*純桜花 feat.早見詩央
「早見」
「……あっ、有馬君だ。やっほー」
突然降ってきた聞き慣れたテノールに、私は流れ作業のようにゆっくりと振り向いた。その間に、私は既に理解している。発せられた「はやみ」が私の名前であることと、それから、その声の持ち主を。
――重そうな程にその細い枝を淡い桃色で彩らせている桜は、その美しさを、惜しげもなく振りまいていた。
それを私は息をするかのように自然に美しいと思ったし、次の瞬間には当然のように「綺麗だね」とひとりでに零していた。――――「綺麗だな、桜」。
きっと有馬君は、それが聞こえていたから。だから私に気付き、態々声をかけてくれたんだろう。
水泳部の朝練がある有馬君とこうやって朝に鉢合わせるのは滅多にないことで。あぁ、入学式なのだと、新学期だと実感させる。
「そうだね。花言葉はね、『純潔』なんだって。ぴったりだと思わない?」
「……早見は相変わらずそういうの良く知ってるよな」
「まぁ、好きだし。花に限らず、動物とかもね」
――みんな、精一杯に生きてるし。
浮かび上がった思いを言葉にすれば、何だか少しこっ恥ずかしくなる。あぁ、何時もの私なら、こんなこと気にも止めないのに。今日はどこか、可笑しいのかもしれない。
言い逃げるかのように無意識に速くなったスピードに気が付いて、それでも今頃緩めるのも面倒だし変なので、そのまま歩き続ける。
春特有の温度を持った風が、柔らかく私の髪を揺らす。その度に、名前を付けられないぼんやりとした何かの輪郭が浮かび上がっては、消えていく。
私が歩幅を大きくしたところで、有馬君の歩く速さが変わる訳でもない。……悲しいかな、この身長差。やっと150cmになったばかりの私と、無駄に180cmもある有馬君とじゃ、元から何もかもが違うのだ。
人は人、自分は自分だと割り切ってはいるし、この数年対して変化の無い身長はどうしようもないことだと諦めてはいるけれど。それでも何となく、もう伸びないのだと認めてしまうのは悔しい。私の信念は、いつだって「なんとかなる」だ。だから、何とかしてみせる。今日は牛乳を二パック飲もうと、心に決めた。
そんなことを私が悶々と考えているとは露知らず。有馬君は、何時もの速さで歩き続ける。――ぶれないな、有馬君は。
人に流されず、ひたすらに真っ直ぐで、マイペース。有馬君は、そういう人だ。
ぶれない。真っ直ぐな、有馬君。心の中で繰り返せば、まるでそれがパズルの正しいピースに当てはまるかのようにしっくりとくる。そうだよ、いつだって有馬君は――そして私は、唐突に気付いてしまった。
至って普通の疑問かもしれないけれど。――それなら、なんで有馬君は今まで私の隣を歩いていたんだろう、と。
「ねむ……」
「有馬君、入学式なのに相変わらずだね」
「朝は朝だっての。関係ねーよ」
――簡単だ。
有馬君は、私に合わせていたんだ。歩くスピードを、歩幅を、私に。
「そういうの、苦手なくせに……」
「ん? 何か言ったか?」
思わず漏れた言葉に有馬君が反応するも、私はそれに反応できなかった。だってまた、私は気付いたのだ。彼――有馬翔という人物に。
「早見……? どうしたんだよ、具合でも悪いか? なら、一旦家に――」
その声に、言葉に、私は思わず立ち止まる。それの中に僅かに香る、焦りと心配の色。至ってシンプルな問い。――あぁ、有馬君は。
「……ありがとう。全然ヘーキだよ、気を使わせちゃってごめんね」
「や、別に。てかそれ、本当か? お前すぐ溜め込むし無理しやすいし」
「大丈夫だって。心配性だね、有馬君は。そんなに私が好き?」
「こんな時にふざけんな」
「大丈夫なの」
頭の中で有馬君の声でリフレインされるこれまでの彼の言葉と出来事に、私はどうしてだか、泣きだしてしまいそうになる。やっぱり今日は、どこか可笑しい。どうして今日、どうして今、気付いてしまったんだろう。
鼓動が大きくなり、脈が早くなる心臓に、身体が疼く。赤くなっているであろう顔を誤魔化すように、私は急いで頭の中から言葉を探した。
「強いて言えば、緊張かな。なにせ今日から二年生――“先輩”になる訳ですし?」
「あの早見が……緊張……?」
「どの早見ですかそれ」
――ひらひらと、桜、ソメイヨシノ。それはまるで私を嘲笑うかのように、静かに風の中で踊っていた。
(後々思い返してね、恥ずかしいのだけど、この時にはもう好きになっちゃってたんじゃないかななんて思ったりしちゃいましてね。
つまり、この時の私には、まだ自覚が無かったのです。彼――有馬君への思いが、そういう類の物であることを。
起承転結で言えば、ここは“承”。まだまだ序盤なのです。私、早見詩央と、有馬翔君との物語は。
良かったら、お茶を片手に、暇つぶしにでも覗いてみませんか?)