#181 大切な人
リナは暗い闇の中を歩いていた。文字通り闇、光らしきものもなければ目印となりそうなものの手触りもない。どこに向かって歩いていけばいいかも分からないはずなのに、リナはその中をひたすらさまよっていた。ここから出たいのかも、分からなかった。
「……ティエリ」
ふとその名前が、リナの口をついて出た。そうだ。ティエリはどこにいるのか。これまで仕事をもらう時を除いていつも一緒にいたティエリは、どこに行ってしまったのか。リナの目的ははっきりした。ティエリを、探す。だが何も手掛かりのない暗闇で、どうすればいいのかも分からなかった。
どうすればいいのか分からない。
そのことが分かった途端、リナの額を、頬を、冷たい汗が流れていく。流れ出してから止まらなくなった。
「ティエリ……!!」
名前を何度呼んでも、返事などない。だが、うめくような声が一瞬だけ、聞こえた。その音のした方を突き進んでいく。足元に何かがある感触がした。
「ティエリ……?」
しゃがみ込んで、手で触って感触を確かめる。それは人間であり、まさに探していたティエリだった。
「リ、ナ……」
ティエリは血を流していた。どこからかさえも分からないのに、おびただしい量の血が流れていることが感じられた。ティエリは息絶える寸前で、あるようだった。
「ティエリ!! ティエリ……しっかりして……!!」
リナは叫んだ。その叫びは届いたのか、あるいは届かなかったのか―――
「……ああああぁぁぁっっ!!!!」
リナの視界が急に明るくなった。目が覚めたのか。さっきまでは、夢の中の話だったらしい。ぼんやりとする頭で、視界がかすれていながらもリナはそう思った。先ほどまでと共通していることと言えば、尋常ではない量の汗をかいていたことぐらいだった。
「……目が覚めたかい?」
聞いたことのない声がしてリナが振り返ると、そこにはおばあさんがいた。そして、頭の隅にあった記憶が瞬時に引っ張り出されてゆく。
「あたし、は……」
「無事に逃げ切れて、よかった」
おばあさんはそれだけ言って、別の方向を見た。リナがそれに倣うと、ティエリが同じようにして寝かされていた。
「ティエリ!」
そう叫ぶなりリナはティエリに近付こうとしたが、おばあさんに引き止められた。
「今はちゃんと寝ておった方がええ。それに、あのケガだから」
おばあさんが指差した方を、リナは見た。ティエリの右腕と左足がなくなっているのが見えた。
「ティエリ……」
「あの状態でスラム街から逃げてきたのかい、だとしたらすごい精神力だね」
「ティエリは、生きてますよね」
「ええ、もちろんだよ。疲れているからか、しばらく起きそうにはないだろうけど」
「よかった……」
リナは次に、近くに置かれていた箱を見た。それは二人が必死になって持ってきた、お金の詰まったものだった。自分を育ててもらうのに必要なお金を持って、育ててくれる人を探すのだ。思い返してみればそんな余裕がなかったこともあって、いくつか家を回る、という暗黙のルールを破ってこのおばあさんの家に飛び込んだのだった。
「……おばあさん。改めて、お願いがあるんです」
「ええ、ええ」
リナはその箱を持ってきて座り、おばあさんの目の前にそれを差し出した。そしてふたを開け、中身を見せた。
「……これだけしかないですけど、あたしたちのことを引き取って、育て親になってくれませんか」
対するおばあさんはリナが言い終わる前から、うんうん、と深くうなずいていた。
「もちろんだよ。そうでなきゃああやって手招きはしなかったし、こうやって話もできていないから」
「ありがとうございます……」
それでは足りないと分かっていながらも、リナはそう言うことしかできなかった。
「怖かっただろう、あんなに追いかけ回されて」
「……はい」
「もしかすると大人というのは、案外ああいうものなのかもしれんねえ」
「……大人が、ですか」
「そう。スラム街にずっといたから今は分からないかもしれない。けれどももっと大きくなるにつれて、大人とはそういうものだということが、分かっていくかもしれないね。それは残念なことでもあるかもしれないけれど」
「……」
おばあさんの言葉はリナに対する忠告ともとれたし、諦めがにじんだおばあさんの愚痴にも聞こえた。
* * *
「ん……」
ティエリが意識を取り戻したのは、それから数日経ってからだった。今まで信頼しきっていた大人たちから一斉に裏切られたという精神的なショックと、片腕片足をなくしてしまった肉体的な損傷で、意識の回復が遅れたようだった。
「ティエリ!!」
「リナ……」
「よかった……目を覚まして……」
「助かった、んだ……」
「そうよ、あたしたちはちゃんと、都市部に出られた……」
「……右腕と、左足はなくなったけどな」
半ば自嘲するように、ティエリは言った。
「……ごめんなさい」
「え?」
「あたしのせいよ。本来ならティエリも守って、ここまで来るべきだった。けど、そうはできなかった」
「そんなことない。おれがショックで腰抜かして動けなくなって、お前におぶってもらうことになっちまったせいだ」
ティエリの頬には涙が伝っていた。
「……ティエリは、気にしなくていいわ。むしろああなるのが、普通だったのかも」
あれだけの人たちに一斉に裏切られれば、リナだって怯えて何もできなくなるかもしれなかった。ティエリが先にああいう状態になってしまったからこそ、自分はしっかりしなければとリナが思ったところもある。
「……リナ」
「なに?」
「お腹空いたな。何か食べたい」
ティエリは起き上がろうとしたがバランスを崩し、再び倒れ込んだ。
「これで何か、買ってきてはくれんかのう」
慌ててティエリに近寄ったリナに、おばあさんがそう言った。
「……そうよね。ティエリ、あんたはゆっくり、休んでて。今まであんたが食べ物をいろいろ買ってきてくれた。仕事もたくさん、もらってきてくれた。だから、今度はあたしの番よ」
リナはとびきりの笑顔をティエリに向け、おばあさんに渡されたお金を持って外に出た。
* * *
「市場は、っと……」
リナはおばあさんに教えられた通り、市場への道を進んでいた。数日前スラム街から二人の子どもが逃げてきて大騒ぎになったとは思えないほど、昼下がりの大通りは穏やかで静かだった。
「これが、都市部……」
都市に住む人たちは、みんな穏やかに見えた。思い返してみればスラム街で生活していた頃、余裕のありそうな表情をしていた人はいなかった。みんなそれぞれ必死の思いで生きようとしているのだ。今日はこれをして遊ぼうとか、こんなところに行ってみようとか、そんなことを考える余裕はないのだ。依頼を受けてお金をもらう、それをしなければ野垂れ死ぬ、それだけなのだ。
「あたしもこういうとこで生まれて、こういうとこに最初から住みたかった」
だがそれを今さら言っても仕方ない。リナのこれまでの十年をやり直すことはできないのだ。リナは忘れようと少し首を振って、少し早歩きし始めた。
十分ほど歩き続けると大通りは途切れ、ひと際人の多い場所にたどり着いた。
「たぶんここが市場ってやつね」
リナが行く店と言えば例のおっちゃんの食べ物屋ぐらいだった。後は強いて言うならば一度だけ行った服屋さんだ。食べ物屋に行く時間は人によってまちまちだし、そもそも都市部ほどスラム街に人がいないというのもあって、一つの店に多くの人が詰め寄っているという光景をリナが見るのは初めてだった。
そこにはいろんな人がいた。男の人も女の人も。お年寄りから若者まで。髪型も、髪の色も様々だった。水色で長い髪の若そうな女の人が、不思議そうな顔をしてあれこれ店を眺めているのも見かけた。
「こんなに人が多いところに来たのも初めて……」
リナはせっかくだからと、いろんな店をじっくり見て回ることにした。どの店もこれまでリナが見たこともないような食べ物や飲み物、その他いろんな商品を売っていた。見た目からして新鮮そのものといった肉や魚もあったし、スラム街では決してお目にかかることがなかったお菓子もたくさんの種類が用意されていた。見ても見ても見飽きることがなくて、リナは必死にきょろきょろしていた。そんな時だった。
「ウラナ……? あれは、……! ウラナ! おーい!!」
比較的近くでウラナ、と呼ぶ声がした。リナはウラナという名前を知っていることから思わずその声がした方を探してしまった。
「こっちだよこっち! お前、こんなとこで何してんだよ!」
人ごみをかき分けて、黒髪の青年がリナの方へ近付いてきた。彼は黒髪に赤と紫寄りの青の目で、不思議な雰囲気を持っていた。最初リナはいぶかしげな目を向けて、思い切りその男をにらんでいた。
「何でそんな顔してんだよウラナ。ほら、俺だよ。シェド……」
「……?」
そんなこと言われても、とリナは首をかしげるしかなかった。
「あれ? もしかして違う? 人違いか? そういやウラナにしてはずいぶん背が小さいもんな……」
「……あたしがウラナかもしれないとかなんとかは、このガーネットが言ってたわ」
リナは護身用として腰に差していたガーネットを指差した。
”シェドか。よく聞いてくれ。この世界は現代の現世ではない、詳しいことは我も分からないがそれだけは確かだ。そして詳しく言えばキリがないが、このリナという少女は聞けば聞くほどウラナそのものなのだ。ただ、本人にその記憶がないようだが”
ガーネットはシェドと名乗った黒髪の青年だけに話しかけた。そう言いつつも氷天やレイナだけでなく、シェドまでこの世界に来ていたとは、とガーネットは驚きを隠せないでいた。
「記憶がない、ね……困ったな、じゃあ俺がいくらごちゃごちゃ言っても」
「ちょっと? 何あんたらよろしくやってんのよ。どういう話してんのかあたしにも教えなさいよ」
リナが少し機嫌を悪くしたような言い方をした。
”これだ。ウラナにそっくりではないか? そっくりどころではない、他の特徴も鑑みれば酷似だ”
「なるほどな……」
”我では記憶を取り戻せなかった。が、実際にこの世界に来たお前が、リナ―――ウラナの記憶を呼び戻す、手掛かりになるやもしれん。協力をしてくれないか”
「それはもちろんだけど……」
”だけど?”
シェドは少しもったいぶりつつ、いったん人ごみに消えてからもう一度戻ってきた。手には光沢のいいオレンジがあった。
「これ買ってくれたら、な」
”どういうつもりだ、シェド”
リナにも聞こえるように言ったシェドの言葉に、ガーネットもきょとんとして思わずそう訊き返した。
「どうもこうもねーよ。ここに来て以来何もしないと生きていけなかったから、こうやって市場で果物屋始めたんだ。そしたら案外好評でさ。なかなか売れて、毎日ちゃんと三食満足に食えるぐらいは稼げるようになったんだよな。どうする? 買ってくれたら喜んで協力するぜ。何なら住むところシェアとかでもいいし」
”どうする、リナ”
ガーネットにはさすがにその辺りの決定権はないので、返事はリナに任せた。
「……いいわ。買いましょう。ティエリが食べるのにもちょうどいいでしょうし。でももっと甘そうなのないの?」
「甘そうなのか? それはちょっと、こっちに来てもらわねーと」
シェドはリナを自分の店の方に誘い、大小様々なオレンジを選ばせた。その時のリナの顔は少女の無邪気な表情そのもので、残念なのかそうでないのか、ウラナらしさはまるでなかった。
「はい、お金。ありがと、こんなにオレンジもらっちゃってよかったの?」
「いいよ別に。子どもに対して……つっても相手がウラナだから何とも言えねーけど、そんながめつくなるつもりはないし」
シェドは少しでも自分を印象付けるための策として、オレンジをできるだけサービスしてやる、ということをした。もちろんやりすぎるとシェド自身の生活が危なくなるので、ほどほどに。そして、
「俺は基本的にここで果物売って生計立ててるから、何かあったら来てくれよな」
そういう保険のかけ方もシェドはしておいた。
「分かったー」
おばあさんから預かっていたかごにこれでもかとオレンジを詰め込み、リナはシェドと別れた。
「ティエリは喜んでくれるかしら?」
帰り道のリナの足取りは軽かった。
はず、だった。
「はあ、はあ、はああぁ、っ…………!!!!」
激しい息切れが聞こえて、思わずリナは正面を見た。懸命に走って息切れをしていたのはおばあさんだった。
「どうしたんですか……?」
不思議そうな顔をするリナに対し、おばあさんの顔は青ざめてさえいた。それにつれてリナの顔もだんだんと不安なものになってゆく。
「ティエリが、……大変じゃ。ものすごい熱を、出しておる」
「……!!!!」




