二章「鄭玄」
鄭玄は後漢を代表する学者である。鄭玄を知らずに儒学を語ることは出来ないだろう。
鄭玄の八世前の先祖を鄭崇といい、尚書僕射まで昇った。しかし、鄭玄の代では家名も落ち、彼は故郷で小役人をして生計を立てていた。
貧困の中、鄭玄はしかし其処に日常性という安息を見出すことはしなかった。鄭玄はむしろ、其処から脱しようとした。鄭玄は儒学を学んだ。これは、儒者になることが出世の近道と思ったのではなく、鄭玄の密かな先祖に対する憧憬が、彼を学問の道に進ませたのであろう。生計を切り詰めながら、鄭玄は情熱を失うことなく学んだ。
その努力は筆舌に尽くしがたい。貧困の中の学問はよく小説などの舞台になるが、実際は辛酸をなめるような苦痛である。食をとるか学をとるかという究極な二択に常に迫られながら、人生の深奥を考えるのである。鄭玄は栄養不足から墨を口に運ぼうとするまでになった。
鄭玄は学び続けた。其の中で浮き上がってきた疑問があった。儒教の宗派の多さである。一つの宗派は一つの経典を、師の教えに従って研究する。そのことが鄭玄には理解できなかった。
学問は自分一人では知ることの出来ない大きな世界を知り、その世界を生きる術を知るためのものであると鄭玄は思っている。
一つの学説に固執していて、果たしてその世界は見えてくるだろうか。所詮、一人の人には一つの脳と二つの目と耳がついているだけであり、その生涯は五十年もあればいいほうである。一人の人間が世界の全てを知ることは出来ない。
そう思った鄭玄はどんな文章においても、できるだけ多くの人の見解を聞くことにした。それは「定見なし」と罵られることもあったが、気にはならなかった。
やがて二十二歳の時、鄭玄は現在の大学に当る太学に進んだ。
しかし、太学での学問は鄭玄には足しになることはなかった。結局、太学の学生も教師も、鄭玄を罵った人と同じ、学説に固執する人であったからである。
むしろ、鄭玄を喜ばせたのは、太学の学生となったことで、馬融など有名な大儒に直接、教えを請えるようになったことである。特に、鄭玄は馬融を尊敬した。
馬融は不屈の人である。馬融は二度、時の権力者に従わずに官界から追放されている。一人は後漢中期に善政を布いた鄧太后であり、もう一人は後漢最悪の外戚の権力者、梁冀である。しかし、馬融が自分の学問を止めることはなく、後、病を発して議郎を引退するまで、彼は儒学の深奥に迫り続けた。馬融の盛名を慕ってその弟子となった者は数千を数えた。
馬融が鄭玄に教えたことは「自由」ということである。この場合の自由とは、現在の意味から離れ、「自に由る」ということである。
鄭玄は太学に入るまで、様々な学説を聞き続け、覚え続け、考え続けた。しかし、その学び方には限界がある。一つの学説には必ず、それに対抗する学説がある。そして、その学説にもまた、対抗する学説が存在する。それはいたちごっこのようなもので、学問の宿命といえる。鄭玄が旧の学び方を続けていくと必ず、その矛盾にあたり自分というものを見失ってしまうのではないかと、馬融は思った。
鄭玄は馬融に一旦、築き上げた「自己」を破壊された。そこから、新たな自己を作り上げることが鄭玄に課せられた。
それを見事に成し遂げた鄭玄は、やはり秀才であった。馬融の目に狂いはなかったのである。
その後鄭玄は党錮に連座して以来、官界を離れ、弟子の教育と、著述に専念することとなったが、宗爵が鄭玄の元を訪ねたのはその時である。
宗爵は鄭玄を一目見て
―巨きい人だな…
と感じた。
鄭玄は巨躯ではない。しかし、満身から発せられる気に、宗爵は圧倒された。
人には序列が在るということを、改めて宗爵は感じた。もし、自分が今剣を持っていたとしても、その切っ先は鄭玄を貫くことはできないだろう。鄭玄に一喝されてなお、剣を取り落とさずに持って居れるとは思えない。武を奮うだけが、人の力ではない。むしろ、武より大きな力が、鄭玄にはあり、それは世間では「徳」とか「威」というものであるが、しかし宗爵は鄭玄が自分を威圧しているとは感じなか
った。むしろ巨きな手で包まれたような、優しさにも似た感触であった。
「字は――」
何というのか。そう問うただけであったが、宗爵にとってその声は大地を震わす声であった。
「子賜といいます。父につけられました。」
「ふむ、宗子賜か。大いに学べよ。」
鄭玄との会話はそれだけであったが、宗爵は、この会話が絶対に自分にとって大いに有為なものとなったことを確信していた。
宗爵は鄭玄の元で十年間学んだ。十年目に、宗爵は旅に出ることを決意するのである。