#155 呪い
「うーん……」
レイナは気にしないふりをして魔導書のページをめくりつつも、頭の中では先ほど起きたことを考えていた。あまりここで言い争いをするのは得策ではなかった、とレイナは後悔してさえいた。
「(……忘れちゃいけない。氷天は、セントラピスラズリと表裏一体だってことを)」
レイナの頭に、ふとそういう思いがよぎった。今でこそごく普通の女性である氷天だが、ほんの少しでも雨に当たっただけで、彼女が持つ”ナイトメア”の人格は暴走してしまう。そうでなくても、氷天の考え方はどこか危険で、注意して見ておかなければならない気がするのだ。
だが、それが氷天に好き放題言っていい理由には、決してならない。これからどれほど行動を共にしていくのかも分からないのに、これから先一言も口を利かない関係になるのは苦しい。
「明日、私から、謝らなきゃ……」
そのことを考えて、レイナの意識は薄れていった。
* * *
「(……おかしい)」
氷天はレイナの部屋を出て自室のベッドに寝転び、そう考えていた。おかしい、というのは、氷天の中にある気持ちだ。
これまでウラナとは何度か衝突してきた。その度に自分は間違った事を言っていない、と二人とも思っていたため、なかなか元通りの関係になることがなかった。その時の氷天の気持ちはまさにもやもや、とでも表すべきものだった。
目をつぶってもなかなか眠りに落ちる気配のない氷天の今の気持ちも、もやもやだった。だがどこか、ウラナとのケンカの際に覚えるもやもやとは、質が違う。本当は自分は間違った事を言ってしまったのではないか、そんな思いが少しだけ氷天を支配していた。
「(……よく、肝に銘じるべき。あの女が、”閣下”の妹であるということを)」
誰がどう言おうが、レイナがフェルマーと兄妹関係にあることはひっくり返らない。”閣下”の考え方に幼い頃から接してきた氷天としては、レイナも同様に警戒するのは必然と言えた。表面上は親切だが、激しい表裏のある死神なのかもしれないし、もっと言えばひっそりと悪魔に関係している可能性さえある。ウラナが信頼しきっている相手であるあたり、大っぴらに関わっていることはないだろうが、それでも氷天の中で疑いが晴れることはなかった。
だが、それでもおかしい。そういう疑念の拭いきれない相手なら、もっと冷たく接し続けてもいいはずなのだ。だが実際そうしていると、氷天の方が無理をしていて、情けないと感じるようになる。こんな相手は初めてだった。”閣下”に一番近しい存在でありながら、その”閣下”や氷天とは全く別の世界に生きているような死神にも思えた。
「(……もしかするとこのままでは、いけないのかもしれない)」
ふと、そういう考えが氷天の頭をよぎった。幼い頃ウラナと行動をともにしていた時は、どうせ常日頃から一緒にいるのだから勝手に関係も改善するだろう、と放置していた。それがレイナの場合は、それではいけないと氷天は感じたのだ。
「(……本当にレイナは、寝る間を惜しんで本を読んでいるのかしら)」
一度気になればそのことが頭の中を支配して、余計に眠れなくなった。氷天が起き上がると、視界に振り子時計が入った。もう何十年も使っていない部屋だとおばあさんから聞いたが、振り子時計はそんなことなど知らない、とばかりに正確に動いていた。それによると、いつの間にか氷天が自室に戻ってから三十分は経っているようだった。氷天はレイナの部屋のドアをそっと開けた。
「(……寝てる)」
ろうそくを点けたまま、レイナは机に突っ伏して静かに寝息を立てていた。思い立った氷天はベッドにあった毛布をレイナの背中からそっとかけてやり、ろうそくの火を消して静かにレイナの部屋を去った。
「(……明日でも、遅くないはず)」
* * *
「氷天や、ちょっと来てくれんかのう」
翌朝。レイナがまだぐっすり眠っていたのに対し、氷天は一足先に起きてぼんやりと窓の外を眺めていた。これだけのんびりした朝はいつ以来だろうか、と少し感傷に浸りさえしていた時に、おばあさんに呼ばれたのだ。
「……レイナはいいんですか」
「ああ、構わんよ。氷天だけに関わる話じゃからのう」
氷天はおばあさんに続いて階下に降りていきながら、少し首をかしげていた。と言っても深刻な話ではなく、昨日の今日でなぜ自分の名前をおばあさんが覚えているのか、と疑問に思っただけだが。
階下に降りてダイニングテーブルで何か話をするものだと思っていた氷天だったが、案内された先は氷天やレイナに貸し与えられたのと同じぐらいの大きさの一部屋だった。本来なら一人には十分すぎる、数人は入ることのできるような部屋の広さだが、いかにも怪しい道具や古そうな本などが所狭しと積んであり、おばあさんと氷天の二人が入るだけでも狭く感じてしまうような部屋だった。
「さて、と」
おばあさんが自分の椅子に腰を下ろし、氷天も椅子を勧められたので座った。
「わしが昔、旅の者に部屋を貸して生計を立てていたという話は、したかの」
「ええ、まあ。レイナから聞きました」
「今はそれはやめて、占い師の仕事をしておるんじゃ」
「……占い師?」
魔法というのも随分胡散臭いが、占い師というのもそれに輪をかけて胡散臭い。まさかここに来て幸せになれる壺でも勧めてくるのか。
「そうじゃ、占い師。わしが得意な魔法は、呪いに関するものなんじゃ。と言っても人に呪いをかけることができるわけではのうて、人にかかっている呪いを見極めて、それを打ち消してやることができる」
「呪いを、打ち消す」
そんな魔法まであるのか。胡散臭いとは言いながらも、案外能力のように体系はしっかりしているのかもしれない、と氷天は思った。
「じゃから、やってきた人にどんな呪いがかかっているか分かるし、それをなくして悩みを解決してやる、ということもできる。そのおかげで、この街ではそこそこ有名なんじゃよ」
「へえ……」
いろんな人の相談を受けてきたからこそ、素性の知れない氷天やレイナをこんなに親切に受け入れることができるのかもしれない。そう考えると、このおばあさんに出会えたのは運がよかった。
「ところで、じゃ」
「はい?」
そう言えば、まだ本題には入っていないようだった。
「これはわしの勘によるものなんじゃが、氷天、お前さんにも呪いがあるな? それも、わしが見てきた中でもかなり恐ろしい呪いなんじゃが……」
「……!!」
まさか、”ナイトメア”のことか。だとすれば、このおばあさんの実力は相当なものだった。なぜなら呪いであることには間違いないが、二百数十年も経ってすっかり氷天の体に馴染んでしまっていると考えられるからだ。
「……それが、どうかされたんですか」
とは言え、まだ”ナイトメア”の話であると決まったわけではない。氷天はおばあさんに続きを促した。
「ああ。それで、まだどんな呪いかは分からんのじゃが、もし氷天が気にせんようだったら、その呪いを取り除いてあげられればええ、と思ったんじゃ」
「……レイナには関係ない、というわけですね」
「関係ないというのは言い方が悪いかもしれんが、第三者がその呪いを取り除く作業に介入すると、思わぬ事が起きるかもしれんから、レイナは起こさんほうがええ、と思うたんじゃが」
「……なるほど」
それだけ大掛かりなものなら、やはり”ナイトメア”のことを指しているのかもしれない。
「お願いします」
「長いことかかるかもしれんし、最悪の場合失敗することもあるかもしれん。何せわしが見てきた中でも相当重い呪いじゃから。それでも構わんか?」
「……承知しました」
氷天がそう言うと、おばあさんは氷天に近付き、フランス語でもない言葉をぼそぼそとつぶやき始めた。
「(長時間……それは、レイナが自分で起き出してくるまでに終わるものなのだろうか)」
ほどなくして氷天の体からおばあさんのかざした手に向かって、光の筋が見えた。それをぼんやりと見つつ、氷天はそう思っていた。
「……魔導書でも読むかえ?」
長時間、呪い解除の作業をするのでじっとしておかなければいけないのだろう、と思っていた氷天だったが、始まって五分しか経っていない頃におばあさんの方からそう話しかけられた。あまりに意外だったので氷天は心の準備ができておらず、
「……へ?」
と返してしまった。おばあさんはそれに対して特に態度を変えることなく言った。
「何時間かかるかも分かったもんでないから、お前さんも何か一つ、魔法を使えたほうがええと思ったんじゃが」
その魔導書の表紙によれば、どうやら水系統の魔法に関するものであるらしかった。氷天は一瞬、雨を連想して嫌悪感を覚え、その魔導書を突き返そうかと思ったが、物は試しだと思いつつ素直に受け取ってページをめくり始めた。
「……そこまで読みにくいわけではない、ですね」
氷天の直感では、うまく集中できれば数時間で読破できそうな量だった。
「そうかえ、そりゃあよかった」
氷天が顔を上げると、おばあさんも氷天の方を向いて何やらするのはもうやめて、紙に何やら書きつける、少なくとも氷天の呪いとは全く関係ない作業をしていた。
「(……本当に呪いを取り除く気は、あるのかしら)」
明らかな変化があったのは、その二時間ほど後だった。
ちょうど魔導書を読む進捗が半分を超え、改めてもう半分を集中して読もうと気を取り直した時、それまで魔導書の内容しか頭の中に浮かんでいなかったのに、急に過去の記憶が浮かび上がってきたのだ。そしてそれらはどれも、氷天が苦痛に感じていたものばかりだった。一番思い出したくない記憶であるにも関わらず、わざわざ掘り返されて目の前でまざまざと見せつけられている気分。相当不快なものだった。
そうなるともはや魔導書の内容など気に留めている余裕はなくなり、いよいよ油断すれば叫び声を上げてしまうほどに苦しくなった。
「あ……がっ……!!!!」
ほどなくして氷天は、とてつもなく強い力で自分の首が絞められているような感覚を覚えた。みるみるうちに息は詰まり、声を上げることができなくなってゆく。首元を見ても、誰も氷天の首など絞めていない。それでも息苦しくなり意識がもうろうとしてゆく。
「気を確かにせい……!!」
その異常性はおばあさんにも一目見て分かるほどだったのだろう、おばあさんは必死に何度も氷天にそう呼びかけた。何度目かのその言葉で、氷天はやっと我に返ることだけは出来た。我に返っても、氷天の頭の中は「苦しい」の一言で埋め尽くされようとしていた。それで発狂しそうになるのを、必死に食い止めようと氷天の意識が抗う。
残った感覚が、額を汗が伝うのを感じ取った。あまりの苦しさに涙さえ流れ、いったん流れ出すと止まらなくなる。
その時だった。
『仲直り』
”ナイトメア”に吸い取られてしまいそうなほど薄れた意識の中で、その言葉が脳裏に浮かんだ。レイナとの、仲直り。普段なら見向きもしない、考えつきもしないはずのその言葉が、妙に頭に残った。
そうだ。レイナと、仲直りを、しなければ。
まるで、子どものようだった。大人になってからのケンカで仲直りなど、あまり考えることはないだろう。考えなくても自然と関係を元に戻すことが大事だという常識が、そこに働いているのかもしれない。だがその時の氷天は、その言葉を救いのように感じた。手を伸ばせば届いて、しかも自分を救ってくれそうな言葉。
―――今ここで私が”ナイトメア”に負けることは、許されない。レイナとの『仲直り』が、できない―――
その一瞬を最後に、氷天の意識が途絶え、力が抜けた。
* * *
朝。
小鳥のさえずりが聞こえて、レイナは目を覚ました。
「痛いっ!」
体を起こそうとしたが、その体が軋むように痛んだ。レイナは結局朝まで、机に突っ伏したまま寝ていたのだ。
「いきなりこんなこと……」
昨日はいろいろあって、疲れていたから仕方ないといえば仕方ないのかもしれない。頑張ってレイナは体を起こし、部屋のドアを開けた。
「……あ、おはようございます」
「うん、おはよう」
ちょうど部屋を出たところに、おばあさんがいた。
「早起きなんですね」
「ああ、いつもこんなもんじゃのう」
「どうかされたんですか?」
「いいや、もうすぐ朝ごはんの支度ができるところじゃから、氷天を起こしてやろうと思うてな」
「まだ寝てるんですか?」
「そのようじゃが」
「私と一緒で、疲れてたのかもしれませんね。私もついうっかり、机で寝ちゃいました」
そうレイナが言った。時計によればもうすでに、現代の現世では学校が始まってだいぶ経った時間だった。おばあさんは笑って、
「まあまあ、そういうこともあるじゃろうな。せっかくこの家に転がり込んできたんじゃし、もっとゆっくり休むとええわい」
と言ってくれた。
「ありがとう、ございます」
レイナはしばらく、部屋で休むことにした。
「……落ち着いたかのう」
おばあさんはそのまま氷天の部屋に入った。部屋は明るかったが、ベッドには氷天が汗びっしょりで横たわって、静かに寝息を立てていた。おばあさんが入ってきたからか、氷天がうっすらと目を開けた。
「よう、頑張った。今まで、相当苦しかったんじゃろう。わしも封じ込めるのがやっとじゃった」
おばあさんはそう言いつつ、氷天のそばに小さな木箱を置いた。氷天が手に取って開けると、中にはおどろおどろしい悪魔が描かれたカードが入っていた。
「……それが、お前さんに憑いておった呪いじゃ」
それを聞いて氷天は、じっ、とそのカードを見つめていたが、やがてか細い声で、
「ありがとう、ございます……」
とだけ言って、眠りに落ちた。おばあさんもそれを聞いて笑顔になり、氷天の部屋を後にした。
おばあさんが見ることはなかったが、氷天も確かに、彼女が見せたことがないような笑顔になっていた。