畏怖の対象になることを回避しようと思ったら、時間はあまりにも少ない。あたしも午前中色々悩んだ挙げ句、何一つ案が浮かばなかったわ。だからお願い。この残された僅かな時間を使って、なんとか君にあたしが今日確実にペアを作る方法を考えてほしいの!」
そんな方法があるならこっちこそ聞きたいよ。そう言おうか迷ったが彼女のあまりの迫力を前に自粛した。
結局このまま昨日みたいに彼女に押し流されてしまうのか。そう思いかけたとき、四日市さんはいとも意外なことを口にした。
「ただでとは言わないわ。それじゃあ君にあまりに得がないから、君に無視されて請け負ってもらえない可能性がある。それはあたしにとってものすごく怖いこと。そのままペアづくりに自滅して、取り返しがつかなくなるからね。それくらいあたしは切羽詰まってるの!これにはあたしの一度しかない青春が充実するかどうかがかかってる。時間はない。背に腹は変えられない!だから、だから、考えたのよ。君が十中八九断らない方法を!」
「え!?どんな方法!?」
「それは、成功したら、報酬を払うことにするということ!」
「報酬?」
そんな言葉が出てくるなんて思わなかった。
「ええ、あたしが今日体育の時間に滞りなくペアを作ることができたら君に何でもする。どんないかがわしいことでもね。これが報酬。それで検討してもらえるかしら?」
「何でも・・・!?」
僕は思わず唾を飲み込んだ。
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