TOEFL100オーバーだし、英語の本も雑誌もフツーに読めるけど、やっぱりどーしても英語は好きじゃないもん!!
諸君、私は英語が嫌いだ。
英語のできない日本人の戯言だと思うかもしれない。嫌味な言い方で申し訳ないが、先に言っておくと、私の英語力はそんなに低くはない。
これまで洋書は何冊も読んだし、英語雑誌(TimeとかThe Economistとか、Newsweekとか)は読めるし、Youtubeに投稿されている英語のビデオは大体わかる。具体的な数字を出すと、私のTOEFL iBTの点数ー120点満点で、日本人平均は70点ぐらいーは53万である。
嘘だ。
100点を上回る程度だ。少し盛ってしまって申し訳ない。
英語がデキる、などというつもりはない。事実、ドラマ・洋画は字幕なしだと分かりかねる部分がある。それでも、非帰国子女の日本人としては頑張っているほうだとおもう。
しかし、諸君。
私は英語が嫌いだ。
まず、あの発音が嫌いだ。日本人を挫折させるために考案されたのではないか、と思うくらい邪悪な出来をしている。
舌先を上下の歯で挟んで“TH"とか、下唇を甘噛みして“F”とか“V"とか。出来るはずもない。口中が傷だらけで、血の味がする。
そうして、真面目に練習したところで、一向に上手くならない。ジャパニーズアクセントはいつまでも馬鹿にされる運命だ。
本気で発音が上手くなりたいならーーここに極意を教えよう。
最終奥義。
それは、日本語の発音をまるっと全て忘れることだ。文字通り「全て」である。
日本語の発話に使う筋肉の操作法は全て忘却せよ。そのための脳の回路も使ってはならない。彼らに夏休みをやってくれ。運動言語中枢のニューロンは布団かぶってオネンネしてな。このようにして、言葉というものを全く知らず、何か物を言おうにも、口をパクパクするほかない、というような状況に自らを追い込むのだ。
その後、英語の音声を聞く。じっくりと聞く。ねっとりと聞く。そして、それをそっくり真似する。一つ一つの音節を愛撫するように。そうすれば、パキパキに乾いて地割れを起こした大地を雨水が潤すが如く、見事に自然な英語が全脳に染み渡る。こうして、やっと英語の発音学習の土俵に立てるのだ。
我々が愛用するところの日本語を無化して、やっと英語の地平に立てる。
これほどの苦痛と屈辱はあるだろうか。
*
再度言っておこう。
諸君。
私は英語が嫌いである。
私は、あの醜悪な綴りが嫌いだ。
26文字のアルファベットに恨みはないが、どうも英語はそれを使いあぐねている節があるのだ。
グイタル(guitar)と書いてギターと読ませる。“note”と書いてーどんなに慌てん坊のサンタクロースでも4文字目の“e”は見落とすはずがないのだがーノートと読まねばならない。
“ghotiという単語がある。ゴーティではない。フィッシュと読む。
“laugh”の“gh”、“women”の“o”、“nation”の“ti”を組み合わせて、劇作家のバーナード・ショーが作ったとか、作っていないとか。まあ、詳しくはググってくれ。いずれにせよ、英語を母語とする人間ですら、その綴りと発音との放埓な関係に頭を抱えているのだ。いわんや、そんなものを極東の民族がまともに学習できるわけがない。
もっともこの点に関しては、我が言語に関しても、花壇に舞う羽虫を指して「てふてふ」と書いていた時期があるからあまり強く指弾することはできない。バツが悪いことに、戦後であつても三島由紀夫や丸谷才一といつた名だたる文豪がこの仮名遣ひを愛し、終生用ひていた事実がある。
まずい、まずい。
都合が悪いので、彼らは文壇史からひとまず削除することとして、論を進める。
*
気を取り直して、再度言おう。
私は英語が嫌いである。
英語の文法が最悪だ。
何より、日本語とまるで反対ではないか。そろそろ、CIAかNSAかイルミナティの陰謀論も検討せねばなるまい。
英語を話そうと思ったら、まず主語を提示し、その後早急に動詞を明言せねばならない。しかも、焦って順番を違えてしまったら大ごとだ。“Cats chase rats.” と“Rats chase cats”ではまるで意味が正反対になる。
ネズミもいきなり猫を追えと言われて、戸惑うに違いない。
それとも、スタンフォードの監獄実験のように、追うものだと教え諭せば、追いかけ始めるだろうか。
ああ、そうだ。
複数形。
嫌なことを思い出してしまった。
全く、我々にとっては面倒でしかない。
ある年、私はサマースクールというものに参加した。ひと夏、海外で英語を勉強したのだ。
そのとき、とあるロシア人の女と仲良くなった。女は巻き舌全開の英語で聞いた。
「日本語でdogはなんていうの?」
「犬(inu)だよ」と私は答えた。
「INU」と女は言った。悪くない発音だった。
そして女は聞いた。「INUの複数形は?」
「犬(inu)だよ。日本語に複数形はないから」私の返答に、女は眉毛を吊り上げて驚嘆した。
「ない?? どうして?? そんなことがあっていいの??」
ピロシキを味噌汁に突っ込んでしまったときのような顔をした。インド・ヨーロッパ語族に囚われた女の悲劇である。
*
諸君、私は英語が嫌いである。
最後に。
最後に、最も重大な点を今から述べよう。
何が嫌いか。
それは、
それは…
それだけ嫌いな英語が、とても役立つということだ。
とっっっっっっっっっっても役に立つ。
家の中を軽く見渡してくれ。電気ケトル、冷蔵庫、扇風機、布団、箱ティッシュ…何が目に入るか知らないが、英語は大概のものより役に立つのだ。
入ってくる情報が格段に増える。仕事の幅が広がる。海外旅行でも困ることが減る。トラブルが起こっても、対処したり文句が言える。
村上春樹を英語で読み直せる。英語で読んでもやはりハルキ・ムラカミだ、などとしたり顔ができる(大してわかっていなくても、だ)。
世界中の人々と友達になれる。最近レバノン人と知り合った。レバノン料理が、肉と野菜のバランスがよくヘルシーで、世界中で大人気である旨薫陶を受けた。
そして、私は活字中毒なのだが、日本語に飽きたときは英語を読むことにしている。ニューヨークタイムズでも、エコノミストでもいいのだけれど、日本では取り上げられなかったようなニュースが日本とはまた違った雰囲気で書かれているのだ。たっぷりと聖書やらシェイクスピアなどを引用してくる。嫌だ、あー嫌だ。まったくに鼻持ちならない。しかし、三食白米というのも飽きるから、たまにはホットドッグを欲するのが人情である。人間はそういうふうにできている。
何もこうした外向きの話だけではない。
実はドメスティックに考えてもそうだ。
都民ファーストがサステイナブルでワイズスペンディングだし、仕事ではタイトなスケジュールでコンプライアンスがマストだし、ネットではチートハーレムかラブコメかサイエンスフィクションなライトノベルがトレンドだ。
そもそも、このサイトだって、アカウントを作ってログインし、ブックマークを増やしてランキングを競うようになっている。
ふざけんな。
なんたる英語愛だ。日本の小説投稿サイトだろうが。日本語で想像力を広げ、日本語で万象を書く尽くす野心を持った人たちが集う場ではないのか。とんだ裏切りだ。背信だ。
もうやめだ、やめだ。
これ以上、MacBookAirのキーボードでエッセイをタイピングしていられない。
実のところ、くどくど言った発音だの、文法だの、そんなのどうでもいいのだ。
馬鹿にする奴は放っておけばいい。下手だろうと、間違っていようと、英語は使ったもの勝ちだ。
知ってる英単語を適宜並べろ。後は魂の問題だ。
気にせず海外を旅して、商売をして、友達を増やせばいい。
嗚呼、あの努力はなんだったのだろう。
受験英語とはなんだったんだろう。
諸君、私は英語が嫌いだ。