釣り糸の先
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と、内容についての記録の一編。
あなたもともに、この場に居合わせて、耳を傾けているかのように読んでいただければ、幸いである。
おっ、こんな寒空の下でも、服着こんで釣りに没頭している人がいるな。
熱心だねえ。見ろよ、小さいテントまで持ち込んでいる。すくなくとも一日中は粘る計算だろうな。
お前は釣りを、どれだけやったことがある? 俺は全然だ。どうにも、金をかけて道具を揃えて、結果が出るかどうかも分からないことに時間をかける……ちと、抵抗があって踏み切れないのよ。
釣り好きの俺の友達はいう。
「我慢と辛抱っていうのも悪いことじゃない。なぜならそれを味わうことで、後の楽しみが湧く。腹を減らして減らして、ようやくありつけるメシってのは、うまいものだろ?
いつも腹が減る前から、定期的に食べている人には味わえねえ、『飢えたゆえの美味さ』って奴か? そいつを味わいたくて、俺は釣りを続けているんだ」
そうのたまっていた。成果が出るまでの心の飢え、乾き……そこに垂らされる極上の甘露を今か今かと待ち受けているんだとか。
釣り、といえば思い出したが、俺の父親も釣りに関して、ちょっと不思議な体験をしたことがあるらしい。お前のネタの役に立つといいんだが。
父の実家でもあった祖父の家。先祖代々、その土地に住んでいて、いかような戦火に見舞われても、その家の一帯だけは無事であったらしい。
この話は、父が実家で暮らしていた、小学生の時の話になる。
敷地の中は時々のリフォームによって、多少のレイアウトが変わったりするが、変わらないものも存在する。
池だ。石で囲まれた、幅15メートルほどの池。そこには何も飼われていない。
祖父は庭の手入れに加えて、必ず池に立ち寄って、新しい水と取り換える。
そして池の端には「ししおどしもどき」の竹筒が一本くっついていた。格好は整っていても、竹に水を注ぐ用意がないんだ。
子供だった父の目にも、いらないものにしか見えなかった。だから祖父に尋ねてみたんだ。
「どうして、あんなものを池と一緒に残しているのか」と。
答える代わりに、祖父はそのまま、父を「もどき」の近くへ連れて行った。なみなみと水をたたえる池のふちで、「もどき」はいつも通りそのあごを、偉そうにしゃくり上げている。
「あの持ち上がった竹のヘリをよく見てみろ」
祖父が促すまま、父は目を細めながら顔を近づける。そして、気づいた。
竹のとがった頂点にかぶさるようにして、一本の細い糸が垂れている。わずかに風が吹いて、その身を揺らしてくれなかったら、確かめるのになお近づく必要があったかもしれない。そのような、クモの糸を思わせる薄い一糸だった。
糸が垂れている先を見る父。けれど水面から下はよく見えない。ぷつりと切れてしまっているかのようだった。
不思議そうに眺めている父の後ろで、祖父は「釣りをしている」と、おもむろに言葉を投げた。
「別にここだけに限った話じゃない。わしらの及びもつかない昔から、色々な場所で釣り糸は、ずっと垂らされている。いずれ食いつくであろう大物を捕らえる、その時を信じて、ずうっとな。
すでに釣り上げ、恩恵を賜った場所もあろう。いまだ釣り上げられず、苦しみに耐えている場所もあろう。
我が家では、数えきれないほどのご先祖様が、釣り上げる瞬間の訪れを信じ、そして立ち会えずに死んでいった。それが今も続いている」
ま、年寄りのたわごとだと思って、流しておけ、と言い残し、祖父はさっさと家の方へ戻ってしまう。父はというと、その細い細い糸を、今しばらく眺めていた。
今、この場で手繰ってしまえば、あっけなく切れてしまいそうな細い糸。この先に何が食いつこうとしているのだろう。
父は糸に手を伸ばしてみたい衝動に駆られたが、やめた。たわごとと言っていたが、語っている時の祖父は真面目な顔をしていたからだ。
ならば「ここだけに限った話じゃない」という言葉も、きっと間違いじゃない。
父は遊ぶついでに、釣り糸を探すことにも気を配り始めた。
自分の家にあるものはいじれない。本来釣れるべきものを釣れなかった時、何が起こるのか。考えると少し怖さを覚えた。
仮に人の家にあったとしても、手を出さないのが無難だ。だったら、自然の中で見つける。
必ずしも糸が、家にあったのと同じ形で生えているとは限らない。父は林や植え込みを中心に、糸が引っかかる部分がありそうな場所を探っていく。緑の濃い部分に目がとまりがちなのは、あれがクモの吐いた糸に似ていたことから、なんとなくだ。
自然界に張ってある、生き物たち謹製の糸が、しばしば父の手にかかる。
さすがに整った巣や繭に突貫することはなかったが、葉の先っちょから垂れ下がった糸を、今まさに巣を作ろうとしているクモごと、引っ張ってしまったことがある。そんな時は、そっと近くの葉っぱの上へ戻してあげた。
池の糸を眺める機会も増える。誤認を避けるためにも、十分に観察をしておかねばならない。
見れば見るほど、クモ糸に似ていて判別が難しいという結論が出てくる。
「お前、遊びに行く時に、どこら辺に行くかくらい、話していけよ」
時々、庭に出てくる祖父に声をかけられる。これまで池にさほど関心を示さなかった父が、件の糸を、やたらと気にし始めたんだ。もくろみも、ほぼバレているとみていいだろう。
それでも注意にとどまり、外出を禁じられるなど、具体的な束縛を受けることはなかったんだ。
探し始めて、およそ半年。父はついに発見した。
昨日、降り続いた雨。自然にあるほとんどの糸が、玉のような露で飾り付けられる中で、それだけは地味で、今にも消え入りそうな容姿を保ち続けていたんだ。
場所は父が遊び場としている、いくつかの公園のうちのひとつ。その外側に並ぶ、植え込みの一角だった。
父は糸を手に取ると、ぐいっと引っ張り上げてみる。葉の中に隠れていた糸の先は、かすかな手ごたえと共に、姿を現した。
線香花火。父が感じた第一印象は、それだ。
数ミリ程度の、オレンジ色の火球。その周りに同じ色の火花が散っている。それは引き上げられてから、わずか数秒ほどで消え、ただのか細い糸の先を残すのみとなった。
でも、その光景を見ただけで十分な収穫。なぜなら、父は今までにない心地よさを感じていたからだ。
ここ数日、悩まされていた頭痛が、ぱっと消えた。すりむいていた膝小僧の、慢性的な痛痒さも消えた。
その上で、文字通りに目から鼻へ抜ける、冷たい風を感じる。かんかんに火照った額に、冷却シートを当てた。あの瞬間が、顔から身体に、身体から手足に伝播していく。
思わず目をつむって、大きく息を吸い込む。ただ空気を吸って、吐き出すだけのその動作が、とてつもなく「おいしかった」。
父の短い人生経験の中で、一番の快楽はおいしいものを食べること。あの糸を引き抜き、火花を見た時は、まさに新しい美味を見つけ、口に入れた時のように感じたらしい。
それからというもの、父は時間を見つけては、例の糸に手を伸ばすようになった。
あのわずかな線香花火を目にし、舌も腹も満足させるんだ。
今までに食べた、あらゆるご飯が及ぶべくもなかった、と父は語る。
糸の先は数時間もすれば、調達されるようだった。やがて父が糸を堪能するのは、休日のひとときは、平日のひとときになり、日によっては三度にも五度にもなったらしい。
かかるのはわずかな時間だけ。それで極上の味と満腹感を味わえるのに、何をとまどうことがあっただろう。
そうして、数ヶ月が過ぎる。
すでに「一日四食以上」が当たり前となっていた父は、その日も学校からの帰り際に、例の公園へ寄った。
すでに冬場。ちょっと寄り道をすれば、空には暗闇がかかり始める。家々が明かりを灯し出す中、父はひと気のない公園で、なじみとなった糸を見つけて手繰り寄せる。
いつもはあっさり抜ける糸。けれどそれが今は、地面に強く根を張っているかのように、頑強に抵抗してくる。
力を入れて、入れて、入れきれずに、少し休もうと、手を離しかけた瞬間。
糸がひとりでに、引っ込み始めた。その強さと勢いは、まだ糸を半ば握っていた父の身体を丸ごと吸い込むほどだったとか。
足が地面を離れ、頭が茂みの中へ突っこまれる。さながら、水泳選手の飛び込みのようだった。かろうじて靴の先が公園の柵に引っかかったようで、つま先の痛みとともに動きが止まる。
突っ込まれた茂み、本来なら雑多な枝に塞がれるはずの視界の中で、父は見た。
爛々と輝きながら横たわっていたのは、いつも見る糸の先の玉を何倍、何十倍にも大きくしたものだった。枝葉たちも、その玉の周りだけは恐れ多いとばかりに、視界から退いている。
父はえずき、腹から口へせり上がるものを感じていた。
苦しい。すでに満腹なのに、あとからあとから注ぎ込まれてくる感覚。どのような料理も、あふれ出るほど詰め込めば、苦しくなるのは必定だ。
ぐわっと、父は吐く。その口から漏れた黒いものは炭のようにも、給食で食べた鶏肉の塊のようにも思えた。
落ち行く黒片。それがあの玉へ飲み込まれて見えなくなる。とたんに、玉は膨張して父の視界に広がっていく。
いや違う。大きくなっているんじゃない。近づいてくるんだ……。
不意に、身体が引き上げられる感触。
玉はぐんぐん遠ざかり、また姿を見せ始めた茂みの枝葉たちが音を立てながらどいていき、やがて空が見えた。
すっかり暗くなったそれを見上げながら、父は祖父に抱き上げられていたんだ。
「いい気分は、味わえたか?」
心配の言葉より先に、祖父の口をついて出た言葉が、それだった。
服についた汚れを落としながら、父と一緒に歩く祖父は話し出す。
「あれこそが、エサだ。お前はエサに食いついた魚だったのだ。
釣る側に回りがちだと気づきづらいが、我々もまた、いつでも釣られる側になってしまうことを忘れるな」
釣り上げられてしまった先に、何があるか分からんしな、と祖父はつぶやく。
今も祖父の家には、あの糸が残っているらしい。あれがふるえる時、何が食いつくのだろうな。