#157 とにかく、逃げる!
「……なぜミュールがここに」
「分からない! けど、助けないと! ”はたと止まる、世界の時間”(ステップ・イントゥ・ザ・ギャップ・ワールド)!」
レイナが迷うことなく能力を使い、時間を止め、さらに即座に氷天に触れて氷天も動けるようにした。
「時間が止まってる……」
「今のうちに助けるわよ!」
道を行き交う人々も、もちろんミュールを入れた檻を引きずっていた兵士も、レイナが叫んだ当時のまま静止していた。動かないものに攻撃を当てるなど、氷天にとっては序の口もいいところだった。氷天がラピスラズリを出現させて幾筋かの直線軌道を放ち、レイナがミュールを救い出すまで、ほとんど時間はかからなかった。
「あれ、檻から出てる……え? レイナ? 氷天ちゃん?」
「今はとにかく、逃げるわよ! 話を聞くのはそれから!」
「う、うん!」
氷天がレイナの背後につきつつ、レイナはミュールを抱えたままひたすら走って逃げる。ひとまず建物の陰に隠れるまでが勝負、と考えていた三人にとって、予想外のことが起こった。
『適用時間、終了』
レイナの持つ能力には、使用者の年齢を促進させる副作用がある。無制限にその能力を使えば、使った分だけ年をとる。それを防ぐためにレイナは、レインシュタイン家の持つ指輪をつけて、使用できる時間を制限している。その有効時間が、肝心な時で切れた。
道を行く人たちにも兵士にも、壊された檻と、中にいたミュールを抱えるレイナ、そしてレイナを護衛する氷天が認識される。
「待てゴルァァァァッッッ!!!!」
壊れた檻を乗せていた台車など放り捨て、兵士が猛スピードで三人を追いかけてくる。
「時止めの能力は使わなくていい! 後ろは私に任せて、逃げることだけを考えて!」
「分かった……!!」
氷天は動きにくいドレス姿のままラピスラズリを振り回し、兵士に次々と曲線軌道を浴びせる。途端に兵士は避けるのが精一杯で、防御の構えに転換した。それを見て逃げたレイナに追いつきつつ、さらに追い打ちをかける。軌道で強引に兵士の鎧を引きはがし、さらに攻撃するのをためらわせる。これだけの威力の攻撃を放てる相手と戦っているという事実を突きつければ、かなり牽制になる。
「お前……女のくせに小賢しいッ……!!」
この兵士は女に対してある程度の偏見があるらしい。ならばなおさら野放しにしておくわけにはいかない。
「……女を馬鹿にする下等に、騎士の正装は似合わない」
氷天がそう言うのとほぼ同時に、兵士の周りに次々と蒼い光が浮かび上がる。兵士を全方位から囲み、それが全て命中すれば生還できるかどうかさえ怪しい、そんな雰囲気を漂わせていた。
「……《Eins》!!」
氷天が叫び、兵士のほぼ思った通りに、軌道が一斉に彼を貫いた。
爆音と砂埃が収まった後、その兵士は目を覚ました。生きていられるはずのないその攻撃に耐えたというその事実に少し呆然とした後、兵士は辺りを見渡した。先ほどまでいた、ドレス姿の女は忽然と姿を消していた。それで彼は、ようやく気付いた。あれは逃げるための牽制、殺そうという気など端からあの女にはなかったのだと。
「……くそっ!!」
* * *
「はあっ、はあっ、はあっ……!!」
困惑する民衆を申し訳ないと思いつつ押し分けながら、レイナはひたすら逃げた。自分が逃げるだけでも十分体力がいるのに、ミュールを抱えていることで全然逃げられている気がしなかった。
「レイナ! もう大丈夫だよ! 私を下ろして!」
「……ええ!」
レイナが抱えた方が恐らく早く逃げられるのだろうが、レイナが疲れているのを見かねたミュールがそう言った。やがて建物と建物の隙間に二人は滑り込み、そのままへたり込んだ。
「大丈夫、レイナ?」
「ええ、なんとか……ミュールは?」
「私は大丈夫、まだ捕まってからそんなに時間が経ってなかったから……それより、氷天ちゃんは……」
「あの人なら、大丈夫。ちょっとやそっとのことでは死なないはずよ」
「……そうだね。まず自分たちの心配しなきゃ、だよね」
その時だった。
「見つけたよ、苦労したね」
建物の隙間にいて目立たなかったはずの二人を、突然一人の男が覗き込んだ。驚くあまり二人は声さえ出なかった。
「何も言わずして逃げてもらうのは困る、確か取り調べは受けてくれると、そう言ったはずではないかね?」
その男は明らかに、ミュールに向かって語りかけていた。まるでミュールが自分の統制下にあるような男の発言に腹が立ち、レイナは思わず口を開いていた。
「この子は私の友達です。あなたに捕まるような理由もありません」
「ほう? そう言えば、君はこの子の何を知っている?」
「この子は私の幼馴染です。あなたなんかより、知っていることはずっと多い」
「幼馴染、ねえ」
男は建物の隙間に向かってためらいもなく、火の魔法を放ってみせた。直撃は免れたものの、レイナのドレスの端が焦げた。
「……どういうつもりですか」
「いや、君にその子を手放すつもりがないなら、力づくでも、と思ってね」
さっきの火の魔法がかなり手加減したものであると、レイナは直感した。もしもこの男の本気の魔法攻撃を受けてしまったら。そう考えるが、ミュールが捕まるようなことをしたはずはないと、その強い思いを込めて男をにらみつける。
「女性のその恨めしそうな目は、あいにく私の好物でね……その目をしながら痛い目にあってゆく女性を、何人も見てきた……素直に私の要求に従えばよいものを」
「その要求は、あなたにとってだけいいもの、都合のいいだけの野望ではなくて?」
「……チッ、口の減らない女だ」
男が手を振りあげた。その瞬間、迷わずレイナが叫んだ。
「”はたと止まる、世界の時間”!!」
強力な魔法使いなのだろうその人も、能力には敵わずあっさり動きを止めた。
「逃げるわよミュール!」
「うん……!!」
あてがあるわけではないが、建物の隙間を奥へ奥へと進む。おばあさんの家まで戻ることができれば、レイナたちの勝ちだった。そこまで行けばミュールの話も聞けるし、対策もいくらでも立てられる。レイナはただ走ることだけに集中すると決めた。
『適用時間、終了』
連続で二回能力を使ったため、二回目の有効時間が短くなっていた。ギリギリ角を曲がり、男から見えなくなったところで再び時が動き出した。
「氷天が対処してくれれば……」
氷天にばかり頼るのがよくないことはレイナは分かっていた。だがドレスを着ていることは想像以上にハンデで、逃げるので精一杯なのがレイナの実感だった。
おばあさんにもらった帽子もどこかで落とし、周りにきれいな金髪をさらしながらレイナはただ走っていた。金髪は大魔導師であることの証明になってしまうほど危ないもののはずだったが、レイナとすれ違う人々は皆、この時はなぜかレイナたちを捕まえようとはしなかった。それはその時のレイナにとって疑問だったが幸いで、もうすぐそこにおばあさんの家、というところまで戻って来れた。
「ミュール! 入って!」
「うん……!!」
ミュールもレイナの話を素直に聞き、レイナがおばあさんの家のドアを開けてすぐに中に入り、それを合図に半ば乱暴にレイナがドアを閉めた。
「逃げ切れた……?」
* * *
氷天は一瞬だけ、何事もなかったかのようにラピスラズリをしまい、一般人に紛れてしまう手を考えた。だがすぐに自分がドレス姿、つまりこれ以上ないほどのおめかしした目立つ姿であることを思い出し、却下した。レイナはおそらくおばあさんの家まで戻っただろうから、そこまで逃げ続けなければならない、と氷天は考えた。
「……そこまで、体力がもつか」
なんだかんだ言って、中央政府のある場所からおばあさんの家まで走り続けるのは、成人男性でもつらいものがあるだろう。まして決して体力が多いとは言えない氷天に、逃げ切れるのか。余計に目立つことがないよう、飛んでもいけない。
「迷っている暇も、ありそうにない」
先ほどの兵士ではない、別の男が後ろから迫ってくる気配を、氷天は感じていた。素性も分からない者を何の理由もなく殺すのは、氷天の信条に反していた。
「……そこかッ!!」
気配だけで相手の位置を感じ取り、ギリギリまで引きつけてから、男を囲い込むような軌道を放つ。定義域を短めに設定したことで、どの軌道もちょうど男のそばを通過してすぐに弾けた。この牽制がかなり効いたようで、男の足は目に見えてすくんでいた。それを確認するかしないかといううちに、氷天は逃げ始めた。軌道によって背後には強固な防御を張り、並の魔法攻撃程度なら防げるようにした。
「……私が、この程度のことしかできないとは」
本当はもっと緊迫した状態で逃げなくてもいいように、さらに追い打ちを仕掛けたかった。だが相手が自分をどうしようとしているのか、氷天には判断しかねた。もしかすると魔法攻撃は使わずにただ追いついて捕まえるつもりなのかもしれないし、どんどん攻撃して、この場でダメージを与えるつもりなのかもしれない。だがどちらにせよ、こちらから攻撃することは余計に事態をややこしくしそうだった。
そう氷天が考えているうちに、次の危機が迫った。後ろからの追っ手に加えて、前からも同じような格好をした男がやって来たのである。
「逃げ道は、……川」
氷天が逃げていた通りはちょうど、この街を貫くように流れているのであろう川に面していた。飛ばずに逃げられるとすれば、その川に飛び込むこと。だが泳いで逃げるのは、リスクが高すぎる。
「……!!」
ここでようやく、氷天の頭が冴えた。”ナイトメア”を取り除く際におばあさんに読むよう勧められた、水系統の魔法の魔導書。幸いにして読んだその前半に、下級とは言え氷を生成する魔法があった。魔導書は読破した上で適性があれば、そこに記載されている魔法を使えるようになる。それが絶対かどうか、読破しなければならないのかは、分からない。氷天には、魔法を使うという選択肢しかなかったと言えた。
「……《グラソン》」
ミシ……ミシミシ。
それは魔法がうまく発動したサインだった。氷天が飛び降りても問題ないほどに、川が凍りだす。
「逃がさねえぞ!」
いつの間にか男は二人から三人、三人から四人と次々に増えていた。いよいよ正面突破は難しくなっていた。氷天は川に降りてから逃げるイメージをし、そして、
「……くッ」
男たちに一瞬だけ追い詰められ苦しそうにする表情を浮かべ、それからバック宙で川に飛び込む。
「おい! あいつ、川に飛び込みやがった……!!」
そう言いつつ負ってこない男たちを尻目に、氷天は飛び込んだ勢いで氷の上を滑り出した。氷天の履いていたハイヒールが上手くブレードの役割を果たし、フィギュアスケートの要領でスピードを保ちつつ氷天は滑り続けた。
川から出る時は、さすがに飛ぼうと氷天は考えていた。レイナとミュールはもう、無事に戻れているだろうか。
「待て待て待てぇぇぇぇっ!!!!」
その声がして氷天が後ろを振り返ると、水系統の魔法で大きな波を起こし、氷天の移動速度とほぼ同じスピードで迫る船がいた。乗っていたのは氷天を先ほど追いかけていたのと同じような格好の男だった。
「……ここまで来たなら、少し痛い目に遭ってもらう!」
氷天は複数の細い放物線軌道を放ち、船の側面をガリガリと削り取った。間もなく船は大量の水をその中に侵入させながら、大破して沈んだ。追いかけていた状態から一転、おぼれ始めた男たちに見向きもすることなく、氷天は逃げ続けた。そして、見上げるとようやく見慣れた景色が見え始めた。
「……ここ!」
少しでも民衆に姿を見られないように思い切り飛び上がり、それからおばあさんの家の近くの路地裏に狙いを定めて、飛び降りる。着地の衝撃で少々うるさい音がしたが、構わず氷天はおばあさんの家に飛び込んだ。
「氷天!」
「氷天ちゃん……!!」
レイナとミュールが心配そうな顔で出迎えたのを一転、顔をほころばせた。二人の後ろにはおばあさんもいた。氷天は少し息を整えつつ、言った。
「……ただいま」




