林町の次兄の家のこと
その年、おれの二番ん目の兄(注1)が御代官になった。
昔、その兄に八両貸したが返さなかったことがあり、男谷で出合って大喧嘩となったことがある。兄は喧嘩の晩に逃げ帰ったので、それからかれこれ十年ばかり絶交していた。
しかし兄にしても何か思う所があったと見えて、おれの所へ手紙をよこしてきた。
『久々に会いたいから、近所へ来たら訪ねてくれ』という内容とともに二分の金をよこしてきたから、おれは亀沢へ行って長兄の嫁にこの事を話した。
「まず相手が訪ねたら、こんどはこちらが訪ねるのがいいのではないですか」
兄嫁に言われたのでそのようにした。
次兄がきた時は家内が対応して、色々と馳走した。久しくご無沙汰だっただんを話し、あれやこれやと積もる話をした。
仲直り同様にして兄と別れたら、また兄嫁から文がきて、おれの妻に礼を言ってよこした。
それから次兄の所を訪ねてやったら、丁度次兄が行く先が前に長兄が支配した越後水原に決まったとのことだった。
次兄が越後水原の風俗や人気はどうだと聞いてくるから、おれが長兄について行った時の様子を話し、勤め向きでのことは大まかに知る事を話してやった。
その翌年の春。正月七日、御用始めの夜に何者かわからない狼藉者が押し入って、兄の惣領の忠蔵を切り殺した。
すぐに使いが来たのでおれも飛んで駆けつけたが、忠蔵はもはや事切れていた。
翌日、心当たりがあって小石川へ出向いたが、立ち退いた後で行方が知れないから、帰った。
その内に長兄ならびに近親の者達が相談して、当分は林町にいてくれ、とおれに言ってきた。昼は用があるから自宅へ帰り、夜は毎晩次兄の家に泊まっていた。
その月の二十五日に検使(注2)が終わり、二十九日には忠蔵の妻と次兄の妻、そして忠蔵の惣領の肫太郎が評定所(注3)に呼び出しとなった。
その時はおれと次兄の三男ににあたる黒部篤三郎が同道人となって評定所に向かったが、それから一年はこの事件のことで月に二度ずつ評定所に出た。
ある時、大草能登守の与力神上八太郎という者とその評定所で争った。
評定所留守居の神尾藤右衛門・徒士目付の石坂清三郎・評定所同心の湯場宗十郎などが間に入ってくれて、軟化した八太郎が無礼をわびるから、大草へも言わずにその件は終わった。
あの時の騒ぎはおおよそ一時ばかりだったが、お座敷中が大騒動だったから、いい気味だったっけ。
相仕の者(注4)はみんな震えておった。
この年、次兄が始めて越後へ行くから、留守を預かった。
こさえていた借金もなくなったから、おれは少しずつ遊山を始めた。しまいには色々と馬鹿をやって金を使ったから困ったけれど、しかし借金はしないようにした。
しばらくして次兄が帰ったから、留守の間のことを書きつけて出してやったら喜んでいた。
同じ年、従兄弟の竹内平右衛門の娘をおれの娘にして、六郷忠五郎という男の嫁にやった。忠五郎は元々俺の弟子だったから、おりよく縁者になったのだ。
竹内平右衛門の惣領三平もその年に御番入りをした。しかし体調が悪くって出勤できないから、お断りを申し上げて身を引くと言い出した。
おれは色々と手を回して、翌日登城させたら、大御番(注5)に入れられた。
「この恩は一生忘れん」
親父の平右衛門は喜んでそう言っていたが、後年色々とおれをはめおった。
この年の暮れ、林町の次兄は越後へ行く予定だったのだが、三男の正之助のことを気がかりに思っていた。
おれが一緒に連れて行けと意見したら、それを聞いて兄も正之助を連れて行く気になっていた。
ならばと正之助に供だって行く先のことを色々と教えて、御代官の侍は支配地へ行くと金になるから、それもよく含めてやった。
正之助はおれの話を嬉しがって、彼の地より帰ったら礼をすると言うから、それを約束して別れた。
検見中の心得のこともあるから、それを手紙にして送ったら、何をどうしてかその手紙を兄が拾って江戸に帰ってきた。
江戸に帰った次兄は手紙を長兄に見せて色々とおれを悪く言うから、長兄も怒っておれを呼びによこした。
「お前は何で正之助に知恵を貸して色々と支配所のことを教えたんだ? 親父がいるに勝手に口を出すのは不埒だぞ。それに羅紗羽織(注6)なんぞ着ているが、なぜお前はそんなに奢っているんだ?」
亀沢町へ行ったら、長兄にそう叱られた。
「正之助へ書状をやった覚えはない。羅紗の羽織はおれの高が少ないから、身なりが悪いと融通がきかない故にしかたなく着ております」とおれは答える。
「その他にも聞きたいことがある。この頃はもっぱら吉原に入り浸っているらしいな。世間ではお前の年頃になると、みんな女遊びをやめるものだ。そんな時分に不届だろう」と長兄は色々と言ってくる。
「仰ることはごもっともでございますが、これもやはり身上のためのつきあいですので」とおれは言い訳する。それがなお長兄を怒らせて、
「何にでもお前はおれに口答えする。親類でおれが言うことに言い返すものは誰もいないのに、お前一人ばかりが刃向かうのは不埒だ。今一言でも言ってみろ、ただではおかん」と脇差に手をかけて言う。
「それは兄でもあまりに言葉が過ぎましょう。私も同じ幕臣だ。犬も朋輩、鷹も朋輩(注7)だから、そう易々とは切られますまい」
売り言葉に買い言葉、おれも脇差を取ったらば、兄嫁が割って入った。色々言っておれを手前の部屋に連れてきて、「正之助の一件を片付けなさい」と言われた。
おれはすぐに林町へ行って次兄に会い、「長兄に告げ口するのは、兄弟の情が薄いのではないか」と文句を言った。
しかし次兄は「全てはお前のため、兄貴に話したんだ」と強情だ。
その時の役所の一番元〆(注8)は太郎次という人だったが、兄の所にその人を呼んで、事のあらましを話すことにした。
次兄は家のことも取り締まりできていないから、これまでも結構な御役をいただいてはしくじっている。今の御役も勤める器量がない。御役から外した方がいいと言ってやったのだ。
その話をすると太郎次が、「それはどういうことだ?」と詳しく聞いてきた。
「兄は兄弟の筆跡の真偽も見分けることが出来ない。懸合(注9)は中々の大役だから、こんなのでは勤まらない」
おれがそう言ったものだから、兄も怒って御用箱(注10)から手紙を出した。
「貴様が書いた筆跡だろうが、よく見ろ!」
投げてよこすから、おれは受け取って燭台の前に広げる。そして三度、大きな声で読んで兄に手紙を返した。
「よく似せましたな」
言うおれに「まだしらを切るか!」と兄が怒って返す。
「そこが三郎左衛門の分かっていない所だ。もしそれが私の書いたものならば、こうも堂々と読めるはずがない。これくらいのことに気づかないようでは、大勢を相手に取り扱う大役は到底勤まらない。親類共はいつも私が勤めていない事を小馬鹿にしているけれど、天下の評定所で筋違いの不礼を正せる者は私以外に聞いたことがない。真偽もわからない兄を持ったのは、私の不肖にございます」
おれがそう挨拶してやると、その場にいた者は一言も返すことが出来ない。
「この手紙は偽物に違いないから、わしの誤りだ」
兄が言うから、「それなら大兄にも手紙をやって、その訳をお申しください」とおれが付け足した。
その席で文通をし、長兄からの返事に納得したので、家に帰ることにした。
その時、甥めらが脇差を腰に下げ、次の間にて残らず待機していた。
「先だっての狼藉の時、お主らが今のような心意気でいれば、忠蔵もむざむざ殺されはしなかっただろう。あの時は逃げて、伯父に助けを求めた。馬鹿にもほどがあるものだ。しかし、お主らの親父の子供への教示、感心した」
帰りがけに甥達に向かってそう笑い、おれは帰った。しかしその言葉に次兄の家中が悔しがったと、後で聞いた。
それからは長兄も林町の次兄も、おれの事はとうに諦めているから、少しも頓着しないで色々と馬鹿騒ぎをして日をおくった。
ある時次兄の三男の正之助がやってきて、色々と兄の話をした。
ふと思って滞っていた揚代の六両を出し、林町の用人を仮宅(注11)に連れて行って、たらしこんだ。そのことを兄が怒ってやかましく言うから、兄嫁に言付けしてはぐらかし、その事は済んだ。
おれもその三、四年は大きく心が緩んでいたから、吉原ばかり行っていた。しかもとうとう地回りのごろつき共を手下につけていたから、誰一人としておれに刃向かう者はなかった。
そのかわりに金も大層使った。それでも自分で働いて金を用意し、借金はしないようにした。道具の市へは一晩も欠かさず通い、儲けたけれど、それだけでは足りなかった。
【注釈】
注1 … 松坂三郎左衛門のこと。天保9年から13年まで甲府で代官を勤めた。
注2 … 江戸時代には既に検死が行われ、それを行う役人を検使と呼ぶ。現在のような科学捜査はないが、外傷などの様子から他殺でないかなどが判断された。
注3 … 江戸時代に訴訟を受け付けた役所。現在の裁判所。
注4 … 一緒に仕事をする人。
注5 … 大番とも。幕府の常備兵力組織で、他の常備兵力組織よりも歴史がある。
注6 … 毛織物の一種。丈夫で保温に優れる。見た目が派手なため、商人達が競って羅紗羽織を着たため、一時期禁止されたこともある。
注7 … 身分が違っても、同じ人に仕える同じ立場であることを意味することわざ。
注8 … 江戸詰元〆。松坂三郎左衛門の上司。
注9 … 代官のこと。
注10 … 用務の書類や金品を入れて運んだ箱。
注11 … 吉原が火事になった際に、幕府の許可で料亭や民家に仮設された店。