ep31魔神ちゃん止まって!:祈っておいて受諾を望んでない?奪っておいて?
いつか来たる可能性があるのなら、その脅威は祓われねばならない。
キスアに危害が及ぶ可能性のある因子を認識したのなら、手早く処理しなければならない。
子としての義務からなのか、それとも恩からなのか、はたまた誰かの面影を重ねたからなのか……それはクゥちゃん本人にも分からない。ただそれでも、いま向かう先に、脅威があり、自分にはそれを潰せるだけの力があるのなら、行かない理由などなかった。
風よりも疾く、水よりも鮮やかに木々を抜け、駆けていた。
薄闇がところどころ覗く緑濃い山林にて、銀髪が風を裂き、ちらりと差し込む陽光が幹を照らす。クゥちゃんはただ一つ山林に輝く、星と化していた。
葉が擦れる音が、耳元で連なる。低く枝を避け、起伏のある地面を軽やかに跳ねる。身体は迷いなく進み、景色はすべて背後に流れ去っていく。
地面の湿り気を感じながら、足裏に伝わるわずかな傾斜や根の感触すら、いまのクゥちゃんには明確だった。森の匂いが濃くなり、鼻腔の奥を抜けるたび、目の前の目的がさらに鮮明になっていく。
そして山林の中に突如として、大きく開かれた広い空間が現れた。
そこだけ空がぽっかりと露わになり、木々のざわめきさえも遠ざかって感じられる。
陽光が斜めに差し込むその中央――。
鋭く尖った土の槍のような地形が、地面から異様に突き出ていた。
まるで地脈の内部から捻じれ持ち上げられたかのように、不自然に、高く、危うく。
その頂には、“人モドキ”がいた。
両手を天に向かって差し伸べ、つま先だけで、その不安定な先端に静止していた。
まるで光そのものが人の形を取ったかのように、その輪郭は逆光の中で淡く滲み、時間までもが凍りついたかのような沈黙を纏っていた。
だが、こちらから見える陰は異様だった。
美しくさえあるはずの輪郭が、闇を孕んで歪み、何かを拒絶するような静けさを帯びていた。
その姿には、ただ崇高なものを見たときの敬意ではなく、理解できないものへの本能的な畏れが混ざっていた。
そして、彼女の背に伸びていたそれは、一見すれば魔族の翼にも似ていた。
だが、クゥちゃんにははっきりとわかった。
これは魔族のそれではない。いや、それどころか、この世界の理からも大きく逸脱した、異形そのものだった。
魔族の翼が、肉と魔力の融合からなる生体構造であるのに対し、目の前のそれは、生物の一部とすら呼べない何か“別の原理”によって成立している構造体だった。
羽のように広がるそれは、鶏の羽根のようにふわりと柔らかく、風に揺れ動く。
しかしその表面には金属のような冷たい光沢が走り、光を受けるたびに、ガラスのように透き通った輝きが輪郭を曖昧にさせた。
その美しさは自然の延長にはなく、むしろ自然法則を歪めて表れた異端の美だった。
見る者に安らぎではなく、直感的な警告を与える――触れてはならない、存在してはならない美。
その背の構造は、見る角度によってその意味を変える。
ある時は羽衣のように優雅で穏やかに舞い、またある時は棘のように鋭く空気を裂き、威圧の象徴となった。
まるで世界そのものが、その存在の周囲だけ違う法則で動いているかのように、現実の輪郭がゆがんで見える。
ひとつの存在に、清浄と異質、昇華と堕落が共存していた。
それはまだこの世界に名を持たず、分類も許されない、理の外から現れた異物だった。
罪を罪と定義しなければ、それはただ崇められるだけの光の化身となっただろう。しかしその周囲に広がる凄惨な景色には眉をひそめるしかない。クゥちゃんはこの身を授けられる前の記憶を思い出す。
王都のある大陸から反対に位置する魔族領。そこで日夜行われる最上の存在を賭けた命の争い。誰がそこで一番強いのか、荒んだ世界。今ではどうなったのか知らないものの、それは唯一の力を持った自分を排除しようと狙われ続けた日常だった。
逃げた先の安らかな日々も血で染まり、優しかった者は緑のなかで赤に侵された。
その記憶が刹那に蘇るほど、凄惨を極めていた。あれ以上のものをこの穏やかな日常に持ち込んではいけない。クゥちゃんは一瞬わずかに下げた視線を再び目の前の全てに向けなおした。
この光景を視て、誰が”それ”のせいではないと否定できるだろう。たとえ勘違いだとしても、死者を弔うそぶりには到底思えない。
そして胸の天秤は傾き、心は決した。
クゥちゃんは異様の化身に殺意を向け、飛び出した。
声も上げずに、ただ静かに。
凄まじい速度で駆けていき、まがい物の背後に回る。
そして、輝ける心臓目掛けて拳を突き、貫いた――。
自身をこそ尊いのだと言わしめるが如き人モドキの器は、にやにやと薄ら笑いをしたまま、口から血を流した。




