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張邈  作者: 侯公講座
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一章「宗爵」

 風に揺れる草野と、其処を歩く男がいた。男は旅装である。

 背に大きな葛篭を背負い、腰に水の入った竹筒を下げているだけの軽装であり、それは、この男の旅路が短いものではないことを示している。

 名を宗爵(そうしゃく)という。字は子賜(しし)

 宗爵の息は乱れている。彼が宿を発ったのは早朝のことで、歩き続けているうちに、日はもう中天を過ぎていた。宗爵が疲労を覚えてから大分時間が経っている。しかし、宗爵の足取りは乱れていない。旅慣れているのであろう。疲労に負け、乱れた足取りで進んでいると、重心が定まらず、必然、体勢の維持が難しくなり、余計に体力を摩耗してしまう。乱れた足取りをとるということは、その人の歩みの終わりが近いということでもある。とはいえ、宗爵も超人ではなく、むしろ儒者であるから体力は常人に劣る。疲れた躯に鞭打って歩くのにも限界がきつつあった。

 先を見ると、宗爵の膝の高さくらいの岩がある。宗爵は其処まで少し早歩きで行き、岩に腰掛けた。

 やっと人心地ついた思いの宗爵は、葛篭から瓢を出し、昼食をとることにした。

 米を食んでいる宗爵の思考は四方に飛び、やがて二年前、この旅に出るときの回想に落ち着いた。





 宗爵は楚の黔中郡の産まれである。父は劫といい下っ端の捕吏で、母は宗爵を産んだときに、肥立ちが悪かったのか病んで死んだ。今、宗爵は顔も覚えていない。

 九つのときに地元の儒者のやっている塾に入れられた。宗劫自身には学問はなく(そのせいで彼は出世できないのである)、彼の学問への憧れと、通常いるはずの家族が一人足りないことで生じた金銭的な余裕が、宗爵を塾に通わせる基盤になっている。

 塾に入ってすぐに、宗爵はこの塾に飽いた。自分に並ぶ生徒がいなくなってしまったのである。宗爵は或る特技を持っていた。宗爵は一度読んだ本の内容を一言半句間違えずに記憶できるのである。しかし、宗爵は自分にこの特殊な能力が備わっていることを、入塾するまで知らなかった。宗劫が本を買い与えなかったからである。宗劫は一通りの読み書きを知っていたが、本は読まなかった。それが宗爵から本を読む機会を奪っていたのであるが、入塾してから、宗爵は気の狂ったように本を読み漁った。何分、田舎のちっぽけな塾であるからあまり量はなかったが「論語」や「孟子」などの儒教の聖典から、「周礼」や「易経」などの、実用的な礼法の本まで読んだ。

 特に、宗爵が気に入った本は「論語」であった。

 宗爵は「論語」を通して孔子と対話している気になった。

 塾にある全ての本を読み、その内容は全て覚えてもなお、宗爵は本を読むことをやめなかった。宗爵は字をみて、筆者の性情を想像することに楽しみを感じ始めていた。

 やがて、宗爵は田舎儒者の手に負えなくなってきた。宗爵の知識は膨大になるばかりで留まることを知らず、この田舎儒者を超えてしまったのである。

 宗爵は遊学に出ることになった。宗爵はこのときまだ成人していない。

 古代の成人は二十歳ではなく十二歳であり、宗爵は十一歳だった。入塾して僅か二年しか経っていないが宗爵は「論語」「孟子」「周礼」「易経」「春秋」「詩経」などを暗誦できた。神童といって差し支えない。

 宗爵が向かったのは青州の北海、後漢末期の大儒、鄭玄(じょうげん)のもとである。

 田舎儒者は鄭玄の元で数年、学んだことがあった。その伝手で、宋爵のことを伝えたところ、この大学者は宗爵を引き受けてみる気になったのであった。

 宗爵は父親に見送られて、黔中郡を発った。実は、この後、宗爵が故郷に帰ることはなく、宗劫とは、これが今生の別れとなるのである。宗劫は宗爵が鄭玄の下に行った後も、変わらずに学費を送り続け、それは遂に宗劫が死ぬまで、途絶えることはなかった。死んだ妻の面影を残す宗爵を、過度に愛したのである。宗劫の名が竹帛に記されることはなかったが、宗爵の無二の父親であったことは間違いない。

 「達者でな――」

宗劫の声は慈愛に満ちている。

 「お前はわしみたいになってはならん。学問をしろ。智は、力よりも強い。必ずお前の人生を助けてくれる。」

 それが、父子の別れの言葉であった。 

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