#131 遠い日の記憶
「氷天さん」
「……なん?」
「ああ、やっぱりそうか。君が氷天さん、なんだ」
「そう、うちは氷天。あんたくさ?」
「俺は玖雷。俺も君と同じく、冥界への留学生に決まったんだ。これから、よろしく」
「……よろしゅう」
天蘭、霜晶、玖雷、氷天、遼条。この五人の中で、葬儀死神の名家出身でないのは玖雷と氷天の二人だけだった。特に氷天はスラム街出身。行政区という正式名称がついている場所はいくつかあり、地区によっては全く教育を受けずに育った大人が出るところもある。氷天のいた地区は比較的治安がよく、何とか義務教育を受けられていたが、それでも氷天のような特別頭のいい子はまず出ないと言えた。選抜試験でぶっちぎりの一位を取った氷天のことが、玖雷は気になっていた。
妙な遠慮も、子どもながらあった。特に天蘭と霜晶は幼馴染で、いつも仲良く話して二人だけの世界に入ってしまっているそぶりがあった。玖雷が氷天に最初に話しかけることになったのは、偶然でも、必然でもあったのかもしれない。
それ以降も玖雷は、よく氷天に話しかけた。もちろん勉強の話もしたし、何でもない、どうでもいいことも話した。その服似合ってる、とか、靴新しいのにしたんだ、と玖雷が言うと、氷天は少し顔を赤らめて、「……そう」と答えた。
最初は少し距離があって、「氷天さん」「玖雷くん」と呼び合っていたが、すぐに打ち解けて「氷天」「玖雷」とお互いを呼ぶようになっていた。
「……玖雷、ここに」
「はいはい」
休み時間になればわざわざ、氷天の方から玖雷を呼んで隣に座らせ、おしゃべりをするようになっていた。
「俺さ、ここからちょっと行ったところに、いいお店見つけたんだよ。何だったかな、とにかくうまそうなパンが並んでる店。今度氷天も一緒に、どう?」
玖雷がそう誘うと氷天はみるみるうちに顔を真っ赤にし、
「…………うん」
と承諾した。
いざ店に行ってみると、そこはとても子ども二人がふらっと行くような感じではないおしゃれなところだった。その様子を見て玖雷は急に氷天を意識して恥ずかしくなり、
「……どうする?」
と聞いた。
「……入る。パン、食べたい」
氷天の顔も赤くなっていた。
ソーセージパンやらクリームパンやら、いろんなパンを食べながら、いつものように二人はおしゃべりしていた。
「氷天ってさ、」
「……ん」
「俺らの中に知り合いは、いないわけだろ?」
「うん」
「なのに何で頑張って、五人に選ばれようって思ったわけ?」
「そいば言うなら、玖雷も」
「……あ、そうだな。じゃあ、俺から言うか。俺はさ、」
手に持ったあんパンを半分にちぎり、玖雷が少し間を空けて言った。
「有名に、なりたかったんだよな、たぶん。俺って別に葬儀死神の中では大して有名じゃないし。そもそも天蘭とか霜晶みたいな、お金持ちの家でもないし。でもなんか、このまま『その他の葬儀死神』って扱いのまま死んでいくのは嫌だなって思ったから、テストの手紙が来た時にちょうどいい、って思った。……不純な理由だろ?」
ハハハ、と玖雷は笑ってみせた。それに対して氷天は首を横に振って、言った。
「……ちごうとる、不純じゃなか。有名になりたいっち思うんな、人間ばってん死神だけん、えらいたくさんん人の願うこつだから……玖雷ん理由な、立派」
「氷天にそう言ってもらえると、嬉しいな。……じゃあ、氷天は?」
「うちは……」
それを言って、氷天はしばらく黙り込んだ。もしゃもしゃ、とパンを頬張る音だけがしばらくそこに響いたが、やがて、
「お母しゃんば、楽にしていげたいから、かいな……」
ぽつり、と氷天が言った。
「お母さん?お父さんは?」
「お父しゃんはうちのえらいこまか頃、死んだ……だからうちん家もちかっぱ貧乏になっち、行政区住まいしなきゃいけのーなった。そいばってんお母しゃんは頑張っち、うちば育ててくれた。熱ば出して寝込んだこつばってん、数えきれんけん。だから頑張っちるお母しゃんばちょこっとでも助けたくて、今こうして留学しとる」
「…………立派だ」
「え?」
「俺なんかより、ずっと立派じゃんか。そうか、何かただ、人気者になりたいって理由だけで今ここにいる俺が、恥ずかしいな」
「……」
かけるべき言葉が見つからなかったのか、氷天が黙り込んだ。
「氷天はやっぱ、すごかったんだな……こうして隣にいるけど、手を伸ばせば実物として触れるのが、奇跡なのかも、ってぐらいには」
玖雷がそう言葉を続けた途端、ガタンッ、と勢いよく氷天が立ち上がった。
呆気にとられる玖雷をよそに、玖雷のすぐ近く、あと数センチ近ければ腕がぶつかる、というところまで近づいた。そして、
ちゅっ
いかにも不器用な音がした。玖雷の頬に突然、妙な柔らかさと暖かさが混じったような感触が走り、玖雷は思わず手のひらで頬を押さえた。
ふーっ
その押さえた手のひらにそっと息がかかり、玖雷は今度こそ飛び上がりそうになった。心臓が暴れ出していた。
「……ふふふ」
「……」
「ごめん、びっくりさせた」
「びっくりなんてもんじゃ」
「うち、玖雷、あんだんこつの好いとぉんかもしれんけん」
「……」
「玖雷といる時が、一番安心するから……」
「それは、単に他の時がイライラするだけだろ?」
「違う」
ずいっ、と氷天が玖雷に顔を近づけた。透き通るような水色をしたその髪からふわり、とシャンプーのいい香りが漂った。
「うちには、分かる……うちの玖雷んこつば好いとーなければ、こうはいかん。相手の玖雷だから、こうゆうこつばしてもよかっち、思った」
「氷天……」
先ほど氷天が玖雷にしたことがずっと脳内で繰り返し再生されて、相変わらず心臓の鼓動は収まる様子を見せなかった。
「玖雷は、いいにおいがする……」
そのまま氷天が玖雷の隣に座り、柔らかな体を全幅の信頼を寄せ、もたれさせてきた。玖雷の心臓はもう限界を迎えようとしていた。だがすぐに氷天の体が動かなくなり、玖雷が視界の端で確認すると、氷天はすやすやとかわいらしい寝息を立て、もたれかかったまま寝てしまっていた。その寝顔を見ると玖雷は急に落ち着いてきて、しばらくそのままの姿勢でいることにした。
「……今日は誘っちくれて、ありがとう」
一時間ほど後に氷天が目を覚ましたので、お店を出て二人は寮に戻り、階段前で別れることになった時に、氷天がそう言った。氷天の部屋は最上階に近いところにあったのだ。そう言われるとまた玖雷はどきっとしたが、何とか落ち着いたまま、
「ああ、うん、こちらこそ」
と答えた。それからにこり、と氷天は笑顔を向けて、くるりと階段の方を向き、すたすたと上っていった。
その夜の玖雷は、ずっと氷天のことを考えていた。
今まで何気なく接してきた氷天。
何でもないこと、男友達同士でならどうでもいいだろそんなこと、の一言で済まされてしまいそうなほど他愛もないこと。それをずっと話して、ずっと親身になって聞いてくれていた氷天。
ご飯を一緒に食べるのも、教室から寮までの短い距離を毎日一緒に帰るのも氷天。
このまま大人になって、たまに会ってはお互いどうでもいい話をする間柄が続いていくんだろうな、と玖雷は思っていた。
それがその日の氷天の言葉で、大きく変わった。氷天ははっきりと、玖雷のことが好きだと言った。そう言われて初めて、玖雷は氷天のことを、「好きか好きじゃないか」判断する対象として見た。
「……俺も、そういうことだったのかな」
玖雷も氷天といる時間が、いつしか一番楽しくなっていた。普段は無口で冷たい氷天が、玖雷の前だと無邪気な笑顔をよく見せていた。
「……どうしたの、頬が緩んでる」
それから氷天と一緒にいる時にそのことを思い出しては、玖雷の顔がほころんだ。それまでより一層、氷天と一緒にいられる時間を大切に思うようになった。
―――あの日、氷天が行方不明になって、それから死んだと聞かされるまでは。




