第8話
「被害者は……大谷雅代、27歳……大田区内に住む専業主婦です……」
恭平の事務所を訪れ、事件を報告する頼子の声は震えていた。拳を固く握りしめ、やり場のない怒りを必死に堪えているようだ。
「そう、残念だったね」
一方の恭平の言葉は驚くほどあっさりとしたものだった。頼子には言わなかったが、恐らく間に合わないだろうことはあの時から分かっていた。それでも、この時ばかりは自分の予想が外れることを願ってはいたのだが。
「……っ! 本庄さんは何も感じないんですか!? 犯行が行われるのが分かってて、みすみす被害者を出してしまったんですよ!?」
頼子は堪え切れなくなった怒りを恭平に向けて吐き出した。
「あなたの言ったことは何もかも間違っていたんじゃないんですか!? どれだけ探しても2人が通っていた病院なんて見つからなかった! あんなことしている暇があったら、もっと他に出来ることが……っ!」
ただの八つ当たりであることは頼子自身にも分かっていた。だが誰かにぶちまけなければ、頼子も心の平衡を保てなかったのだ。
「残念だけど、他に出来ることは無かっただろうね。現に他の捜査だって思うように進んでいないだろう? 被害者2人の――いや、3人になったか、その共通点を探すこと以外に、今のところ犯人に近づく方法は無い」
感情を昂らせる頼子に対し、あくまでも恭平の言葉は淡々としていた。それが一層頼子の神経を逆撫でする。
「結局そんなものは見つからなかった! その間に3人目の犠牲者が出たんですよ! それを何とも思わないんですか!?」
まるで事件を防げなかった責任を全て恭平に押し付けるかのような頼子の言葉に、しかし恭平は反論することなく黙って眼を伏せた。
「……なんで……なんで何も言わないんですか……!?」
それからしばらく理不尽な非難を浴びせ続けた後で、ようやく頼子は我に返った。目の前でじっと眼を伏せている恭平の姿に、罪悪感が芽生え始める。
「気は済んだかい?」
頼子の罵声が途切れたのを確認して、恭平が再び眼を開けた。いつも通りの微笑を浮かべ、真っ直ぐにこちらを見る恭平の眼差しに、再び頼子の心に何かがこみ上げそうになった瞬間――
「あっ……」
不意に頼子の頭が力強く引き寄せられた。恭平は頼子の頭の後ろに手を回し、そのまま片手で自分の胸へと誘った。
「な、何するんですか……っ」
突然抱き寄せられ、頼子は軽いパニック状態に陥った。先程までとは違う昂りが胸の鼓動を早鐘のように激しくさせ、顔が熱くなるのがはっきりと感じられた。
「まだそんなものじゃないだろう? 全部吐き出して楽になりなよ」
片手で頭を抱き寄せるだけの、恋人同士のそれとは明らかに違う抱擁。しかし耳元で囁かれた恭平の言葉に、頼子は心の奥深くに押し込めた感情が最後の一線を越えてしまうのを感じた。
「……被害者の……大谷雅代の夫が……遺体の確認に来たんです……」
始めは抵抗とも呼べないような軽い抵抗もしていたが、ついに頼子は恭平の胸に顔を埋めたまま話し始めた。時折しゃくり上げるように声を詰まらせながら話す頼子の声は、顔を見なくても涙を流していることを如実に伝えていた。
「遺体に縋りついて……泣き崩れるあの人に……私……何も言えなかった……っ!」
蒲田警察署の霊安室で妻の名を叫び続ける夫の姿に、頼子の心は張り裂けそうになった。哀しくて、辛くて、犯人が憎くて、だがそれ以上に犯行を防げなかった自分自身の無力さが許せなくて――
一度堰を切った感情は止まることを知らず、ついに頼子は声を上げて泣き始めた。恭平はそんな頼子の頭をぎゅっと強く抱きしめた。
それからどれ位の時間が経っただろう。心の内に渦巻いていた暗く淀んだ感情を全て吐きだした頼子は、まだ涙に濡れる顔を恭平の胸から離した。
「あ、あの……すいませんでした……こんなみっともないこと……」
ほとんど聞き取れない位のか細い声でぼそぼそと謝る頼子の顔は、全てをさらけ出してしまった恥ずかしさで真っ赤に染まっていた。
「気にしない気にしない。でも、その顔はちょっとまずいかな。あっちで化粧を直してくるといい」
いつもの人を喰ったような笑顔に戻った恭平が、涙でぐちゃぐちゃになった頼子の顔を指さした。元々化粧らしい化粧もしてはいないが、顔はパンパンにむくれ、眼は真っ赤に充血している。確かにこのまま外を出歩くのは女として問題があるだろう。
恭平に指摘され、より一層顔を赤らめた頼子が化粧室へ向かおうとした時、頼子の鞄の中から携帯の着信音が聞こえてきた。
「あ、係長? 今、本庄さんの事務所に……えっ、本当ですか!?」
電話は宮田からのようだ。未だに少々上擦ったままの声で応答していた頼子が、驚愕に眼を見開いて大声を上げた。
「はい、すぐ戻ります!」
電話を切った頼子は、そのままドアへと向かった。
「血相変えてどうしたんだい?」
その様子から何事かあったのは容易に察せられる。恭平は今にも部屋を飛び出していきそうな頼子の背中に問いかけた。
「病院が見つかったそうです! 大谷さん――3人目の被害者の夫が証言してくれました」
ドアの前で呼び止められた頼子は、振り返るなり興奮した調子で早口に宮田からの電話の内容を伝えた。どうやら恭平の提言で宮田や頼子らが必死に捜索していた、被害者達が通っていた病院が見つかったようだ。
恭平の予想通り、3人目の大谷雅代も含め、被害者は皆同じメンタルクリニックに通っていた。大谷雅代の夫、大谷史夫の証言により、雅代が通っていた病院は突き止めることが出来た。その病院に、残りの2人も通っていたことが分かったのだ。
「どうやら池田照美は、友人の保険証を使って受診していたようなんです」
池田照美は大滝理事長の斡旋で売春行為を行っていたと恭平は考えている。全て恭平個人の推測でしかなかったが、身許を偽って病院に通っていたという事実は、その仮説に信憑性を持たせた。
「とにかくこれで、被害者の共通点が――」
そこまで言ったところで、頼子は「あっ」と言葉を詰まらせた。先程恭平を散々罵った事を思い出したのだ。ただの八つ当たりのようなものではあったが、結局恭平の考えが正しかったのだと証明され、頼子はばつ悪そうに俯いた。
「おや、どうしたのかな?」
恭平は意地悪な笑顔を浮かべ、頼子をさらに追い詰めた。別に「ほら見ろ、自分の方が正しかっただろ」などと思っているわけではない。ただ単に、肩を落としてうな垂れている頼子をからかうのが面白いだけだ。
「あ、あの……その……どうもすみませんでしたっ!」
恭平の言葉に何も言い返すことが出来ずに小さくなっていた頼子だったが、突然顔を上げ、叫ぶように謝罪するなり逃げるように出て行ってしまった。つくづく分かりやすい反応を見せるものだと、恭平はソファに座って楽しそうに笑った。しかし、これで事件も解決するだろうと思いながら頼子の持ってきた最新の捜査資料を見ていると、突然その顔から笑みが消えた――
その後の警察の捜査は今までの停滞が嘘のように進んでいった。
宮田らは3人の被害者が通っていた『響メンタルクリニック』の医師で院長の響孝介を重要参考人として任意同行した。参考人とは言うものの、扱いは完全に事件の容疑者だ。任意同行というのも形ばかりで、実際は有無を言わさず連行したに等しい。
響メンタルクリニックでは、カウンセリングの際にクライエント(来談者)の生活習慣を聞くことが多いらしい。悩みそのものが生活に密着していることもあれば、ストレスとどう向き合いながら生活を送るかといったアドバイスをする為にも、クライエントの生活習慣を知るのは非常に重要なことだろう。当然ながら、響孝介は被害者3人の生活パターンを知っていたことになる。恭平の言う犯人像にも合致した。
「響孝介は犯行当時のアリバイがありませんでした。3件ともその時間は1人で家にいたと供述していますが、一人暮らしの為証明する人間はいません」
響孝介が連行された翌日、頼子はもうすでに事件が解決したとでもいうような晴れ晴れとした表情で恭平の許を訪れた。
「響孝介には3年前に死に別れた妻がいました。交通事故死だったそうですが、その事故が起きた日というのが、なんと火曜日だったんです」
響孝介が犯人なら、毎週火曜日に犯行が行われた理由もそれで説明が付く。事故当時の妻の年齢は25歳。これは1人目の被害者、加藤翔子と同じ年齢だ。それが単なる偶然だったとしても、被害者3人が全て同年代の若い女性だったのはこれに起因するのではないか。響孝介が犯人だと考えれば、全ての辻褄が合う。
「……凶器の刃物は出てきたのかい?」
やや興奮気味に話す頼子とは反対に、恭平の声は普段より沈んでいた。
「それはまだですけど……なんでそんなに難しい顔してるんですか?」
そこでようやく頼子は、恭平との極端な温度差に気が付いた。恭平はソファに腰掛けたまま、目の前のテーブルの上に並べられた写真をじっと睨みつけている。
何を見ているのかと頼子が覗き込んで見ると、写真は3件の殺害現場のものだった。左に1件目の写真が数枚、右に2件目の写真が同じく数枚、そしてその真ん中に3件目の写真があり、恭平はそれらの写真を見比べるように交互に見続けていた。
「……確かに悲惨な事件でした。でも、これで3人も浮かばれるんじゃないでしょうか」
頼子は恭平の沈黙を事件に対する悲痛と解釈した。そしてそれに同調するような言葉を掛けたが、しかし恭平の心中にあるのはそんなことではなかったようだ。
「凶器は見つかってないんだね?」
写真から顔を上げた恭平は、力強い眼差しで頼子を見た。
「で、ですから、それはまだですけど……」
恭平の思わぬ迫力に気圧され、頼子は言葉を詰まらせた。確かにまだ凶器などの物的証拠は出てきていないが、状況証拠を見れば間違いなく響孝介が犯人で決まりだ。これから家宅捜索令状が下り次第、頼子達は響孝介の自宅や病院内を捜索するつもりでいる。そうすれば凶器発見も時間の問題だと思っていた。
「彼は犯人じゃないかもしれない」
しかし恭平から発せられた言葉は、頼子の度肝を抜くものだった。全く予想外の発言に、頼子は驚きのあまり眼を大きく見開いて固まってしまった。
「ちょ、ちょっと……何言い出すんですか!? 確かにまだ物証は出てきてませんけど、どう考えたって響孝介が犯人で間違いないですよ。本庄さんだって3人が通っていた病院の関係者が犯人だって言ったじゃないですか」
恭平はそこまで言ってはいなかったが、病院の捜索を提言したのは確かだ。その線の先に犯人がいるはずだと思っていたことも事実だし、響孝介が怪しいとする捜査本部や頼子の考えにも同意出来る。しかし恭平の心の中には、どうしても拭い去れない想いが蟠っていた。
「確かに響孝介という男は怪しい。いや、怪し過ぎる。何から何まで彼が犯人だと示しているようだ」
それが気に入らないとでも言うように、恭平は大きく頭を振った。しかし頼子には一体何が不満なのか分からない。
「だから、あの男が犯人で間違いないんですって。凶器だって、これから家宅捜索すれば出てくるはずです」
恭平につられるように、頼子のトーンも次第に落ちていった。響孝介が犯人だという確信が揺らぎそうになる。
「その響孝介は今、警視庁で取り調べを受けているんだよね?」
あくまでも響孝介が犯人に違いないとする頼子の言葉には応えず、恭平は突然立ち上がると、驚いて立ち竦んだ頼子の両肩を掴んだ。
「ちょっとお願いがあるんだけど――」
頼子を見つめる恭平の眼差しは真剣そのものだった。その瞳に魅入られるように眼が離せなくなった頼子だったが、その直後に飛び出した“お願い”に、再び眼を大きく見開いて言葉を失った――
≪続く≫