#167 1789/07/14
「……1789年、7月4日」
「え……?」
「今日の日付だよ。氷天ってのも、ミュールってのも同じ質問してきやがった。これと、関係あったりすんのか……?」
「……!!」
レイナの頭の中にあった違和感が、ようやくはっきりした。冥界にいた時習った現世史の記憶を引っ張り出す。
「1789年、7月14日……」
「おい! 何だよ! 何とか言えよ!!」
それは正確には現世史の記憶ではない。興味を持って、レイナが勝手に調べたことによって得た知識だ。
フランスが王政から共和政に最初に転換するきっかけとなった、フランス革命。その発端であるバスティーユ牢獄襲撃は、1789年7月14日。つまり今は、その十日前ということになる。
問題はそれだけではなかった。十日前という事実とこれまで見てきた光景とを慎重に結びつけて、さらに現世史関連の知識をそれに絡める。ノアが必死に考え込むレイナを呼ぶが、レイナの耳にはもはやその声は入ってきていなかった。
「……マルキ・ド・サド」
今度のレイナの独り言は、ノアには聞こえなかったようだった。
結びついた。レイナだけでなく、三人で見た光景。バスティーユ牢獄から出てきた馬車の中にいたのは、バスティーユ襲撃の十日前に他の刑務所に移されたというマルキ・ド・サドだったのだ。バスティーユでは入っていくのも出て行くのも、誰なのか周りに分からないように行われる。さらに、もう一つ。バスティーユ牢獄にマルキ・ド・サドがいた際、看守が囚人を殺している、と叫んだらしい。彼の言っていたことが本当なのかは定かではない。だが、その言葉をいくらかの民衆が信じて襲撃につながったことは、おそらく確かだ。マルキ・ド・サドとフランス革命は、つながっている。
「……まさか」
そう言うと、レイナはノアの肩をつかんで揺さぶった。
「なっ……何だよ」
「念話を! ミュールに!」
レイナの顔が切羽詰まっていたからか、ノアは理由を聞くことなくレイナの言う通りにした。すぐにミュールの声がした。
「ノアくん? どしたの?」
「ミュール! 聞こえる!?」
「レイナ? どうしてノアくんと一緒に?」
ノアの念話魔法に乗せてレイナの声も届けられるようだった。レイナが話そうとする前に、あ、とミュールが言った。
『約束の時間、過ぎてるよ? レイナ、今どこにいるの?』
「そんなことは今いいの! それより今日、牢獄から馬車が出るのが見えたでしょ? あれがどこに行ったか知らない?」
『え? そんなの今言われても…… ねえ、レイナ』
「なに?」
『レイナは今単に他のところに入るのが分かったからいいけど……氷天ちゃんもいないんだよ』
「氷天も?」
『氷天ちゃんって約束してた時間を忘れちゃうような子じゃないよね?』
「……ええ、そのはずよ」
『レイナはもしかして、しばらく戻れなさそう?』
「ええ、そうなるかもしれない」
『私、先にノアくんの家に戻ってるね。もしかしたら氷天ちゃん、直接そっちに行ってるかもしれないから』
「分かったわ。任せる」
ノアが念話を終えた。
「ねえ、ノア」
「なんだ」
「ここにいる人全員を安全な場所……そうね、中央政府に転移魔法で移してあげることはできる?」
「無茶なこと言うな……できねえわけではないけど、時間がどれくらいかかるか分かったもんじゃない」
「体力も使うということね……それを、お願いできるかしら。私はこの液体がどんなものなのか、持って帰って調べたいの。それから、行かなきゃいけない場所がある」
「……分かった。オレに任せろ」
ノアはレイナの顔を見て状況を悟ったのか、何も文句を言わずにそれだけ言った。レイナがその返事を確認するかしないかというタイミングで走って地下空間を出て行こうとする。そのレイナに、力強い声でノアは言った。
「なんてったって、オレは大魔導師、だからな」
* * *
「氷天ちゃん……」
ミュールは氷天が約束の時間に来なかったこと、ただそれだけを心配していた。氷天に限って危ない目に遭っていることなどない、とはミュールも思っている。それに最悪の事態など想定したくない。
もう一つミュールの頭の隅にあって、ちょっとだけ気にしていることがあった。
「1789年、7月4日……」
レイナは今いるこの世界の日時さえ分かれば、それが元の世界に帰るためのヒントになるかもしれない、と言った。歴史と照らし合わせれば分かる、という意味なのだろう。だが現世史の成績があまりよくなく、しかも習ってから長年経っていることもあって記憶があいまいになっているミュールは、全くピンと来ていなかった。1789年という年の重要性は分かる。フランス革命の起きた年だ。だが日付まではさすがに覚えていない。
最初こそそのことを一生懸命思い出そうとしていたが、すぐに頭は氷天のことに切り替わった。フェルマーがこの世界のどこかに関わっていると分かった以上、少なくとも無力なミュールが一人でいるのは危険だ。氷天を探すことの方が先と考えた。
時々休みながらなるべく全力を出してミュールは走り、やっとのことでノアの家までたどり着いた。ドアを引くと、あっさりと開いた。どうやらレイナのそばに行く際に、カギをかけ忘れていたようだ。これ幸いと考えてミュールは中に入り、氷天を探した。
「いない……」
氷天の特徴的な姿が見当たらないどころか、そこにミュール以外の人がいる気配すらなかった。では、氷天はどこにいるのか。そこでミュールは、ダイニングテーブルに目を向けた。
「これは……」
紙切れが一つ。この時代には存在しえないほど品質のいい紙だ。
『用事があって城郭内にいます 来ない方がいい 氷天』
「氷天、ちゃん……?」
何か事情があって、城郭内に行ったのは分かる。来ない方がいいと忠告している意味がミュールには分からなかった。
「……行かなきゃ」
氷天はいつも、何を考えているか分からないところがある。レイナやウラナさえ何を考えているのかいまいち読み取れないミュールにとっては、さらに難しい。だからこそ氷天のこのメッセージが、氷天なりの助けを求めるものなのだと、ミュールは理解した。そうなれば、
「……行かなきゃ。たとえ私が、何もできなかったとしても……!!」
『何もできな』くても、ミュールにしかできないことはきっとあると、信じて。ミュールは家を飛び出し、元来た道を舞い戻り始めようとした。
* * *
「……!!」
ミュールがそのメモを見る、一時間ほど前のことだった。氷天の能力のレーダーで、二つの反応を感じ取った。……いや、正確には感じ取らされた。
通常そのレーダーは自分の意志で起動し、自分の意志で指定したものがどのくらい離れた場所にあるかを探知する。それが外部からの干渉によってわざわざ行われた。
「……セントトパーズと、セントアメジスト」
ご丁寧に詳細な情報つきだった。彼女らの持っている”ナイトメア”の共鳴では仕掛けてこず、あえて能力のレーダーに干渉した点が憎らしい。
情報の共有は済んでいた。もっとも、氷天だけはこの世界にやってくる直前にセントトパーズとセントアメジストを目撃しており、彼女らのせいでないはずがないと分かっていたのだが。
「……何をするつもりかは知らないけど、行かないと」
そう考えて、ふと気付いた。このことを知っているのは、現状氷天だけだ。それをレイナやミュールにも伝えるべきか。答えはノーだった。わざわざこのタイミングで氷天に干渉してきたことが何よりの証拠だった。向こうは氷天が今一人であることを分かった上で、そうしているのだ。馬鹿正直にというわけではないが、一人で行くのが筋なのだろう。
氷天はポケットに入っているメモ帳を雑に一枚ちぎり、内容を簡潔に書いてノアの家のテーブルに置き、それから家を出て勢いよく上空に飛び上がった。飛行スピードは圧倒的であり、すぐに城郭の全容が見えた。
「……!!」
氷天の目が、一瞬だけ光った点を捉えた。遠目で見ても分かる、三人で見た馬車が見えた。そしてそれを背後から巨大な刀で切り裂こうとしている子どものような人影が、もう一つ。ためらいはない。氷天は馬車に向けて、命中した瞬間花のように開き対象を保護するよう設定した軌道を放った。
「行け……!!」
計算に狂いはない。氷天の狙い通り軌道は真っ直ぐ馬車に向かい、馬に命中したところで一気に拡散し馬車を水色の軌道の檻で囲い込んだ。直後、紫色の刀のようなものが振り回され、馬車を粉砕するはずだったそれはラピスラズリの軌道の盾に弾かれて終わった。
放った軌道を追いかけるようにして、氷天が地面に降り立つ。そして馬車を狙っていた少女に向けて、言い放った。
「待たせたわね、セントトパーズ」
「あら、来たのね裏切り者」




