三章「宗爵、発つ」
二字でタイトルを考えることに限界を感じた。
宮城谷先生マジすげえと思った。
宗爵が鄭玄のもとで学び始めてから十年後。宗爵は鄭玄門下百人を超す弟子の中で、尤なる一人になっていた。
これは鄭玄が、宗爵のひたすらに知識をため込むという学び方を正し、むしろ知識にとらわれない黄老的な思考を、宗爵に身に着けさせたことが大きな由来である。鄭玄の師である馬融が、必死に他者を知ろうとする鄭玄に教えたことでもある。
鄭玄の元に来てから、宗爵は、簡単にいえば知識を選んで捨てるようになった。取捨選択を自分で行えるようになったのである。溜め過ぎた知識は、自分を縛り殺すことを知ったということでもある。
そして、二十二になった宗爵が望んだことが
―――旅に出たい。
ということであった。
孔子も孟子も荀子も人生の中で、各々理由は違えど、旅をしている。
宗爵は、儒教の聖人である(荀子を聖人と仰ぐ人は少ないが…)その三人に憬れ、彼らと同じことをしてみて初めて、分かることがあるのではないかと思ったのである。
また、宗爵は鄭玄の教えを受けて以来、机上の学問というものを軽蔑するようになっていた。
僅か、一尺四方もない机に向かって、必死に広大な世界を知ろうとしている学友が滑稽なものと映るようになった。
もっと色々なものを見聞きして、色々な世界を知りたい。宗爵の知識欲は空をも覆わんばかりに膨れ上がっていたのである。
鄭玄はこの宗爵の急激な心の変化、溢れんばかりの気概と停滞への恐れの入り混じった複雑な、成熟し切らない気持ちのありようが、若さと経験不足からくる、単純な情緒不安定に因るものではなく、天賦の才に恵まれた才子が、一個の人間としての自分を見失いかけて、自分の価値観や、生まれ持った才能すら捨て去らなくてはならなくなり、そこで、今と昔で見えていた風景や自画像に、余りに大きな落差が付いてしまったことに因る、(それを乗り越えることによって)未来へ成長を伴った、突発的な心の衝動なのだろうと感じた。宗爵の抱いた欲求から、宗爵の心理状態や、越えなければならない課題までも見透かせる鄭玄は、人生の達人というべきだろう。
故に、旅に出たいといった宗爵に、鄭玄は反対しなかった。
しかし、一つ、懸念がある。それは、旅中の遭難についてである。
時は霊帝の一六年、紀元でいえば一八三年、元号でいえば光和六年である。
この翌年、中華全土を、アジアを、更に言えば世界の歴史を変えるきっかけとなった大事件が起こる。
中華史上最大の農民一揆「黄巾の乱」である。
黄巾の乱とはどんなものであったか。
太平道という、道教の一種が後漢末期に誕生した。教祖を張角という。
もともと、呪いで病を言い当て、それを癒すという、ありがちな宗教であったが、悪政に喘ぐ窮民の心の支えとなるにはそれだけで充分であった。徐々に信者の数は増え、遂には中華の東のほぼ全域にまで拡がった。信者の数は百万をゆうに超え、教祖の張角は、この力を使えば、やせ細った病人のような後漢王朝を倒し、新しい、太平道の王朝を作れるのではないかと密かに思い、実際にそれを計画した。その計画を実行に移したものが黄巾の乱である。
ではなぜ「黄巾の乱」というのか。中国には五行説という思想がある。そのなかで、土を表す黄は、木を表す青に克つ色である。
後漢は木徳、つまり青色の王朝であったから、張角は信者に黄色い巾を頭に巻くように指示した。これが、黄巾の乱の名の由来である。
さて、宗爵が旅に出ることを決意した一八三年に、まだ黄巾の乱は起っていないが、すでに、不穏な空気は漂い始めていた。民衆とは敏感なもので、張角は秘密裏にことを進めていたはずだったが、すでに民草の間で太平道の挙兵は近いと、もっぱらの噂であった。知らぬは王朝の顕官ばかりであったのである。
在野の賢人である鄭玄が、その空気を感じ取れないはずがない。
「一人旅はあまりにも、危険だ。」
鄭玄はそう忠告した。
「だれか、同行者を連れていったほうがいい。孫乾か衛茲か…汝とともに学べそうなものを選んでやろう。」
と、鄭玄はに最大級の思いやりを示した。宗爵はこの師の、この気遣いように思わず涙が出る思いであったが
「恐れながら、孔子は匡において抑され、陳において飢えさせられました。また孟子もまた、桀宋に追われております。どうして、この宗爵ごときが危難の来たるを恐れられましょうか。」
宗爵は師の厚意を断った。
「そうか…ならば何も言うまい。勝手に行け。」
鄭玄は突き放したような言い方をした。しかし、ここまで堂々と弟子に気遣いを無視されて、怒ることのない鄭玄というの器は、いったいどれほど広いのだろうか。どんな人でも、目下のものに生意気を言われれば腹が立つものである。やはり鄭玄は、希代の人なのであろう。
宗爵は旅立った。見送ったのは学友であり宗爵とも親しかった、先に鄭玄が旅の道連れとして名を挙げた孫乾と衛茲、そして鄭玄の三人である。
出発するとき宗爵は年長の衛茲に
「これが今生の別れかもしれませんね。どうか御達者で。」
と、別れの辞を口にした。衛茲はそれを冗談ととったのか、笑っただけであった。まさか、のちにこの二人が同じ主の元で顔を合わせようとは、つゆほども思わなかった。
宗爵には、具体的な旅の目的地はなかった。二年間で宗爵は西は旧秦から北の敦煌、そして遼東半島まで、ほぼ中華全土を周った。
旅の間に、黄巾の乱が起きた。幸運にも、宗爵が巻き込まれることはなかった。
そして、物語は冒頭に戻るのである――
宗爵が今居るのは、陳留北部である。
この辺りは黄巾の勢力が強いため、政府軍と黄巾軍の戦が多く、今宗爵が腰かけている岩のそばにも、黄色い直垂をつけた髑髏がいくつも転がっている。
初めは髑髏など、目にするたび気が塞がれていた宗爵も、もうすっかりこの風景に慣れ、このそばで飯を食うことも、なんとも思わなくなっていた。
それがいいことか、悪いことか、判断することはできまい。宗爵はそんなことを考えることすら無駄だと割り切っていた。
ふと、宗爵が西に目を転じると、馬軍が見えた。遠目にも黄色は見えないから、おそらく政府軍であろう。それにしては、規模が小さい。
―――本隊とはぐれたのかな。
そう思った宗爵は、岩から動かなかった。自分は儒者である。軍におびえてどうするという気概と、鄭玄の名を出せば略奪されたりはしまいという打算が、瞬時に胸の中で働いた。土煙を巻き上げながら近づく馬群を、ほとんど警戒することなく迎えようとしていた。
宗爵にとって、運命の時が近づいているのであるが、それはきっと天のみぞ知ることであったのだろう。