#81 『少年は、のちにかけがえのない存在となる少女に、出会った』
走る。走る。走る。
彼自身にも、自分が今走っている理由が分からなかった。窮屈な世界に閉じ込められたままではいたくない、などというようなたいそうなことは考えていない。
彼は、生まれたばかりの死神だった。生まれたばかりで、未練死神が現世の人間に近い存在であるとはいえ、人間のように言葉を話せず、歩くのもやっとできるようになった程度、というわけではない。そこが死神と人間の違うところで、ちょうど犬と人のように、成長スピードが違う。彼はあまりしゃべりこそしなかったものの、言葉を理解することは何とかできたし、歩き回ったり、走ることもできた。
そして、ずっと走っていた、暗い、どこまで続くのかも分からないような森を抜け、辺りが明るくなる。いつの間にか靴は脱げてどこかに行ってしまい、藪を抜けてきたせいで外套もところどころ破れていた。
それが彼がちらっと聞いたことしかない、現世の風景だった。
あちこちを人が行き交う。大人だけでなく、子どもも。お父さんやお母さんに連れられてあちこちの店に入っては出て、入っては出てとしている子ども。かばんを背負って、石畳の上を飛ばし飛ばしに行く男の子たち。近くの店で見つけたものなのか、色とりどりの髪飾りを見せ合いっこして笑い合う女の子たち。みんながみんな楽しそうな、幸せな町だった。
別に自分がさみしい思いをしていたわけではない。だが、なんだかあそこに混じることはできないな、というのを彼は感じた。自分が死神で、彼らは人間。その事実が、距離を遠ざけている気がする。
やがて彼はそんな男の子たちや女の子たちに背を向け、石畳を歩き始めた。1つの大きな町があちこちに分かれた川で分けられ、その島どうしに橋が架かっているようだった。そのたくさんある橋のうちの1つを、とぼとぼと歩いて渡る。『虹がのぞく橋』という面白そうな名前だったが、少なくとも彼は今、そんな気分ではなかった。
それでも彼は楽しそうな男の子や女の子の真似をして、あちこちにある店に入ってみる。もちろん何も分からないまま逃げ出してきた彼がお金を持っているはずはない。そもそも幼すぎて、お金というものを出さなければものが買えない、ということもまだ分かっていなかった。だからいい匂いにつられてパン屋さんに入り、並んでいるパンを勝手に取って食べて怒られてしまった。お腹が空いていて、そこに食べて欲しそうにパンがいるから食べただけなのに、と思って、怒られたわけも分からなかった。
「今は忙しい、頭の悪いがきんちょは店の奥に突っ込んでやる」
とパン屋さんのおじさんは言って、本当に店の奥に連れて行き、ダイニングの椅子に座らされ1人にされた。彼は泣かなかった。暗い部屋に閉じ込められたならまだしも、ただ明るいダイニングに置かれただけだったからだ。
そのちょっとした騒ぎを聞きつけたか、上の階から誰かが下りてきた。
「お父さん、何?......え、この子誰」
「その辺のがきんちょだ。悪びれもせず堂々とうちのパンを食い荒らしやがった。放っておけば他の店でも同じことやるかもしれん、だからこいつの母親が来るまでここで預かっとく。いいか、あんまり関わってやるなよロゼ。まったく、どこのやつだ、しつけもクソもねえ」
そう言い捨てておじさんはまた店に戻った。
残されたのは彼と、ロゼと呼ばれた少女の2人。何も言うことなく、しばらく見つめ合っていた。
その気まずいような、言いようのない空気を破ったのは、
ぐうううぅぅっ。
彼のお腹の鳴る音だった。
その音がどこから来たのか一瞬分からなかったらしく、少女は不思議そうな顔をしたが、すぐに分かったようでけらけらと笑い出した。それからひとしきり笑って、
「あなた、まだお腹空いてたの?よっぽどだったのね、それなら他の店でも同じことするかもしれないわ」
そう言ってテーブルの上のお菓子を取り、
「食べる?」
彼に差し出した。彼はこくりとうなずいて、袋を開けて食べ始めた。1粒はそれほど大きくなくて、甘辛い味付けのお菓子だった。お腹が空いていたのも手伝ってすぐに食べきってしまい、椅子に登ってもっとお菓子がないか、彼は探し始めた。
「......まだ食べるの?」
さすがに驚いた様子のその質問にも、彼はこくりとうなずいて、探し当てたお菓子をまた食べ始める。
お菓子を頬張って幸せそうな顔をする彼を、少女はじっと見つめた。特に少女が見ていたのは、彼の来ていた外套だった。小さいサイズであることもあって、その暗い色の外套はよりいっそう異様だった。とても母親が子どものために買い与えて、着せてやるような種類の色ではなかった。
彼のことを、少女がじっと見ているのに気づいたらしく、彼は少女に不思議そうな顔を向けていた。
「聞きたいことがあるんだけど、いい?」
こくり。
「お母さんは、この近くにいる?」
その返事によっては今後のこの子の運命が変わる。そう考えて、最初にその質問を投げかけた。
彼はしばらく考え込む様子を見せた後、ゆっくり首を横に振った。
その返事は少女にとって、ある程度予想がついていた。少なくとも彼は、この街出身ではないということだ。
「どこから来たの?」
その質問にも彼は首を横に振った。
「そう......」
ちょっとでもヒントが欲しいと思って少女は尋ねたが、少しがっかりした返事をした。
「(もしかしたら、孤児院の子なのかな)」
この街を出て少し行ったところに、あたりの孤児を一手に引き受ける孤児院があった。少女の知識の範囲内では、母親がここにいない子は、孤児院出身だと考えざるを得なかった。だとすれば、母親をいくら待とうと意味がない。そもそも戦争やら病気やらで親のいなくなった子、あるいは捨てられた子さえいる孤児院なのだ。そして大人になっても、実の父親や母親に再会できる可能性はかなり低いと聞いたことがある。
「とりあえず、この家にいる?」
少女の問いに、彼はすぐにうなずいた。分かっているのかは分からなかったが。
「......なんだ、ガキはまだいやがったのか」
「この子、孤児院出身なのかもしれないわ。服が気になるところだけど、お母さんが来ることはなさそうなの」
「つったってガキが言ったことだろ?適当に言ってるかもしれねえ」
「とにかく、学校にも行ってないみたいだし、邪魔だから放り出すなんてできないわ。しばらくうちで預かった方が......」
「何てこと言ってんだロゼ、ウチは別に裕福じゃねえんだぞ。むしろこの街じゃ中の下ってとこだ。そんなウチに新たに孤児を育ててやる余裕はねえ」
「それでも、他にどうすればいいの?」
「孤児院に戻せばいい話だろ」
おじさんが孤児院に連絡を取った。が、ここ1週間でいなくなった子どもはいない、という返事だった。
「......違った、か。ったく、ウチにはそんな余裕はねえってのに」
「でも......」
「分かったよ、だがウチにいるからにはしっかり仕事覚えて働いてもらうからな」
「お父さん!」
「ウチにおく条件だ。あいにく追加のタダ飯食いはいらん」
「......。」
おじさんは夕食を終えて片付けをすると、さっさと自分の部屋に引っ込んでしまった。少女は彼に、自分の部屋に来るように言った。
「......ごめんね?」
椅子に座って、少女がそう言った。彼はそれに対してどうしていいか分からず、今度は首を縦に振った。
「私も、実は弟が欲しいな、って思ってたから。わがままで振り回しちゃって、ごめんね」
「......いいよ?」
彼がそう言った。それは意外だったらしく、少し目を丸くして、少女が言った。
「そっか、ありがと。......名前は?聞いとかなきゃね」
「ル、......シェ、アラ、シェ、アルカロ」
彼の名前は、覚えるには長すぎた。だから自信のない部分は言わず、確実に覚えているところだけを言った。すると、
「アル!いい名前!」
最後の部分をとって、少女が言った。
「私はロゼリア。ロゼって呼んで。よろしくね、アル」
「ロゼ!」
名前を呼んでもらえて、少女―――ロゼは嬉しそうだった。
その夜、彼―――アルは、寝るところがなくロゼの隣で寝た。全く違う環境であることに、アルの身体が不安を示していた。身体の震えが止まらなかったが、そんなアルを気遣って、ロゼは頭をよしよし、と撫でてくれた。赤の他人にそんなことをされたのは初めてだったが、アルはその時、すごく安心した。そして、いつの間にか眠りにつけていた。




